所さんが設立した「GCAT」は岐阜県垂井町に本社を置く創薬企業として知られ、文化事業にも熱心だ。
川端康成の愛した別荘は半世紀近い眠りから覚め、彦根市という歴史ある町で新たに文化を育む場所として動き出そうとしている。
※アイキャッチ画像は文豪カフェ本館で読書する所源亮さん
川端康成ゆかりの「文豪カフェ」が彦根市にオープン
文豪カフェのある「夢京橋キャッスルロード」は、国宝彦根城にほど近い観光スポットだ。お堀にかかる京橋からまっすぐ南西の方角に伸びる通りの両側にはカフェや食事処、和菓子屋や土産物屋などが立ち並び、白壁と黒い格子に統一された町並みは江戸時代を彷彿(ほうふつ)とさせる。
文豪カフェは京橋に近い北側の通りの一角にある。2026年2月に本店、6月には2軒隣に支店がオープンした。本店は私設図書館の趣があり、支店はカフェ・レストラン・ワインバーである。




文豪カフェとは“読む・書く・考える”場所
別荘の部材をアップサイクルして建てた文豪カフェ
川端康成の別荘は、通称「ハッピーバレー」と呼ばれる万平ホテルの裏手の閑静な別荘地内にあり、木造2F建てだった。1940年に川端が外国人宣教師から購入したとされる。当時、鎌倉に住んでいた川端は軽井沢の別荘と自宅を行き来しながら、別荘で小説「みづうみ」などを執筆したという。
解体されたのは2021年のこと。町や町長によって移築保存が検討されたがうまくいかなかった。当時、軽井沢で書店を経営していた所さんが別荘の取り壊しを知ったのは解体の前日だったという。
「潰しちゃもったいないねというわけで、川端財団と解体業者に交渉して『産業廃棄物にするのはもったいない。部材を持って行って使ってもいいか』と交渉したんです」
購入した部材は古材店で洗浄した後、京都大学建築学科の協力を得て窓枠や壁材、柱などを琵琶湖畔の倉庫に運び込み、学術的な調査や記録、分析が行われた後、文豪カフェに使われた。設計図というものはなく、建築の過程で所さんが模索しながら建てていったという。

文豪が生きた時代の空気感に浸る
本店はかつてここにあった駄菓子屋をベースに改築したそうで、駄菓子屋の前は銭湯だったらしい。町の歴史が垣間見える建物だ。格子戸一枚を隔て、外の世界とはまったく異なる空間が広がっている。静寂と安らぎに満ちた空気感は文豪の別荘の雰囲気をそのまま受け継いでいるかのようだ。
蔵書は約5500冊。1、2F合わせて30席以上あり、諸事に煩わされることなく落ち着いて本が読める。明治・大正・昭和・戦後を代表する文豪たちの名著を厳選し、岩波文庫や中公新書、『100分de名著』シリーズ(NHK出版)などもそろっているほか、世界各地の神話や哲学、古代文明、宇宙、日本の古典、詩集など幅広いジャンルの本が並んでいる。営業時間は11時~18時。半日1000円、1日2000円(ドリンクはセルフサービス 学生は半額)で、読書だけでなく思索に耽(ふけ)ったり、文章をしたためるにもよさそうだ。



1Fの読書スペースには川端康成の別荘から解体して運んだという大きな暖炉が据え付けられている。薪をくべ、赤々と燃える炎を見つめながら、文豪は何を思ったのだろう。暖炉の上には川端康成の全集や所さんのコレクションが並び、黄八丈を着て髪を桃割れに結った少女が眠る少女を見つめる竹久夢二の肉筆作品が壁を飾っている。
店内各所に装飾的に使われているべんがら色は、滋賀の特産品・赤こんにゃくの色だ。近江八幡を中心とするエリアの名物で、安土に城を建てた信長が派手なものを好んだからという説もあるが、確かなことはわからない。


奥には友達や家族と語らうことのできる「談話キッチン」のほか、世界一小さな真空管アンプとスピーカーで円盤レコードが聴ける「音響の間」、大和絵画家の大家・中嶌龍文(なかじま りゅうぶん)が7年かけて模写した肉筆の葛飾北斎「富嶽三十六景」が展示された「応接の間」、だれにも邪魔されずに自分の世界に浸れる「瞑想の間」が設けられている。これらは予約制の特別空間だ。
天鵞絨(びろうど)張りの椅子や絨毯(じゅうたん)、重厚な家具。所さんはこれらを“明治的西洋文明の感触”と呼ぶ。小説家が文士と呼ばれた時代だ。「文豪カフェ」とは、文豪が生きた時代の空気感に浸ることのできる場所を言うのだろう。



恋愛から読み解く文豪たち
入り口正面には売店があり、絵ハガキや文具、書籍などのほか、ブータン産のお香に滋養強壮に効果があるとされる冬虫夏草(とうちゅうかそう)などが販売されている。

「ドール」と名付けられた女性の頭部を象った人形たちは「文豪カフェ」のオリジナル。どこかコケティッシュでコミカルな彼女たちにはそれぞれ名前がついている。
清(きよ)・輔子(すけこ)・蓮・貞・せい子・文(ふみ)・ミネ・伊藤初代・矢野綾子・小山初代・聡子
「ドール」は全部で11体。それぞれ夏目漱石・島崎藤村・永井荷風・武者小路実篤・谷崎潤一郎・芥川龍之介・宮沢賢治・川端康成・堀辰雄・太宰治・三島由紀夫が愛した女性や実在の人物をモデルにしたと思われる作中のヒロインたちだ。ハッピーエンドよりも結ばれずに終わった恋の方が多い。
川端康成の初恋の相手は伊藤初代という。福島県会津若松市で生まれ、後に上京。文京区本郷にあった「カフェ・エラン」で働くようになる。当時第一高等学校文科に通う学生だった川端康成は彼女を見初め、婚約する。川端康成22歳、初代は15歳であった。ところが約1か月後、初代は一方的に婚約を破棄。その理由を明かさず、「ある非常」としか告げなかった。失意のどん底に落ちた川端康成だったが、この不幸な恋愛体験は彼の文学に大きな影響を与えたようだ。
「ドール」を作った背景について、所さんはこう述べている。
ここに紹介する人間関係や恋愛のかたちは、明治~昭和期の社会通念や価値観を背景としています。現代とは異なる倫理観が含まれますが、文学作品を生んだ時代の空気を知る手がかりとしてご紹介しています。

こうした遊び心が文学好きの心をくすぐる。
川端康成も寄稿していた雑誌『令女界』
『令女界』を創刊した編集者・藤村耕一
所さんが軽井沢に書店を開いていたことは前に述べた。しかし、所さんと川端康成の縁はそれだけではない。母方の祖父である藤村耕一(ふじむら こういち)は『令女界(れいじょかい)』というハイティーンの女性たちを読者対象とした雑誌の編集長をしており、川端康成は同誌に小説を寄稿していたのである。

藤村耕一とはいったいどんな人物だったのか。皓星社(こうせいしゃ)の河原努氏が書かれたメルマガのバックナンバー「宝文館の編集者(2)」に藤村の人となりや生い立ちが詳しく書かれているので、以下参考にさせていただいた。
1892(明治25)年、藤村耕一は現在の岐阜県関市(当時は武儀郡小金田村)に生まれた。農家の長男だったため、“耕作第一”という意味で「耕一」と名付けられたという。成績優秀だったらしく、尋常小学校(今の小学校)を終えた後、授業料免除の特待生として小学校高等科2年生に編入。卒業後は寺の住職の援助を受けて岐阜県師範学校(後の岐阜大学教育学部)に入学し、卒業後、28歳で伊自良村(いじらむら)大森小学校(現在の山県市立伊自良南小学校)の校長になる。当時、全国最年少であった。この時の教え子に、後に国会議員となった野田卯一や日本画家の加藤栄三らがいる。
教育畑を歩むかに見えた藤村だが、30歳の時、東京の「宝文館」という出版社の社長である大場久吉から少年誌の編集をやってほしいと頼まれ上京。当初は少年雑誌『樫の実』の編集長に就任するが、後に『令女界』を創刊する。1922(大正11)年のことであった。

大場久吉も岐阜県の出身で、藤村となんらかの縁があったらしい。
藤村は教え子だった北村秀雄を岐阜から呼び寄せ、北村も『令女界』の編集に携わるようになる。

『令女界』を彩った画家や作家たち
『令女界』には川端康成をはじめ、吉屋信子や北原白秋、西城八十(さいじょう やそ)、岡本かの子などが小説や短歌などを執筆。また、蕗谷虹児(ふきや こうじ)や岩田専太郎、竹久夢二らが美しく抒情的な挿絵や口絵を描き、人気を博した。
読者から文芸作品を募集して紙面に反映させるという『令女界』の編集方針は文学好きの読者に喜ばれ、投書が山積みになったという。ある日、「投書欄が増やせないなら投書だけのパンフレットでいいから作ってほしい。宝文館の図書目録に投書の一部を載せ、定価を付けて毎月出してみては」という読者からの投書があった。そこで藤村は新雑誌『若草』の創刊を決意する。
『若草』は当初、『令女界』の常連執筆者と編集者の同人誌という体裁でスタートした。今でいうならZINE(ジン)に近いだろう。
藤村は『若草』の表紙絵に竹久夢二を起用。読者文芸欄は女性だけでなく男性にも門戸を開いた。両誌とも1950(昭和25)年まで発行された。


思い出の中の藤村耕一
所さんは幼い頃、祖父と共に暮らしていたという。
「私の父(藤村耕一の娘・やなぎさんの夫 所秀雄さん)は岐阜県垂井町の出身でした。18代前の先祖は竹中半兵衛の家来で、岐阜城を乗っ取った際には1番乗りをしたそうです。その甲斐あってか、一代に限り竹中姓を名乗ることを許されたそうです。父は農林省の官僚でしたので東京の大森にいて、私たちもおじいちゃんと一緒にそこで暮らしていました。小学校3年から中学1年までアメリカに留学していたのでその間のことはわかりませんが、帰国して高校2年までは大森にいました。その後、私たちは青山に引っ越しましたが、おじいちゃんは大森にいましたね」
藤村はイベントなど賑やかなことをするのが好きだったという。「小説家や画家だけでなく、政治家などもよく出入りしていました」と所さん。「東京岐阜県人会」の集まりも自宅で開催していたようだ。
また美しいものを愛でるのが好きだったのだろう。所さんが庭の花を手折ったら、祖父の藤村に張り倒されたことがあったという。
「文豪カフェ」本店の一階には藤村の交友関係の広さを表す屏風がある。解説によれば
藤村のもとに残された書簡・葉書の差出人署名を仕立てた屏風で、現在は額装し展示している。差出人は計285名にのぼり、判明しているだけでも渋沢栄一、犬養毅、若槻禮次郎、鳩山一郎、島津忠重、西郷従徳、川端康成、与謝野晶子、横山大観、木戸幸一など、政財界、華族、文壇、画壇にまたがる顔ぶれが名を連ねる。
とある。


新たな文化の風を起こす
現在、文豪カフェでは月に一度、作家や詩人など多彩なゲストを招いて無料の文学イベントを行っており、琵琶湖に浮かぶ有人島である沖島に移住して小説を書いている櫻木みわさんが監修を務めている。
所さん自身も2024年に『いつの日か、ふたりは恋人』を「新潮社」から発刊して作家の仲間入りをした。数年前から少しずつ琵琶湖の周辺に文化や芸術、哲学などを研究する場所づくりをしている。理由は、琵琶湖は生と死を見つめる場所にふさわしく、琵琶湖が持っている清浄な空気に引かれたからだという。さざ波が打ち寄せる渚の町から新たな文化の風が起ころうとしている。
【取材】
文豪カフェ 彦根市本町2丁目2-3
GCAT株式会社 代表取締役会長:所 源亮さん 岐阜県不破郡垂井町1783番地の5
【参考】
皓星社 メルマガバックナンバー>趣味の近代日本出版史「第7回 宝文館の編集者(2)ー藤村耕一と北村秀雄

