ヘロン=鷺を意匠とした創作家紋
家紋は自由に作ってもかまわない——意外と知らない方も多いのではないでしょうか。
個人が新しく紋を作ることに制限はなく、自由にデザインし、シンボルマークとするのは、日本では昔から行われてきました。
ラフカディオ・ハーンはここに着目し、自らのアイデンティティ(独自性)を込めた個性的な紋を作ったことで知られています。それが明治23(1890)年から443日にわたる松江滞在中に作成した創作家紋「下げ羽の鷺」(写真下/提供:小泉家)です。

松江市・小泉八雲記念館の館長で、ハーンの曾孫にあたる小泉凡(ぼん)さんは、この紋に込められたハーンの想いを次のように語ります。
「ハーン(hearn)の語源は、鷺を意味するヘロン(heron)でした。彼が2歳で移り住んだアイルランドのハーン家の紋にも、4羽の鷺が描かれています。また、ハーン家のルーツをたどると、フランス・ノルマンディー地方のヘロン村(Le Héron)に行きつくといわれます。この村の名も、同地を流れる川に小魚をついばみにやって来るヘロン=鷺に由来していたと聞いています」
つまり自分のルーツを忘れることがないように、故郷に関連した鳥の姿を家紋に託し、残そうとしたのです。
田んぼをコロニーとし、小魚や蛙などを餌とする鷺は“米の国”日本の至る場所に生息していました。しかも鷺は、越冬のため各地を移動し、松江にも多く飛来します。その姿を見て、欧州→アメリカ→日本を渡り歩いた自分に似ていると考えたのかもしれません。
「ハーンには、先祖にゆかり深い霊鳥(人智を超えた力を持った鳥)のように見えたのかもしれません」と、凡さんも話します。自身も鷺に、不思議な力と縁を感じるそうです。
「私の父(八雲の孫)は戦争中、搭乗していた艦がマリアナ海溝で魚雷攻撃に遭い撃沈されたのですが、海に放り出されたところを、幸運にも日本の水雷艇に助けられました。父を救った水雷艇の名が『サギ』だったのです」
また、凡さんは東京の世田谷の生まれですが、世田谷区の花は『サギソウ』。唇弁(しんべん)の開いた様子が翼を広げた鷺に似た、美しい花です。

今や鷺の紋といえばラフカディオ・ハーン=小泉八雲
家紋をデザインしたのは、島根県尋常中学校のハーンの同僚で、美術教員の後藤金弥(ごとうきんや)でした。「魚州」(ぎょしゅう)の画号を持つ絵師でもありました。
「日本で初めて迎える正月の年始回りの際に、自分の紋が入った紋付を着たくて依頼したそうです」(凡さん)
鳥をモチーフとした家紋は日本に多くあります。最も普及しているのは「鷹の羽」でしょうが、これは羽をモチーフとしており、鳥の姿全体が描かれているわけではありません。
一方、柴田勝家の「雁金」(かりがね)、上杉謙信や伊達政宗・柳生宗矩(やぎゅうむねのり)の「雀」、森蘭丸の「鶴」など、戦国武将が使った鳥の紋はよく知られています。また家紋とは違いますが、日本サッカー協会のシンボル「八咫烏」(やたがらす)は、現代日本を代表するエンブレムといって良いでしょう。
しかし鷺の紋は「鷺桐紋」という、三羽の鷺が桐紋に擬態するように並んだものはありますが、人気薄なのか使う家は多くないようです。したがって家紋に詳しい方の間では、鷺の紋といえば今や真っ先にラフカディオ・ハーン=小泉八雲が連想されるほど知られています。
「小泉」は名字ランキング215位
続いて、ラフカディオ・ハーンが名乗った名字「小泉」に話を進めましょう。もともとは「小さな泉」にちなんで「小泉」と呼ばれた地名が日本各地にあり、そこに定住した人々が地名をそのまま流用した名字です。
「稲作に不可欠な泉が湧く場所の近くに、集落ができ、やがて各地に小泉を名乗る人たちが誕生したと見るのが自然でしょう」
こう語ってくれたのはNHKのバラエティ番組『日本人のおなまえ』(2017〜2022)のレギュラー・コメンテーターを務めていた、姓氏研究家の森岡浩さんです。
「小泉氏」には、下記のような有力な氏族がいました。
【信濃の小泉氏】
信濃国小県郡(ちいさがたぐん)小泉荘(長野県上田市)の開発領主の子孫とみられる氏族。戦国時代は小泉城主として武田氏の家臣。
【大和の小泉氏】
大和国添下郡(そえじもぐん)小泉荘(奈良県大和郡山市小泉町)がルーツ。興福寺の衆徒の出で、戦国時代は筒井氏に従っていた。
【安芸の小泉氏】
安芸国豊田郡小泉村(広島県三原市)がルーツで、桓武平氏の安芸沼田小早川氏の庶流。
これら有力氏族をはじめとした「小泉氏」が各地に散在し、現在の名字ランキングは第215位。分布図(下)を見るとあきらかに東日本に多いとわかります。また県別では神奈川県が最も多く、県内の名字ランキングで第55位です。

紆余曲折を経て松江にたどり着いた妻の実家の歴史
東日本に多い名字の武士が、山陰の出雲国(島根県)松江藩にいたのは、なぜでしょうか?
ラフカディオ・ハーンの妻となった小泉セツの実家は松江藩の上級藩士ですが、この小泉氏は上記の信濃・大和・安芸などとは別の氏族で、出身は近江国(滋賀県)でした。『雲藩烈士録』は、セツの先祖に当たる小泉弥右衛門の「本国(先祖の出た国)」を「近江」と記しています(『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二/潮文庫)。

「小泉分布図(前掲)を見ても、滋賀は小泉姓が比較的多い県です。今も米原市(まいばらし)に小泉という地名(旧名:近江国坂田郡小泉村)があり、ここは伊吹山麓に位置し『桶水』(おけみず)という湧水や、それを農業用水とした『小泉の棚田』で知られる地です。この他、彦根市にも小泉の地名があるので、あるいは彦根が起源かもしれません」(森岡さん)
小泉氏は同じく近江出身の山崎氏の家臣でした。山崎氏は、源平合戦で活躍した宇多源氏(宇多天皇の血を引く源氏)佐々木氏の流れをくむ武士で、江戸時代に編纂(へんさん)された武家の系図集『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)には、次のように記されています。
「相模国山崎に住し、のち近江国に赴き、犬上郡山崎の城に住し」
つまり小泉氏は、鎌倉時代に相模から近江に移住してきた山崎氏に臣従したと考えられます。
この山崎氏が江戸前期まで存続し、寛永18(1641)年に讃岐国(香川県)丸亀藩の藩主となります。小泉氏は藩の家老にまで出世していたといいます。しかし明暦(1655〜1658)の頃、山崎氏が無嗣断絶(後継者がいないため御家取り潰し)となったことから、小泉氏は職を失います。そこで改めて出雲松平家に仕え、幕末を迎えます。明治に入り、一族の娘が外国人と結婚するわけです。

現在の島根県に「小泉さん」が何人いるか、はっきりしませんが、森岡さんは「200人くらい」と分析します。
「全国的に見て小泉さんが少ない県だと思いますが、県内の小泉さんの大半は松江市にいますから、松江藩小泉家の関係の家が多いと考えて良さそうです」(森岡さん)
松江で心を響かせ合った小泉氏とハーン
こうして見ると、小泉氏が幾多の紆余曲折を経て松江に根を下ろした歩みが見て取れます。その姿は異国の地を流浪し、やがて日本へとたどり着いたラフカディオ・ハーンの生涯と、どこか重なって映ります。
ハーンが松江に滞在したのは、443日にすぎません。もっと長く暮らしたかのような印象を受けますね。これは、松江滞在中にセツという女性と出会って「小泉」の姓を名乗り、さらにセツの養祖父が名付け親となって、出雲の国を詠んだ和歌「八雲立つ」にちなんで「八雲」と改名したからでしょう。1年2カ月弱の時間は、ハーンにとって濃密だったに違いないと思えるのです。
ハーンと小泉家は深く心を響かせ合い、互いに欠くことのできぬ存在となることを、運命によって定められていたのかもしれません。
参考資料: 『決定版 面白いほどよくわかる家紋と名字』監修:高澤等・森岡浩 西東社、『八雲の妻 小泉セツの生涯』長谷川洋二 潮文庫
後半の[名字編]に取り上げたデータはすべて森岡浩提供
アイキャッチ画像:(左)ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)肖像写真、明治22(1889)年撮影。提供/小泉家(中)家紋「下げ羽の鷺」提供/小泉家(右)小泉の印鑑/PIXTA

