Culture

2026.10.14

「桜のように咲き誇れ」宇野千代の人生は超ポジティブ!情熱の赴くままに人を愛し、人に愛された生涯

2026年度後期のNHK「朝の連続テレビ小説」『ブラッサム』が始まった。
ヒロイン・葉野珠(はの たま)のモデルとなったのは、明治・大正・昭和と激動の時代を駆け抜けた作家・宇野千代だ。
恋多き彼女は小説のほかにも実業家、着物デザイナーなど多方面でマルチな才能を発揮。85歳の時、毎日新聞に連載した自伝的小説『生きていく私』は単行本化され、ミリオンセラーとなった。

宇野千代には生涯愛した心の花があった。それは桜。1967(昭和42)年には岐阜県の「根尾谷(ねおだに)淡墨(うすずみ)ザクラ ※以下淡墨桜」を訪ねている。福島県の三春滝桜、山梨県の山高神代桜と共に、日本三大桜のひとつに数えられる銘木だが、千代が訪れた当時は枯死寸前の痛々しい姿だった。老残の淡墨桜に心を動かされた千代は、その保護と再生に尽力した。桜は今も毎年春になると美しい花を咲かせ、人々に夢と希望を与えている。

宇野千代にとって淡墨桜はいったいどんな存在だったのだろうか。彼女の人生と重ね合わせながら考えてみたい。
※サトザクラ系に薄墨という品種もあるが、ここで登場するのは根尾谷淡墨桜(本巣市HPより)である。宇野千代の小説は「薄墨の桜」となっているが、これは継体天皇が詠んだ和歌に因んでいるかと思われる。

※宇野千代 国会図書館デジタルコレクション 『近代日本人の肖像』より
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/6199

宇野千代と淡墨桜

淡墨桜との出会い

宇野千代の命日は「薄桜忌(はくおうき)」と呼ばれている。千代が亡くなった6月10日には、毎年郷里の山口県岩国市川西にある菩提寺・教蓮寺で法要が営まれている。
薄桜忌のいわれとなったのは、朽ち果てる寸前だった根尾谷淡墨桜(以下淡墨桜と呼ぶ)を惜しみ、千代が保護・存続のために活動したことにちなんでいるという。

岐阜には縁もゆかりもなかった千代に淡墨桜のことを話したのは文芸評論家の小林秀雄だった。小林秀雄もまた桜が大好きで、春になると各地の名だたる桜を見て回るのを楽しみにしていたという。小林もまた桜に魅せられたひとりだった。

小林秀雄 国会図書館デジタルコレクション 『近代日本人の肖像』より

小林秀雄に淡墨桜の話を聞き、感慨を覚えた千代は、東京から遠く離れた岐阜県の根尾谷(ねおだに)にある淡墨桜を見に出かけた。

淡墨桜のある旧根尾村(現在の本巣市根尾)は福井県に隣接しており、近くには奥美濃の最高峰である能郷白山(のうごうはくさん)がそびえている。周辺は豪雪地帯だ。また、旧根尾村は1891(明治24)年に起こった濃尾地震の震源地で、大きな被害を受けた場所でもある。

今でこそ大垣駅から淡墨桜の玄関口である根尾樽見(たるみ)まで樽見鉄道が走り、石川県金沢市と岐阜県岐阜市を結ぶ国道157号も整備されて都会からのアクセスも便利になったが、千代が訪れた昭和40年代前半、根尾は観光地と呼ぶには程遠く、辿(たど)り着くだけでも大変な場所だった。

淡墨桜の由来

淡墨桜の樹齢は1500余歳(千代の書いた感想文には1200年とあるが本巣市のHPなどでは1500余年となっている)。街中でよく見かけるソメイヨシノではなく、彼岸桜(エドヒガンなどともいう)と呼ばれる桜の古木である。野生種で巨樹になることが多く、ソメイヨシノが樹齢60~70年程度であるのに対し、彼岸桜の中には樹齢2000年を超える桜もある。途方もなく長命なのだ。

この桜は4月中旬ごろ、白く可憐な花を咲かせるが、盛りを過ぎるとやや淡い墨色になることから淡墨桜と呼ばれるようになった。

淡墨桜のいわれについては次のような伝説がある。

その昔、ヤマト王権における継承争いが起こり、次の天皇(当時はおおきみと称した)として有力候補に挙がっていた17代履中天皇(りちゅうてんのう)の第一皇子・市邊押盤皇子(いちべのおしはのみこ)は大泊瀬皇子(おおはつせのみこ)に殺害された。大泊瀬皇子は後の雄略(ゆうりゃく)天皇だとされる。市邊押盤皇子の息子や妻は追手を逃れるため身を隠した。やがて孫にあたる男大迹王(をほどのおおきみ、をほどのみこともいう)が生まれると、より安全な場所で養育するため、信頼できる夫婦に男大迹王を託し、人里離れた美濃の山奥へと彼らを逃した。成長した男大迹王は都からの迎えが来たので住み慣れた美濃の地を後にした。住民との別れを惜しんだ男大迹王は屋敷の跡に一本の桜の苗木を植えた。これこそが淡墨桜なのだという。

グラビア誌『太陽』に淡墨桜の感想文を寄稿

枯死寸前の桜に心打たれて

当時、淡墨桜は近隣の人にさえ知られていなかった。根尾まで千代を乗せて行ってくれたタクシーの運転手も「淡墨の桜って聞いたことがありませんなぁ」と答えている。

その夜は「住吉屋」という旅館に泊まった。千代は後にこの住吉屋を常宿として小説『薄墨の桜』を執筆している。翌日は宿の主人に案内してもらって念願の淡墨桜を見に行った。

何を祭ったのか分らぬ小さな神社の、いまにも崩れそうな石垣の下に、その桜があった。「あっ!」と声をのむ感じは、花がきれいだからではない。周囲の柵もまばらで、枝を支えている木も不揃いで、幹囲三丈八尺、約二反歩に拡がるという巨木が、老残の形を支えている姿は無残とも思われたからである。
大きな枝はただ残骸だけになり、その腐った先から新しい枝が出て、か細い花が咲いている。その枝の分れ目の大きく裂けた間に、つげの木が群生しているのが一そう痛ましく、老残の木の枯死する寸前と言う感じを受ける。雨にぬれて、花はしっぽりとすぼんでいるので、晴れたら或いはもっと妖しい感じかも知れないが、一体に蕾も小さく、もう散り際なのか、その名の通り、仄かに淡墨色に見える。(『太陽』1968年4月号 「淡墨桜」枯死するか千二百歳の巨木 宇野千代)

取材にあたり、私も開花時期はとうに終わった薄墨桜を訪ねた。我が家からは車で1時間半ほどの距離である。淡墨桜は国道157号から根尾川を渡り、少し坂を上った高台にある。周囲は根尾谷・淡墨公園になっており、桜の保護のため、周囲には杭が打たれていてすぐそばにはいけないが、堂々たる幹の太さは十分に見て取れた。千代も見たであろう、この幹こそが淡墨桜の生命力の源なのだろうと思うと感無量だった。

筆者撮影

継体天皇お手植えの伝説

千代が訪れた時、そばには桜の縁起を記した木札が立っていた。

継体天皇はこの地を去る時、次の歌を詠んだという。

身の代(しろ)と遺す桜は薄住(うすずみ)よ 千代(ちよ)に其(そ)の名を栄盛(さか)へ止(とど)むる

私の身代わりに遺していく薄住の桜よ(自分はわずかの間しかここにとどまることはできなかったが、そなたは)末永く栄え、その名を留めよ

男大迹王は、後に第26代継体天皇(けいたいてんのう)となった。継体天皇の出自については諸説あるが、それまでの天皇と違って実在した可能性が極めて高いとされ、現在の皇室の直接の祖先ではないかともいわれている。

こう言う古い話は、あとから作られたものかも知れない。しかし私はこう言うとき、まず、その縁起をそのまま信じて見るのが好きである。それを信じると、この桜の孤独な有様が、なお一そう無残に思われる。私は一種の感動に心を奪われ乍ら、もう一度、この桜に万朶(ばんだ)の花を咲かせることは出来ないものか、と考えた。(『太陽』1968年4月号 「淡墨桜」枯死するか千二百歳の巨木 宇野千代)

淡墨桜再生に向けての経緯

宿へ帰った千代は村役場から貸し出された淡墨桜に関する資料を読みあさった。そして、枯死寸前だった桜を根継ぎ法によってよみがえらせた先人がいたことを知る。それは岐阜市内に住む前田利行という医師であった。

前田氏はもともとは歯科医師であったが盆栽作りに長け、老木の起死回生の名手として知られていた。前田氏に淡墨桜再生の話をもちかけたのは、息子洲氏の友人で産婦人科医だった不破成隆氏である。千代が『太陽』に寄せた感想文には前田氏が産婦人科医だったと書かれているが、不破氏についての話を混同したものと思われる。当時、淡墨桜は文部省が派遣した博士からも3年以内に枯死は免れないと診断され、地元では県下有志による淡墨桜顕彰保存会が設立されていた。

前田氏は1948(昭和23)年の秋、淡墨桜について綿密な調査を行った。その結果、回生は可能であると確信し、根に巣食っていたシロアリを駆除。翌年の3月10日から4月5日までかかって根継ぎ法を行った。活力の残っている残根に対して近在の山々から採集した桜の若木の根236本を根継ぎしたのである。

これによって淡墨桜は再生し、再び美しい花を咲かせるようになったのだが、1959(昭和34)年の伊勢湾台風で大きな被害を受け、また無残な姿になってしまった。根尾村では桜の支柱を増やしたり肥料をやったりしたが、再生は遅々として進まなかった。そんな時に千代がやってきたのである。

ペンの力で淡墨桜再生に尽力

帰り道、千代は岐阜市に寄って前田氏を訪ねた。ところが氏は昨年の春に亡くなったという。そこで息子の洲氏に会って、淡墨桜に再び根継ぎをすることが可能かどうかを尋ねたところ、洲氏の答えは、当時作業した大工も植木屋もまだ生きているので、いまなら可能だと思うというものだった。

費用は百万もあったら足りると言う。酸化した古い土を運び出し、新しい土を入れる。かかるのは山までのその運び賃だけだと言う。桜のすぐ傍に水田がある。あの水田を畑に変えると潜気(※水田にこもっている気)が防げる。害虫を除去し、必要なら、あの青々と繁茂しているつげの木も取り払って、もう一度、根継ぎが必要かどうか調べる。いまならそれが出来る。ないのは金ではなく、この淡墨の桜に、もう一度花を咲かせたいという渇望である。(『太陽』1968年4月号 「淡墨桜」枯死するか千二百歳の巨木 宇野千代)

この時、宇野千代は70歳。さすがに自ら鍬(くわ)をふるって土を掘り起こし再生を手伝うことはできなかったが、千代は自らの人生を切り拓いて来たペンに思いのすべてを込めた。グラビア誌『太陽』に『淡墨桜』と題して感想文を寄稿。と同時に、当時岐阜県知事を務めていた平野三郎氏に手紙を書き、なんとかして淡墨桜の枯死を防いでいただきたいと切々と訴えたのである。手紙を読んで淡墨桜を視察した県知事は、県の文化財審議会に淡墨桜の保存を指示。同審議会は岐阜大学の堀武義教授に診断を依頼し、教授は根尾村に対し淡墨桜の保護のための事細かな指示を行った。国や県からはこれらの作業に対して補助金が下りるようになり、近年では4回の延命手術が行われ、桜は毎年春になると千代が願ったように万朶(ばんだ)の花を咲かせている。

千代は後に淡墨桜に着想を得た小説『薄墨の桜』を「新潮」の昭和46年1月号から49年11月号まで執筆。昭和50年4月に新潮社から刊行された。料亭の女将・高雄と美しい養女・芳乃、そして筆者の宇野千代を思わせる着物デザイナーの吉野一枝らが織りなす愛憎劇や複雑な人間模様が浮き彫りにされた『薄墨の桜』は、多くの人々の感動を呼び、淡墨桜はいっそう注目を浴びるようになったのである。

満開の根尾谷淡墨桜。高さ約17、3m、幹囲目通り約9、4m 枝張り(東西)約22、4m、(南北)約24、2m(2019年1月測定 本巣市HP)本巣市商工観光課 画像提供。周辺には淡墨桜の子どもやゆかりの桜の苗木などが植栽されている

1986(昭和61)年4月に薄墨公園に建てられた「薄墨の桜碑」。除幕式には千代も出席して淡墨桜の再生を祝った。筆者撮影

宇野千代、98年の人生を振り返る

初めての結婚 そして恋愛

1897(明治30)年、宇野千代は現在の山口県岩国市川西に生まれた。生母・トモは千代が2歳の時に亡くなり、継母リュウに育てられた。リュウは千代を実子同然に大切に育て、千代もリュウを敬愛していた。

千代は優秀な成績で小学校を卒業し、岩国高等女学校に進学。14歳の時に父親の命令で従兄弟の藤村亮一と結婚するが、わずか10日あまりで離婚した。

父は千代が16歳の時に病死。女学校を卒業した千代は隣町の小学校の代用教員になったが、ここで同僚の教師と激しい恋に落ちる。ところがうわさが広まって懲戒免職となり、いたたまれなくなった千代は朝鮮のソウルにいる恩師を訪ねて海を渡るが、恋人からは手紙で絶縁状を突き付けられるという結果に終わる。辛い恋だった。

千代の恋愛遍歴はこうして始まった。次に出会ったのは14歳で初めて結婚した相手の弟・藤村忠だった。旧制第三高等学校(後の京都大学教養部)の学生だった忠を頼り、千代は京都へ。働きながら家計を支える日々が続いた。

1917(大正6)年、忠の東京帝国大学進学に伴い、ふたりは上京する。千代は20歳だった。本郷に近い家の2階に居を定めると、千代は生活を支えるために仕事を転々とした。女優を夢見たこともあったらしい。

この間、千代は本郷3丁目にあったレストラン燕楽軒(えんらくけん)でウェイトレスとして働いた。燕楽軒は築地精養軒第4代料理長などを務めた西尾益吉が開業した西洋料理店である。中央公論社の向かい辺りにあって、多くの出版関係者や文士らが集まるサロン的存在だった。千代が勤務したのはわずか18日という短い期間だったが、この間に『中央公論』の名編集長として知られた滝田樗陰(たきた ちょいん)や小説家の今東光(こん とうこう)、芥川龍之介らの知遇を得る。これが小説家としてスタートするきっかけにつながった。

さて、忠の帝大卒業を待ってふたりは結婚。千代にとっては二度目の結婚だった。大正9(1920)年、千代は北海道柘植銀行に就職した夫と一緒に北海道へ転居。引っ越しが多いのも千代の人生の特色である。千代は女学校時代に学んだ裁縫の腕を生かし、仕立物などに精を出した。

一方で以前から文学に興味があった千代は小説を書き進め、『時事新報』の懸賞小説に応募したところ、『脂粉(しふん)の顔』が見事一等に入選。200円という賞金を獲得した。「文章がこんなに金になるのか」と驚いた千代は、勢いに乗って『墓を発(あば)く』を執筆し、燕楽軒でウエイトレスをしていた時に知り合った滝田樗陰が編集長を務める「中央公論」に送った。

ところが待てど暮らせどなしのつぶて。しびれをきらした千代は夫には「すぐに帰ってきますからね」と言い置いて札幌から東京へ向かった。

運命の出会い 尾崎士郎のもとへ駆け出した千代

千代の原稿は『中央公論』五月号に掲載され、千代は366円という原稿料を手にした。当時のサラリーマンの初任給が50円~60円であったことを考えると、これはなかなかの大金である。あいさつと今後の仕事の話もできればと再び同誌の編集室を訪れた千代に、評論家の室伏高信(むろふせ こうしん)はある人物を紹介した。それが小説家の尾崎士郎である。尾崎は、千代が「中央公論」の懸賞小説で一等を取った時、第二席だった。偶然の出会いを喜んだ室伏は、3人で尾崎が止宿している本郷の下宿を訪れた。そしてこの日を境に千代は北海道で待つ夫・忠のもとへは二度と帰らなかった、話をするうちに千代と尾崎は深い仲になってしまったのである。まさに運命の出会いだった。

この下宿こそ、文化人版トキワ荘ともいえる伝説の菊富士ホテルだった。この時のことを千代は後にこう書いている。

どれほど良人(おっと)を愛し、どれほど良人を大切に思っていたとしても、私は良人の待っている札幌へは帰らず、尾崎士郎のいるところへ駆け出して行ったのであった。

この後、千代は「駆け出して行った」という言葉を二度も繰り返し、強調している。もはやふたりはお互いにとって必然だった。千代は決して夫が嫌いになったわけではない。それよりも大好きな人が現れたのだ。情熱の赴くままに、千代は尾崎と暮らし始めた。

尾崎士郎 国会図書館デジタルコレクション『近代日本人の肖像』より

本郷にあった菊富士ホテル跡の碑。1914(大正3)年に創業した菊富士ホテルは1944(昭和19)年に営業を終了。建物は旭電化に売却され、1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲で焼失した。筆者撮影

馬込文士村での日々

1923(大正12)年、ふたりは馬込に移り住み、翌年、結婚した。

「尾崎は人に好かれ過ぎるというのが唯一の欠点」と千代が記しているように、馬込には尾崎の人柄を慕って多くの作家仲間が移り住み、1日中、ふたりの家には訪問客が引きも切らなかったようだ。1926(大正15)年から1928(昭和3)年にかけて、馬込には川端康成や詩人の室生犀星、萩原朔太郎らが引っ越してきた。萩原朔太郎の家ではダンスの会が開かれたようだ。千代は馬込文士村におけるファッションリーダー的存在でもあった。洋装を身に着け、長い髪を切り落としてボブスタイルに変身したモダンガール千代。趣味の麻雀も覚えた。そして次々に小説を発表し、ほかの女流作家や編集者とも親交を深めていった。

梶井基次郎と伊豆湯ヶ島

馬込に来た作家のひとり・川端康成は尾崎士郎を高く評価しており、伊豆湯ヶ島温泉に誘った。尾崎について千代も同温泉を訪れるようになった。この時、湯ヶ島には作家の梶井基次郎が結核療養のために滞在しており、『伊豆の踊子』を執筆中の川端を手伝うために川端のいる宿に通っていた。湯ヶ島行きは梶井と馬込文士村の作家や詩人たちとの出会いの場になり、千代と梶井は急に親しくなった。そんなふたりの仲を告げ口する者があり、夫婦間に亀裂が生じていく。

また尾崎も別の女性と親しくなったこともあり、夫婦間の溝はもはや埋めることのできないものとなっていた。1930(昭和5)年、千代と尾崎は正式に離婚する。だが、千代にとって尾崎は生涯忘れることのできない“一番好き”な人だった。

梶井基次郎 国会図書館デジタルコレクション 『近代日本人の肖像』より

洋画家の東郷青児と同棲

昭和がいったいどんな時代だったのか、ひと言で表現するのは難しい。だが少なくとも昭和初期の日本は不景気で、やがて第二次世界大戦へと突入する暗い世相が世の中を覆っていた。閉塞感にみち、退廃的なムードが支配する中、千代はひとりの画家に出会う。その頃、情死未遂というセンセーショナルな事件を起こしたばかりの洋画家・東郷青児(とうごうせいじ)だった。

報知新聞に連載していた小説でガス中毒の場面をよりリアルに表現するため、東郷のもとを訪れた千代は、そのまま東郷との恋に落ち、同棲を始める。1931(昭和6)年、ふたりは世田谷の借地にアトリエ付きのモダンな洋館を建てた。広い芝生に覆われた庭に建つコルビジェ風の真っ白な外壁に覆われた家は建築雑誌に紹介されるほどだった。東郷青児は洋画家だが、建築にも強い関心を持っていたようだ。

この間千代は新居を建築した借金返済のため、東郷の作品を売り歩いたという。人もうらやむ優雅な生活をおくっていた反面、借金取りに苦しめられる日々。しかし、それも千代にとっては小説を書くこやしになったのかもしれない。千代が東郷から聞いた心中未遂の話は、後に『色ざんげ』という作品を生み出した。東郷との生活は、東郷が心中未遂を起こした女性とのよりを戻したことで終わりを告げた。

編集者としてファッション雑誌『スタイル』を創刊

1936(昭和11)年、千代はファッション雑誌『スタイル』を創刊。編集長となる。といっても作家をやめたわけではない。『中央公論』や『婦人公論』などの著名雑誌にはそれまでと変わらず小説やエッセイを発表し続けていたし、それと並行して新しく出版事業に乗り出し、自らも時々モデルとして本誌に登場することもあった。履いていたわらじの数が増えたわけである。

『スタイル』は女性が楽しむことのできる雑誌をつくるという目的のもと、欧米の最新ファッションやコスメ、和服など女性の暮らしに係るさまざまな情報を紹介していた。

公私ともにパートナーとして歩んだ北原武夫

千代が『スタイル』を創刊する頃、新たなパートナーが現れた。それが北原武夫である。

今に残る北原の写真を見ると、その風貌はとても理知的だ。時に冷たくも見える端正な美貌が千代を引き付けたのだろうか。

北原は都(みやこ)新聞(現在の東京新聞の前身のひとつ)の記者で、『スタイル』の取材をするために千代のもとを訪れた。初対面の北原に千代はすっかり惚れこんでしまい、その後毎日、北原に会うために都新聞の玄関まで通ったという。千代より10歳年下で、1939(昭和14)年に結婚した時、千代は42歳、北原は32歳。北原は千代にとって4度目の伴侶(父の命令で結婚させられたものを入れると5度目)、そして最後の結婚相手となった。

千代のすすめで新聞記者をやめて作家に転身した北原は、『スタイル』の編集にも加わった。また千代は1938(昭和13)年に文芸同人誌『文體(ぶんたい)』を創刊し、作家・北原の活躍の場を作った。同誌は1939(昭和14)年に終刊するが、戦後季刊誌として復活。同人には北原のほかに三好達治や井伏鱒二、太宰治らがおり、戦後は小林秀雄の『ゴッホの手紙』、大岡昇平の『野火』、そして千代の代表作となった『おはん』なども掲載された。

『スタイル』の廃刊と復活

『スタイル』は女性が女性のために作った雑誌だった。千代は小説家というだけでなく女性たちのファッションリーダーとして、またこれまで身につけたハイセンスな美的感覚や知性を存分に発揮できる場所として『スタイル』を作り上げ、また読者である女性たちもそんな千代の世界に夢中になっていった。

一方新聞記者時代に家庭欄を担当していた北原は、一般読者がファッションや暮らしに抱く疑問などに対し、各界の著名人が回答する「お洒落問答」という企画を考えるなどして『スタイル』の発展に貢献した。

しかし、軍国主義に支配された日本は次第に戦争への道を突き進んで行く。出版物に対する当局の検閲も厳しくなり、言論や思想の自由は封印されていった。『スタイル』に掲載されているようなファッション写真などは“不適切”という烙印を押されてしまう。千代は『スタイル』という名称を『女性生活』に変更して乗り切ろうとしたが、それも叶わず、1944(昭和19)年、とうとう廃刊を余儀なくされる。

文士たちも戦争に駆り出され、1938(昭和13)年には内閣情報部の要請により「ペン部隊」という組織が結成され、林芙美子や菊池寛、川口松太郎ら文壇の著名人が戦線に派遣され、国民の意識を高揚させるような作品を新聞や雑誌に発表するなどの工作が行われた。

林芙美子  国会図書館デジタルコレクション 『近代日本人の肖像』より

千代自身はこうした動きに対し、その在り方に疑問を投げかけている。夫の北原は1941(昭和16)年に陸軍報道班員として徴用されており、残された千代は妻の思いを『妻の手紙』として発表。また1942(昭和17)年には徳島の人形師を取材して『人形師天狗屋久吉』を書いている。

戦争終結から数か月後、千代は『スタイル』の復刊を決意する。1946(昭和21)年、スタイル社は北原を社長、千代を副社長として再興され、雑誌『スタイル』も復刊を遂げた。『スタイル』の復活は戦時下でオシャレをあきらめざるを得なかった多くの女性たちにとって、自由と希望の象徴でもあっただろう。創刊号は4万部が完売し、年間購読希望者は後を絶たなかったという。

『スタイル』はその後も順調に発刊を続けたが、競合他誌が増えるにつれ売り上げも下降線をたどり、社の経営状態は悪化していく。そして、1959(昭和34)年5月号をもってその役割を終えた。しかし、女性にとって美しくありたいと願う心は明日を生きる希望につながる。敗戦後、物資も乏しい中、『スタイル』は読者の女性たちにささやかな夢と希望を与え続けたのだと思う。

実業家として「宇野千代きもの研究所」を設立 きものデザイナーとなる

千代は洋服だけでなく、着物も好きだった。若い頃から自分で仕立てもやり、パッチワークのように裂(きれ)を接ぎ合わせた「切りばめ」という技法が大好きだったという。

雑誌『スタイル』がまだ好調だった頃、1949(昭和24)年に「宇野千代着物研究所」を設立。1951(昭和26)年には『きもの読本』を創刊する。写真撮影には当代一流のカメラマンを使い、有名呉服店などから借りた着物をスター女優に着せて紹介した。

1951(昭和26)年には銀座に「スタイルの店」と「宇野千代 きものの店」を構えている。

千代は大好きだった桜をモチーフに、きものデザイナーとしても活躍していく。1958(昭和33)年、60歳で渡米。シアトルで開催された見本市では千代が自分でデザインしたきもののショーを開催している。

小説『おはん』の刊行

千代が還暦を迎えた年、代表作となった『おはん』が刊行された。事業の借金返済に苦しめられた50代だったが、その苦労を見事結実させたのである。『おはん』は千代の故郷・岩国を舞台に、幸吉という男が妻のおはんと芸者のおかよとの間で揺れ動く物語だ。優柔不断な男と、彼をめぐる女の情念が静かに燃え上がる。『おはん』のストーリーは『人形師天狗屋久吉』を書いた時に取材した男性の話がもとになっているのだという。

『おはん』は最初、千代が発刊した文芸雑誌『文體』に掲載されたが、同誌がわずか第4号で廃刊になってしまったため、以後は10年以上にわたり、『中央公論』で8回に分けて掲載され、完結した。1957(昭和32)年に「中央公論社」から発刊された同書は批評家たちから大絶賛され、第10回野間文芸賞と第9回女流文学者賞を受賞。1961(昭和36)年にはアメリカ出身の日本文学研究者であるドナルド・キーンの英訳本が発刊され、翌年にはイギリスでも発刊された。歌舞伎や文楽でも上演され、東宝から映画化された(市川崑監督 吉永小百合 石坂浩二 大原麗子ら)

最後の夫・北原武夫との別れ

1964(昭和39)年9月、千代は北原武夫と離婚した。北原は離婚届を持ってきて千代に署名してくれと頼み、その翌日、荷物をまとめて出て行ったという。北原の後姿を見送って家の中に入った千代は少し涙を流した。それは別れが辛くて流したのではなく、長い間一緒にいたなあという感慨の涙であったという。

北原と暮らした約27年間は4度に及ぶ結婚生活(14歳の時の結婚も入れると5度)のうち、一番長かった。千代の母方の従兄弟で銀行員になった藤村忠とは約5年間(正式に離婚するまでは約8年間)、小説家で馬込文士村の中心人物だった尾崎士郎とは約5年間、アニメ『銀河鉄道999』のメーテルを思わせるような抒情に充ちた女性を描いた洋画家の東郷青児とは約4年間の結婚生活で、それに比べると北原との結婚生活は約27年間という長いものであった。北原自身が小説家で千代の事業パートナーでもあったからだろうか。1966(昭和41)年、千代は北原との別れを描いた小説『刺す』を書いている。この時、千代は69歳。男たちとの別れを小説化することで、人生に落とし前をつけていたのかもしれない。

北原が千代にとっては最後の結婚相手となった。以後は死ぬまで秘書の藤江淳子(2023【令和5】年没)と共に暮らした。藤江は千代を40年近く支え続け、千代は藤江を「あっちゃん」と呼んでたいそうかわいがり、信頼していた。

人生は70歳から 超ポジティブシンキングな自称「花咲かばあさん」

98歳という長寿を保った千代にとって、70歳以降の人生は衰えるどころか、実に生き生きとして充ち足りたものだったようだ。千代が淡墨桜に出会ったのはこの頃だった。千代はとてつもない「花咲かばあさん」的パワーを発揮して枯死寸前だった淡墨桜をよみがえらせようとしたばかりか、『薄墨の桜』という小説を書くことで、その存在を日本中に知らしめた。千代はきっと、心の中で桜に呼び掛けていたにちがいない。「生きよ!」と。

千代が85歳の時に「毎日新聞」に連載した自伝的小説『生きて行く私』は大ヒットとなり、日本中に宇野千代旋風が巻き起こった。その赤裸々ともいえる自叙伝的エッセイの終わりは次のように締めくくられている。

自分の幸福も、人の幸福も同じように念願することの出来る境地にまで、歩いて行くのである。その境地のあるところまで、探し当てて歩いて行く道筋こそ、真の人間の生きて行く道標(みちしるべ)ではないかと、思うからである。(『生きて行く私』)

長い人生で、あまたの恋をし、別れを経験してきた千代。だが、どんな時も超ポジティブシンキングで乗り越え、ダークサイドに落ちることはなかった。時には嫉妬や恨みも後悔もし、悲しみの涙を流したこともあっただろうが、それらをすべて昇華し、文学として結実させることで宇野千代の世界観を作り上げていった。

千代は1996(平成8)年6月10日にこの世を去った。その前年には『私、何だか、死なないような気がするんですよ』を著している。

晩年の千代の写真に、着物を身にまとい、ハンドバッグを持ってちょこちょこと歩く姿がある。なんだかそれがとてもかわいいのだ。激しく人を愛し、愛された宇野千代は、今もあちこちで、小さな幸せの花を咲かせているのかもしれない。

桜の花をちりばめたきものを身にまとい、満面の笑みを浮かべる宇野千代 国会図書館デジタルコレクション 『近代日本人の肖像』より

(淡墨桜の写真)
本巣市商工観光課 提供

(参考)
・雑誌『太陽』1968(昭和43)年4月号
『枯死するか千百歳の古木』宇野千代
・別冊『太陽』335 そして、生きて行く私 宇野千代
・NPO宇野千代生家
・本巣市 根尾谷淡墨桜

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里山企画菜の花舎

山寺の坊守(住職の配偶者)。いやというほど緑に囲まれて過ごしているので、たまに都会の空気に触れると狂喜する。書店でのバイトがきっかけでライターの道へ。趣味は知らない所へ行き、知らない人に会い、おいしいものを食べること。ライターは天職かもしれない。3年前から地元で本と古本の店「のきさき書店」を営む。岐阜県在住。
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10,11月号2026.09.01発売

愛♡日本美術の超名品100

※『和樂』6/7月号「和樂スタッフの「推し民藝」P75「『勝山スズ竹伝統工芸』の米とぎザル」の記載に誤りがありました。
(誤)静岡(正)山梨 となります。お詫びして、訂正します。
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