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Culture
2019.10.25

戦国時代の新しい職業「御伽衆」とは?ルーツや条件などその実態を解説

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いつの世も独りは寂しいものだ。

秋の夜長、ふと目を覚ますと、ぐるぐると色んなことが頭を駆け巡る。なにも、そんな、今思い出さなくてもいいじゃないということまで。思いの外、人の雑念はしぶとくて、どうにもならない時がある。そんな時につけるのがラジオ。非常に有難い存在だ。ディープな内容の話に聴き入ることもあれば、ただバックミュージック的に流すことも。夜のお供にうってつけの頼もしいヤツ。

そこで考えた。昔はどうしたのだろう。ラジオなどない時代。眠れないとき、いや、眠ってはいけないとき、人はどのように過ごしたのか。特に権力者であればあるほど孤独で、悩みは尽きないだろう。

時は戦国時代。戦乱の世では、何日、何年も続く合戦もある。この戦陣の中で、君主のそばに仕え、ラジオ的な役割を果たしたのが「御伽衆(おとぎしゅう)」だ。

戦国時代の新しい職業となった「御伽衆」。その実態に迫る。

御伽衆のルーツは室町時代の「御相伴衆」

御伽衆(おとぎしゅう)のルーツは、室町幕府の役職にみることができる。

室町時代、将軍の次に地位が高かったのは「管領(かんれい)」と呼ばれる役職の方々。といっても、「三管領」と呼ばれるだけあって、誰でもその地位に就けたわけではなく、細川(ほそかわ)・斯波(しば)・畠山(はたけやま)の三家が交代で独占していた。

そして、この管領の次にあった役職といわれているのが、「御相伴衆(ごしょうばんしゅう)」。簡単にいえば、将軍が他家を訪問する場合や殿中での饗宴があった場合に「ついていく人」である。ただ、小姓のようなお付き的な存在ではなく、一緒にゲストとして迎えられるようなイメージだ。将軍随行という方がわかりやすいかもしれない。そのため、当然、将軍のそばにいても見劣りしない人物、格式備えた人物でなければ務まらない。実際に「管領」を務めた一族など、名実ともに軍事力、発言力もある現役大名がなるような役職であった。

その後、室町幕府は衰退、戦国時代の幕開けとなる。それとともに、各地の大名も「御相伴衆」と同じよう役割をそばに置くようになっていった。それが「御伽衆」だ。

「伽(とぎ)」とは、もともと人が多数集まって眠らずに夜を過ごすという意味という。眠らないように咄(はなし)をすることが転じ、戦陣の中、君主のそばで話をすることが「御伽(おとぎ)」と呼ばれ、新しい職業となった。

豊臣秀吉の御伽衆には豪華なメンツが勢揃い

戦国大名はそれぞれ、独自の御伽衆を抱えていた。織田信長をはじめ、武田信玄や毛利元就(もうりもとなり)など、少なくて3人、多くて10人を超える人数で、御伽衆を用いていたという記録がある。

そして、ケタ違いの御伽衆を抱えていたのが、豊臣秀吉である。なんと、その数800人ほど。朝鮮出兵の際に肥前名護屋城(びぜんなごやじょう)まで連れて行ったというから、規模が違う。

さらに、そのメンバーときたら錚々たる顔ぶれで、豪華であった。まあ、800人もいたのだから、その多様性はいうまでもないというところか。元将軍から、名家の武将、僧侶、商人から茶人まで多彩に取り揃え、豊臣秀吉らしい選出で民間人も含まれていた。先見の明なのか、豊臣秀吉はこの頃から既にダイバーシティに取り組んでいたといえる。

豊臣秀吉像

さて、秀吉ご自慢のメンツ、やはりどのような人物がいたのかは気になるところだろう。
最初にご紹介するのは、室町幕府15代将軍の足利義昭(あしかがよしあき)。織田信長に京都から追放されて流浪したのち、あまり知られてはいないが、秀吉の保護を受けて御伽衆となっていた。もちろん、これは信長が死んだ後の話だ。

次に、かつての主君である織田信長の血筋を受け継ぐものたちを秀吉は取り込んだ。信長の子である信雄、弟である信包(のぶかね)、同じく弟で茶人の有楽斎(うらくさい)。彼らも、秀吉のもとに御伽衆として召し抱えられた。一般的には、織田家を取り込むことで自身の政権の正統性を維持したい意図だと考えるだろう。しかし私には、それよりも憧憬していた織田信長の面影を残す者をそばに置きたいという欲望が、垣間見える気がする。これは、織田家に関わる姫君を3人も側室にしたことからも推測できるだろう。

さらに、元近江守護の六角義賢(ろっかくよしかた)親子や、信長の配下であった荒木村重(あらきむらしげ)、山名宗全(やまなそうぜん)の子孫である山名豊国(やまなとよくに)など、かつての名家も御伽衆に名を連ねている。

その他、茶人も多かった。千利休や今井宗薫(いまいそうくん)、織部流の祖である古田織部(ふるたおりべ)なども御伽衆となっている。

御伽衆の絶対的な条件とは?

こうして、御伽衆は豊臣秀吉の時代に最盛期を迎える。

特に、農民という出自に大きなコンプレックスを持っていた秀吉は、ただの暇つぶしの話し相手というよりは、知識や情報を得る相手として御伽衆を重宝していたようである。気軽に意見を聞ける参謀的な役割も担っていた。そのため、御伽衆の条件としては、様々な知識や情報などを与えるだけの知見を兼ね備えなければならない。だからこそ、天下人の豊臣秀吉の御伽衆には、元武将や名家など、国を治めた経験を持つメンツを揃えたと考えられる。

また、聴くからには話がうまくなければならない。話術に秀でたことも御伽衆の条件だったといえる。いかに、退屈させずに興味を持って聴いてもらえるか、その創意工夫が現在の「講談」のネタに活かされているとか。一説には、落語のもとになったともいわれている。

この御伽衆、江戸時代になると、統治制度が整備されたため、需要も少なくなり、しだいに姿を消していく。そういう意味では、戦国時代の特徴ともいえる現象だったのかもしれない。

もし、豊臣秀吉が現代に生きたとしたら何と言うか。800人もの御伽衆を使いこなしていたのだから、過剰な情報にさらされている現代でも、難なく適応できるだろう。きっと、スマホは手放せないに違いない。

参考文献
『戦国武将の明暗』 本郷和人著 新潮社 2015年3月
『戦国時代の大誤解』 熊谷充亮二著 彩図社 2015年1月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。