Culture
2020.02.20

トントントントン♪ヒノノニトン♪世界に誇る「日野自動車」の技術と歴史を徹底取材!

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「トントントントン ヒノノニトン」のフレーズを耳にしたことのある人も多いのではないでしょうか。
そう、日本国内だけでなく世界的にも高い技術力で知られている日野自動車のCMで使われているフレーズですよね。
そんな日野自動車は乗用車を製造・販売しているわけではないので、日常生活ではあまり関わりがないと思っている人も多いかもしれないですが、実は日本人であれば必ずと言っていいほど日野自動車製品と接しているのです。
日本の物流や人員輸送を支え、日本の車技術に大きな進歩をもたらした日野自動車の歴史と発展を取材させていただきました!
そこで今回伺ったのは、東京都八王子市にある「日野オートプラザ」。
日野自動車だけでなく、日本のトラックやバスの歴史を学ぶことができる博物館です。
日野オートプラザ夏目さんと、日野自動車広報部・皆川さんに取材にご協力いただき、日野自動車の歴史について詳しいお話を伺いました。

日野オートプラザ外観

日野自動車が創設されるまで

源流は東京瓦斯工業株式会社

日野自動車の源流は、実は自動車関連の事業ではなく、ガス器具の会社である「東京瓦斯(ガス)工業株式会社」。
その歴史は、ガス灯が街に整備され明るさと賑わいが増していた明治時代までさかのぼります。
当時、ガス灯インフラで独占していた「東京瓦斯株式会社」の牙城を崩そうと「千代田瓦斯株式会社」が設立され、その専属部品会社として1910年(明治43年)に「東京瓦斯工業株式会社」が設立されたのです。

敏腕経営者・松方五郎氏の就任

初代社長である徳久恒範氏が就任半年で急逝したことで、二代目社長に明治政府元勲・松方正義氏の息子である松方五郎氏が就任。
若干36歳での就任ながら、その後の会社経営でその手腕を発揮させました。
まず、就任早々に訪れたのが吸収合併。
千代田瓦斯株式会社が東京瓦斯株式会社に吸収合併されると、松方氏はガス器具だけでなく自動計器やエナメルなどの事業も開始します。
そして電気インフラが整備されてきた頃合いを見計らい、電気製品の部品開発事業を開始。
1913年には社名も「東京瓦斯電気工業株式会社」と変更し、爆弾の着火装置の製造などに手を広げました。
時は第一次世界大戦の真っただ中であり、ロシアから東京瓦斯電気工業へ軍需品の大量注文が相次ぎ、事業が拡大していったのです。

異才技術者・星子勇氏の参入


第一次世界大戦でイギリスやフランスの戦車が活躍しているのを目の当たりにした日本は、軍用自動車を強化する流れに。
それを見逃さなかったのが松方氏です。
1917年には「日本自動車株式会社」で技師長を務めていた星子勇氏を招き入れました。
星子氏は軍用トラックの製造だけでなく、独自設計のトラック開発にも挑み、日本初の純国産量産トラック「TGE-A型トラック」の開発に成功しました。
このTGE-A型トラックは日野自動車の原点としていまだに語り継がれており、日野オートプラザのエントランスホールにはレプリカが展示されています。

TGE-A型トラック

戦後恐慌と関東大震災からの立ち直り

右肩上がりだった経営に陰りが見えだしたのが、第一次世界大戦後の戦後恐慌と1923年の関東大震災。
日本経済の勢いがなくなっていくのと比例し、東京瓦斯電気工業も業績が悪化していきました。
そんな中でも松方氏は会社の存続のために奔走し、星子氏は新製品の開発に力を注いで日本初の国産航空エンジン「神風」や軍用自動車を開発・生産したことで、再び技術力に注目が集まりました。
ちなみに、関東大震災後は復興のための物流や人員輸送をするためにトラックが大活躍して生産台数も増加しましたが、ほとんどがアメリカ製のトラックで、東京瓦斯電気工業のトラックはあまり使われなかったそうです。
その後、1930年代には国をあげての国産愛用運動や重工業化の推進により、石川島自動車製作所とダット自動車製造が合併し、東京瓦斯電気工業は合同開発など行い自動車産業を盛り上げていったのです。

日野自動車の元となる「日野重工業」の誕生

石川島自動車製作所とダット自動車製造の合併会社に1937年には東京瓦斯電気工業も参画し、「東京自動車工業株式会社」が設立されました。
その4年後に「ヂーゼル自動車工業株式会社」と社名変更を遂げ、東京都日野市に軍用車専用工場として日野製造所が作られました。
その頃の日野市には陸軍の施設があったため、この土地が選ばれたそうです。
それと同時期に、松方氏は星子氏やベテラン営業マン・大久保正二氏に引導を渡して第一線を退いたのです。
第二次世界大戦中の1942年には日野製造所がヂーゼル自動車工業から独立し、現在の日野自動車の前身でもある「日野重工業株式会社」が設立されました。
ちなみに、ヂーゼル自動車工業は現在の「いすゞ自動車株式会社」の前身。
現在でも日本の物流を支えるライバルとして活躍している二社の誕生となりました。

戦後の日野自動車の歩み

「ディーゼル車の日野」の礎を築く

第二次世界大戦では海上戦と空中戦が主となったため、日野重工業は得意な自動車製造を縮小せざるを得ない状況となっていました。
更に、欧米からの石油輸入が制限されるようになりガソリンが不足。
そんな中で注目を浴びたのが、ディーゼルエンジンでした。
ディーゼルエンジンに関しては星子氏が入社当初から研究を重ねていたため、戦中の陸軍は日野重工業にディーゼルエンジン開発の作業中核を担うよう指示したのです。
これが、後に「ディーゼル車の日野」としての地位を築く礎となりました。
ところが、1944年に星子氏が急逝。
翌年には、アメリカ空軍によって工場が空襲を受けるという悲劇が続きました。
しかし、星子氏の意思を継いだ工員たちの決死の行動により、工場は鎮火され大きな被害を受けることなく済んだそうです。

第二次世界大戦終戦

軍とともに戦ってきた日野重工業に、終戦の知らせが入ってきたのは1945年のことです。
当時の従業員数は約7,000人。
軍用車の開発・製造をメインにここまでやってきた日野重工業にとって、その数の社員たちを戦後も守っていくことは難しいという結論になりました。
長年貢献してきた社員たちには相当額の退職金が支払われたそうです。
そして、大久保正二氏は重役全員の辞表を手に、大株主の戦時金融金庫の扉を開きました。
しかし、総裁の口からは「辞表は受け取らない、頑張りなさい」のひとこと。
「この先どうしよう」という不安と「会社をどうにかしたい」というかすかな希望を持つ大久保氏のもとに、技術者の家本潔氏や内田一郎氏、更には東京瓦斯工業時代の社長・松方五郎氏などが集まり、会社再建に向けた動きが始まるのです。

戦後復興と会社再建

T10・T20型トレーラートラック

それまで軍需工場だった日野重工業は、1946年に民需転換の許可を得て「日野産業株式会社」と社名も改めました。
ところが、戦後で物資が調達できない上に、補修作業に追われて自動車製造どころではない同社。
戦後で自動車製造にかけるリソースがない中、自社が製造していたトラックよりも遥かに大きなアメリカ軍のトレーラートラックが通り過ぎていくのを見て、大久保氏をはじめとするメンバーたちは「欧米に匹敵するトレーラートラック製造で再建する」という目標を持ったのです。
そんな折、純国産トラックの開発・製造の話が舞い込み、若い技術者たちを中心に「T10・20型トレーラートラック」が開発されました。
終戦から一年ほど経った街を国産トラックが走る姿は、日本国民を勇気づけたことでしょう。
更に1947年にはディーゼルエンジンのバス「T11B・T25型トレーラーバス」の試作に成功し、鉄道網に代わって96人もの大人数を輸送できる乗り物に戦後の国民は歓喜しました。
各鉄道会社やバス会社からの注文が相次ぎ、日野産業は物流だけでなく人員輸送の道をも切り開いたのです。

T11B・T25型トレーラーバス

トラック、バスの量産

BH10型バス

1948年には社名を「日野ヂーゼル工業株式会社」に変更し、販売部門を独立させて「日野ヂーゼル販売株式会社」としてスタート。
翌年にはボンネット型トラックで8トンもの荷物を輸送できる「TH10型トラック」を開発し、戦後復興期の物流に大きく貢献しました。
更に、大型のディーゼル式バス「BH10型バス」と150人乗りの電気自動車「トロリーバス」の開発にも成功し、大量生産が始まりました。
高い技術力と先進的なデザインは国内だけでなく世界各国の注目を浴びたのです。

小型乗用車への参戦とトヨタとの提携

ルノーとの提携

ルノー4CV

朝鮮戦争の特需やトラック・バスの輸出によって経営が軌道に乗る日野ヂーゼル工業が、自家用乗用車の開発に踏み切ることを決めたのは至って当然の流れだったでしょう。
当時の消費者は外国車を好んで購入しており、1952年の国産乗用車シェアはわずか32%。
そこで、大久保氏は外国車メーカーとの業務提携を考え世界中のメーカーに呼びかけた結果、なんとヨーロッパ屈指の総合自動車メーカーであるフランス国営「ルノー公団」からの申し入れがあり、それを受けることにしたのです。
当時の社長である大久保氏はルノー公団首脳に対し、ルノーの技術を吸収し5年後に国産化を認めるよう交渉。
1953年にルノーがこれを認めるかたちで最終合意に至りました。
フランス初のミリオンセラーとなった小型自動車「ルノー4CV」の組立工場を新設し、日本での販売が開始されました。
ルノー4CVの現物は日野オートプラザ内に展示されており、多くの車ファンが一目見るために遠路はるばる訪れているのだとか。
実際に私も見たのですが、コロンとしたフォルムはかわいさもかっこよさもあり、レトロでアンティークな雰囲気が現代でも十分通用すると感じました。

総合自動車メーカーへと進歩

ルノーをはじめとする外国の自動車メーカーとの業務提携と並行し、新しいバスやトラックの開発にも尽力していた日野ヂーゼル工業。
エンジンを床下に配置するアンダーフロアエンジンバス「ブルーリボン号」や、高度成長期の建設現場で大活躍した「ZG10型ダンプトラック」がその頃の代表的な車種です。
高い性能をもつバスやトラックの輸出注文が相次ぐ中、ルノーの小型自動車製造技術も着実に内製化していきました。
時代は、神武景気という高度経済成長期の真っただ中。
自家用車を所有する国民の割合も急速に増加していったのです。

不況を乗り越える

神武景気が終息を迎えて不況の波が訪れた日本は自動車需要が冷え込みましたが、輸出も好調だった日野ヂーゼル工業はなんとか持ちこたえ、新車種「BD14P型バス」の開発に成功。
空気圧で車高を調整して衝撃を緩和するエアサスペンション機構を導入し、「自動車工業の革命」とまで言われました。
更に「ZG12トン積ダンプトラック」がブリュッセル万博で銀賞を受賞し、日野の技術が世界的に認められたのです。
1959年には日野ヂーゼル販売と日野ルノー販売を合併して「日野自動車販売株式会社」とし、次いで日野ヂーゼル工業が「日野自動車工業株式会社」と社名変更し、日本初のミニバン「日野コンマース」の発売に至りました。
翌年には不況が終息して神武景気以上の好景気である岩戸景気が起こり、国内の小型乗用車のマーケットにも大きな動きが訪れたのです。

小型自動車部門への本格進出

コンテッサ

国内の自動車メーカーがこぞって小型乗用車の開発を進めている最中、日野自動車工業も同じく小型乗用車の開発に翻弄していました。
大衆車製造の夢を叶えずに没した星子氏の遺志を継いだ家本氏が陣頭指揮を執り、1961年に「コンテッサ900」が生まれたのです。
高戸正徳氏がデザインした優雅で美しいフォルムと、スポーツカー並みの性能のコンテッサ900は、当時の国民を魅了しただけでなく現在でもファンが多い車種。
日野オートプラザに展示されているので、ぜひ現物を見て美しさを確かめていただきたいです。
そんなコンテッサ900は1963年の第一回日本グランプリレースグランプリレースに出場し、C-Ⅲ(700~1000㏄)クラスで優勝、欧米の名だたる自動車メーカーと肩を並べる存在となりました。
その後、ジョバンニ・ミケロッティがデザインを担当したコンテッサ1300は、コンテッサ900を超える美しさで欧州のデザイン賞を数多く受賞し世界の注目の的となり、アジア諸国だけでなく欧米への輸出も始まるのです。

トヨタとの業務提携

ハイラックス

アメリカに次ぐ第二の自動車生産国となった日本でしたが、貿易だけでなく資本の自由化も謳われはじめ、日本の自動車工業が外国資本に取り込まれるのも時間の問題と思われていました。
そこで通商産業省は、日野とトヨタの合併を呼びかけ。
こうして、コンテッサが日野ブランド最後のオリジナル小型乗用車となってしまうのですが、両社ともにメリットのある業務提携が実現したのです。
一つ目のメリットは、トヨタのカンバン方式を徹底的に学んだ日野が業務改革を実現したこと。
そして二つ目が、名車「トヨタ・ハイラックス」の製造開始。
中小企業を中心に売れ行き好調だった3人乗り小型トラック「日野ブリスカ」が1967年から「トヨタ・ブリスカ」として販売開始し、翌年にはブリスカを基盤とした次期小型トラックの開発に着手するのですが、それが歴史的名車の「トヨタ・ハイラックス」となったのです。
ハイラックスを中心としたトヨタ車の受託生産は、日野自動車工業の収益安定化につながりました。

「トラックの日野」としての歩み

新車種を続々と発表

赤いエンジン

1969年には東名高速道路が開通して輸送の網が整った頃、日野自動車工業はTCトラックシリーズが全5車種、KBトラックシリーズが全7車種になったほか、中型トラックのKLシリーズ全4車種を世に出しました。
「赤いエンジン」と呼ばれたEF100型エンジンの開発や、海外でのアフターサービスの充実など、ハード面・ソフト面で市場のニーズに応え続け、トラックメーカーとして名を馳せる存在となりました。
1973年には中型トラック登録台数で国内トップに躍り出た日野自動車工業は、その後も車両運搬専用車やクレーンキャリア車などの応用車を発表する一方、トヨタ車の生産も好調でした。
中東戦争を機に訪れた石油ショックから国内消費は冷え込み、その影響は自動車業界にも及びましたが、日野自動車工業はトラックの輸出が好調だったことと社内をあげての省エネ対策のおかげで、石油ショック不況を乗り越えたのです。

自動車エンジンの先進技術を開拓した鈴木孝氏


1974年にディーゼル車の排出ガス規制が行われ、技術陣は低燃費と低公害の排出ガス対策を余儀なくされます。
そこで活躍したのが、後に日本自動車殿堂入りを果たした鈴木孝氏。
日野コンマースやコンテッサのエンジン開発にも尽力した鈴木氏は、オーストリアAVL研究所のシャイターライン博士の研究からヒントを得て「HMMS(日野マイクロミキシングシステム)」を開発したのです。
これは排出ガスの規制をクリアしながらもエンジンの性能を損なわないシステムであり、以降の全ての日野自動車に標準装備されています。

低燃費とエレクトロニクスを実現

1970年代後半には、日本のディーゼル車の排出ガス規制は世界で最も厳しいものとなりましたが、鈴木氏をはじめとする日野自動車工業の技術陣はそれすらも乗り越えていきました。
そして、1980年には中型車「風のレンジャー」を発売し、空気抵抗の少ないデザインで低燃費を実現。
更に翌年には大型車「スーパードルフィン」を発売。
同車種は世界初の電子制御トラックという賢さと、従来比30%以上の燃費向上を実現したことで、国内だけでなく欧米の技術会でも賞を受賞するほどとなりました。
同じくらいの時期には、日本初の2階建て観光バス「グランビュー」などの意欲作を次々と発表し、自動車業界をけん引していったのです。

トラック革命、そしてハイブリット車の開発

HIMRバス

1985年、プラザ合意により円高ドル安が加速し、それまで輸出が好調だった日野自動車工業にも暗雲が立ち込めました。
そこで新社長として就任した深澤氏は、トヨタのムリ・ムダ・ムラを省いた生産方式を取り入れたり、輸出先のタイやインドネシアなどの現地での生産や部品調達を進めたりすることで、経営の改革を行いました。
日本が1989年に平成時代に突入した頃、日野自動車工業は美しいデザインと低燃費・低公害の中型車「クルージングレンジャー」を発表し、グッドデザイン賞やトラック・オブ・ザ・イヤーなどを受賞したことで、怖い・汚い・危ないといったトラックのイメージを払しょくすることに成功しました。
また、大型観光バス「セレガ」を開発した後、世界初ハイブリット車の「HIMR」バスを生み出したのです。
現在では自家用車でも多くの車種がハイブリット車となっていますが、実は日野自動車がハイブリット車の先駆けだったのですね。

日野自動車の現在

日野自動車株式会社となる

プロフィア

日野自動車工業と日野自動車販売が合併し「日野自動車株式会社」となったのは1999年のこと。
2001年にはトヨタ自動車の子会社となりました。
技術面でも進展を続けており、1999年には小型トラック「デュトロ」が誕生し、2003年には2トン積トラックで初めてのハイブリット車「デュトロ・ハイブリット」が登場しました。
2003年には大型トラック「日野プロフィア」を発売し、2006年には商用車では世界で初めて衝突被害軽減ブレーキを搭載し話題となったのです。

トラックとバスの世界的メーカーへ

日野ポンチョ

2007年にアメリカのウェストバージニア工場が稼働開始、2008年にコロンビア工場が稼働開始、2009年にはメキシコ工場が稼働を開始し、インドネシア工場では小型トラックの生産を開始しました。
その頃、日野セレガハイブリッドや日野デュトロをフルモデルチェンジし、更なる燃費向上が実現。
また、2012年にはリチウムイオン電池をエネルギー源にした電動式の小型路線バス「日野ポンチョ 電気バス」が試験運行を開始し、現在は自治体のコミュニティバスとして採用されていることが多いようです。
2013年にはハイブリットトラックとバスの販売台数が累計1万台を突破し、名実ともに「日本の物流と人員輸送を支える企業」として名をとどろかせることになりました。

日野オートプラザで日本の自動車の歴史を学ぶ

今回の取材で、日野自動車の歴史とともに、日本の自動車産業や物流・人員輸送の歴史も学ぶことができました。
優れた経営陣と技術陣による日野自動車の日進月歩により、現在の豊かな暮らしが作られているのですね。
そんな歴史や技術を学べる日野オートプラザは、ジオラマ模型や現物車展示など、子どもも大人も楽しめるしかけがたくさん。
ご自身の目で、当時の技術力を確かめてみてくださいね。

【施設名】日野オートプラザ
【所在地】東京都八王子市みなみ野5丁目28番5号 日野自動車21世紀センター
【TEL】042-637-6600
【開館時間】10:00~16:00(最終受付15:00)
【休館日】日曜、第1・3・5土曜日

書いた人

東北で生まれ育ち、現在は東京在住。3児の母として、縁のある土地の郷土料理を食卓に出したり、日本の伝統的な遊びを子どもたちと一緒にしたりしています。着付けを習ったりアンティーク着物を集めたりする趣味がある一方で、相撲やプロレス観戦も大好き。ペットの犬1匹・猫2匹を溺愛しています。