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2026.07.03

霊峰・富士を水墨画で描く ―線描き、抜き描き―

油絵のように絵の具を重ねて線を消すことはできない──。 水墨画では、筆を走らせた一瞬が、そのまま作品に刻まれます。 このシリーズでは、水墨画家・鮫島圭代の手元を写した、ライブ・パフォーマンスさながらの映像をお届けします。 迷いのない素早い筆運び、墨と水が織り成す滲みや掠れ。 そのとき限りの意図と自然から生まれる “墨の表情”を、ぜひご覧ください。

「富士山」

※絵の中央の▷を押すと動画が再生されます。
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水墨画を描くときには、二の腕の筋肉が必要、といったら意外に思われるだろうか。というのも、筆線の太さや力強さをコントロールするには、腕を宙に浮かせたまま、筆を軽く持ち、和紙の上で軽やかに動かす必要があるのだ。とりわけ山の形を線で描くときには、絶妙な力加減が求められる。

一方で、白く塗り残して山の形を表す場合には、水分量のコントロールが大切だ。筆に含む墨の水分が多すぎれば滲んで広がってしまうし、逆に少なすぎれば、かすれて筆線が不自然に目立ってしまう。

なお、前者の描き方を「線描き」、後者を「抜き描き」という。

鮫島圭代 《富士山に雁》 紙本墨画 2025年

東洋画の伝統には「写意(しゃい)」という考え方がある。これは、対象の形をそのまま写し取る「写実」と対比される概念で、目に見える形を正確に描くことよりも、そのものが持つ本質や雰囲気、そして描き手の思いや心のありようを絵の中に表現しようとするものだ。

江戸時代後期の浮世絵師・葛飾北斎(かつしかほくさい)による錦絵シリーズ『冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)』の富士山と、実際の富士山の写真とを見比べてみよう。江戸時代、富士山は江戸の町からよく見えたというが、北斎は目に見える形を超えた、心に抱く霊峰の姿を描いている。まさに「写意」であろう。

葛飾北斎 《冨嶽三十六景 凱風快晴》 江戸時代・19世紀 東京国立博物館 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)
富士山の写真:Adobe Stock無料素材

それは、雲をつんざくように堂々と気高くそびえ立つ姿だ。

古来、日本人は、標高3,776メートルに及び、なだらかな長い裾野を持つ唯一無二の威容を仰ぎ見て、その美しさに胸を打たれ、憧れた。と同時に、ときに噴火する大自然の脅威に畏怖の念を感じ、礼拝し、心の拠り所としてきた。世界七大霊峰の一つとしても知られ、海外の人々にとっても日本のシンボルとなっている。

富士をテーマとした和歌や絵画は数知れず、遙か奈良時代末の成立と伝わる日本現存最古の和歌集『万葉集』にも、富士を詠んだ和歌が多数収録されている。天高くそびえる山頂に雪を抱く姿を詠んだこの歌もそのひとつだ。

田子の浦ゆうち出でて見れば 真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける

山部宿禰赤人(やまべのすくねあかひと)

『万葉集』巻三・三一七

光琳、其一、蕭白 ―それぞれの霊峰

尾形光琳 《富士三保松原図》 17世紀後半–18世紀 紙本墨画 スミソニアン国立アジア美術館 Creative Commons

富士山を描いた、江戸時代の水墨画の名品を味わおう。

まずは、装飾的な模様と絵画表現を融合させた琳派の絵師・尾形光琳(おがたこうりん)作と伝わる、《富士三保松原図(ふじみほのまつばらず)》だ。

静岡・日本平からの眺めだろうか。光琳は抜き描きで、はっとするほど白い富士の荘厳な姿を軽やかに表し、麓(ふもと)にたなびく雲や、小さく描いた三保松原、そして駿河湾のさざ波でその威容を表現した。

鈴木其一《富士越龍図》1800-1865年 紙本墨画金彩 インディアナポリス美術館(ニューフィールズ) Public Domain

琳派の流れを継いだ江戸後期の絵師・鈴木其一(すずききいつ)の作と伝わる《富士越龍図(ふじこしりゅうず)》もまた、抜き描きによる山容(さんよう 山の姿)だ。

富士山と龍の組み合わせは、「富士」を「不時」、「龍」を「断つ」と書き替えて、「不時を断つ」、すなわち「不幸を断つ」という意味の吉祥画題とされ、江戸時代、多くの絵師が手がけた。北斎が最晩年に墨で描いた《富士越龍図》をご存じの方も多いだろう。

荒波から立ち上り、暗雲をまといながら富士がそびえ立つ天空へと駆け上る龍。力強いエネルギーと洗練されたデザイン感覚が共存し、濃墨(のうぼく)のなかに一筋の雷光が輝いている。

曾我蕭白 《富士三保松原図屏風》 1761-1762年頃 紙本墨画淡彩 シカゴ美術館 Public Domain

最後に、強烈なインパクトといえばこの人、曾我蕭白(そがしょうはく)の作と伝わる《富士三保松原図屏風(ふじみほのまつばらずびょうぶ)》を紹介しよう。

異界の地に降り立ったかのような、まがまがしくも荘厳な富士の姿だ。先ほどの光琳の絵と画題は同じだが、そうとは思えない奇抜さにおののくだろう。10代で両親と兄を亡くし、長年にわたって地方を転々としながら絵筆を握り続けた蕭白が、その心に抱いた富士の姿だろうか。

同様の富士の姿と三保松原、そして空にかかるおおきな虹を描いた、蕭白の《富士三保図屏風(ふじみほずびょうぶ)》(MIHO MUSEUM、滋賀県)を想起した方も多いだろう。

富士を間近に

今年も山開きを迎え、多くの登山客でにぎわう富士山。その姿は、見る方向によって変化する。ぜひこの夏、多くの画家が憧憬と畏敬の念を込めて描いたその姿を、改めて眺めに出かけたい。

画像出典
アイキャッチ画像: 鮫島圭代 《富士山に雁》 紙本墨画 2025年
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鮫島圭代

美術ライター、翻訳家、水墨画家。学習院大学美学美術史学専攻卒。英国カンバーウェル美術大学留学。美術展、美術書、雑誌・Web記事の執筆・翻訳を手がける。著書に「ちいさな展覧会シリーズ 絵のなかの美しい庭」(PIE International)、「正解のない絵画図鑑」(幻冬舎)、「コウペンちゃんとまなぶ世界の名画」(KADOKAWA)、訳書に「ゴッホの地図帖 ヨーロッパをめぐる旅」(講談社)、「男性のいない美術史 女性芸術家たちが描くもうひとつの物語」(PIE International)ほか多数。https://www.tamayosamejima.com/
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