一言で「仏様」といっても色んな名前や姿かたちがあるせいでよくわからない! そんなあなたにお送りする「御仏の履歴書」。仏尊それぞれのプロフィール、ご利益、比較的見学しやすい御像などなどの基本情報をシリーズでご紹介します。
第一回は仏教といえばこの人、開祖の釈迦如来です。
1.基本情報
【名前】 釈迦如来
【呼称】 釈迦牟尼〔意味・釈迦族の聖者〕、お釈迦様、釈尊など
【仏格】 如来(すでに悟りを開いている最高の覚者)
【本名】 ガウタマ・シッダールタ(ゴータマ・シッダッタ)
गौतम शिद्धार्थ Gautam Śiddhārtha/Gotama Siddhattha
【故地】 インド東北部からネパールあたり一帯
2.プロフィール
お釈迦様は仏教で信仰されている諸仏諸神の中で唯一実在した「人間」であり、仏教に属する宗派であれば必ず尊崇の対象としています(仏教は宗派ごとに主となる尊格が違います)。
ただし、実在の人物といいつつもその実態はかなり謎。仏陀(悟った人)となる前にどんな前半生を送ったかもよくわからないのです。
「え? お釈迦様の伝記って色々と書かれているし、お誕生日や命日にかかわる行事もあるよね?」と思ったかもしれませんが、実はそれらのほとんどが後世、釈迦信仰が盛んになってから創作されたものだったりします。
生まれ育った場所や本名を示す明確な史料はありません。生没年は年どころか年代でさえ曖昧で、紀元前5世紀から4世紀前後の間で諸説あります。
史実と考えて間違いなさそうなのは、彼が釈迦族(シャーキャ族)というクシャトリヤ階級(日本でいうところの武士階級)に跡継ぎとして生まれた人であるということ、「人生は苦である」と考え「苦」から逃れるために出家して解脱しようとしたこと、そして悟りを開き自らの教団を形成したこと、ぐらいなのです。
お釈迦様の弟子たちはどうしてちゃんと記録を残さなかったの? と思うかもしれませんが、その理由の一つとして考えられるのはお釈迦様の遺言です。
お釈迦様は入滅、つまりお亡くなりになる際に、弟子たちに向かって「私が説いた教えと戒律だけを師としなさい」と言い遺しました。つまり、個人崇拝を良しとされなかったのです。あくまで「正しい知恵と行い」こそが仏教の本体であると考えていたのでしょう。
よって、初期の仏教教団はお釈迦様の教えを実践し、後世に伝えることを主な目的にしていました。
しかし、偉大な始祖への敬慕は尽きることなく、やがて「釈迦信仰」が生まれていきます。そんな人々の期待に応えるため、お釈迦様に関する様々な伝説や仏像が生まれたのです。
3.信仰の形
最初に釈迦信仰の拠り所となったのは「仏塔」でした。仏塔はお釈迦様の遺骨である仏舎利を収めた墓標のようなもので、人々はそれをお釈迦様に見立てて礼拝しました。日本のお寺にも五重塔など立派な塔がありますが、あれは単なる飾りではなく、初期仏教の信仰形態の名残。本来は本堂よりも大切な建物だったのですね。
その後、仏教がインド全土から西アジアの広い地域にまで広がっていくと、徐々にお釈迦様を「形」として表す習慣が生まれていきます。難しい言葉や文字のわからない一般庶民が拝む対象となるビジュアルを求めたのは自然な成り行きだったのでしょう。とはいえ、当初は仏陀となった人の姿は形に表せない、または仏陀を形として見ようとするのは間違いであるという考え方が優勢であったため、仏像ではなく菩提樹や足跡、法輪などのシンボルとして描かれました。
人の姿をした仏像が造られるようになったのは、ぐっと時代が下がった紀元2世紀から3世紀のことです。つまり、お釈迦様が亡くなって約600年も経ってからということになります。なんだか人間離れしたあのお姿には、そんな事情があったようです。ただし、唯一の実在の人物であるがゆえに、お釈迦様には普通の立像や坐像だけでなく、誕生時と入滅時の姿を象る像も作成されるようになります。誕生仏と涅槃仏がそれです。
他の仏様にも一応「悟りを開く前」のストーリーは用意されているのですが、誕生から死までが語られるのはお釈迦様のみ。これもまた、お釈迦様が「人」であったが故といえるでしょう。
4.教えのポイント
お釈迦様は「生きることとはすなわち苦しみの連続であり、たとえ楽しいことやうれしいことがあっても、それ自体がまた苦の原因になる。そして、生命体として輪廻転生を繰り返しているうちは決してその苦しみから逃れることはできない。逃れるためには解脱して転生の輪から外れなければならない」と考えました。仏教の教えは一つ残らずこの認識の上に成り立っています。浄土に往生するのも、禅で悟るのも、法華経を信仰するのも、全て「悟りを開いて解脱し、輪廻の輪から外れて苦しみを終わらせる」ためなのです。
なお、初期の仏教教団では、お釈迦様の教えに基づいて、悟りは出家して修行しなければ得ることはできないとしていました。この考え方は今でも南/東南アジアを中心に信仰されている南伝仏教で固く守られています。
5.所依の経典
当初、教義や戒律はお釈迦様の母語であったと見られる古マガダ語(またはその影響が強い俗語)を使った詩の形にまとめ、口伝えで暗誦されていました。
しかし、時代が下るにつれ、インドの主要な言語であるパーリ語に移し、紙に写筆され、経典としてまとめられるようになったのです。最初の経典がいつ頃できたのは不明ですが、お釈迦様の入滅から200年ほど経った頃ではないかとみられています。
- スッタ・ニパータ
仏教最初期に作られたパーリ語による経典。諸聖典のうち最も古いと考えられ、お釈迦様の言葉が比較的正確に残っているとされます。様々な階層の人々と問答を繰り広げ、相手が理解しやすいように言い方や言葉を選びながら教えを説く様子が興味深いところです。この経典に関しては、日本に仏教が入った段階では一部が断片的に伝わっただけで、明治期以降、西洋の仏教学経由で一般にも知られるようになりました。「今のひとびとは自分の利益のために交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め」
読むなら→ 岩波文庫『ブッダのことば スッタニパータ』/訳 (書籍情報はこちら)
- ダンマパタ(「法句経」)
同じく初期仏教の経典。こちらは漢訳されて「法句経」として日本にも伝わっています。「すべての悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、これが諸の仏の教えである」
読むなら→ 岩波文庫『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元/訳 (書籍情報はこちら)
6.通年公開されている有名な像と見どころ
- 釈迦如来像(通称:飛鳥大仏)
飛鳥寺の本尊。火事などによって何度も損壊したためほとんどがお体のほとんどが後から修理されたものですが、全体的に造像当初の面影が残っているとされています。
所在:奈良県高市郡明日香村 飛鳥寺 - 釈迦三尊像
国宝。日本で名が残る最初の仏師である鞍作止利(くらつくりのとり)によって、聖徳太子等身の像として作られたとされる像。両脇侍の尊格は薬王/薬上菩薩とされていますが、詳細は不明。なお、一般的な釈迦三尊像では脇侍の多くは獅子に乗った文殊菩薩と象に乗った普賢菩薩です。
所在:奈良県生駒郡斑鳩町 法隆寺 - 石造釈迦涅槃像(通称:塔ノ沢の寝釈迦)
登山道の途中にある石仏。横の長さが三メートルを超える大きな仏様で、来歴は不明ですが少なくとも江戸時代天明年間より前には造像されていたことがわかっています。
所在:群馬県みどり市袈裟丸山 塔ノ沢筋の道筋
*特別な事情で非公開になっている場合もあるので、お参りの際には必ず情報を確認してください。
7.ご利益
他の仏様と違い、お釈迦様に現世利益を期待することはあまりありません。現世での楽しみは「苦」であると喝破された方なのですから当然ですよね。あえて言うならば「正しい知恵を授け、悟りへ導くこと」がお釈迦様のご利益なのかもしれません。