江戸モードを伝えたのは「役者絵」
歌舞伎が庶民の娯楽だった江戸時代、人気の高まりに呼応するように、役者達の動向にも注目が集まります。
そして、江戸っ子のファッションのモデルとなったのが、歌舞伎役者です。しかも、その姿は安価で手に入りやすい役者絵として売り出されたため、すぐに庶民の間に広まっていきました。
役者絵に描かれたのは、当時の人気役者達の舞台姿をはじめ、楽屋での様子や日常の姿などであり、現代の「ブロマイド」のような存在でした。また、役者絵の中でも舞台の一場面を描いた芝居絵は、芝居の興行を知らせるチラシのような役割を果たしていました。
江戸の下谷新黒門町上野広小路にあった絵草紙問屋「魚栄」の店頭風景。暖簾には大きく「東錦絵」と染め抜かれています。魚栄は、歌川広重の「名所江戸百景」を手がけていました。この絵の中には女性のみが描かれ、絵草紙屋の風景を華やかなものにしています。
中央の、浮世絵を手にした若い娘が熱心に見ているのは、贔屓の役者でしょうか。
歌舞伎役者が生み出す江戸のトレンド
歌舞伎役者が生み出した流行は、髪形、かぶり物、色、柄、帯の結び方、役者の紋所、履物に至るまで、実に多彩でした。浮世絵や呉服屋の新色などがPR媒体となって江戸の女性達へと広まり、役者の紋所を自身の扇、団扇、櫛、笄(こうがい)などに入れたり、浴衣や手ぬぐいなどに流行の柄を取り入れたりしたのです!
元禄期(1688~1704年)を過ぎる頃には、歌舞伎が市井のファッションに与える影響は絶大なものとなりました。
歌舞伎役者のファッションや彼らの好む色・紋様は注目の的となり、次々と最新のモードとして取り入れられていきました。贔屓の役者の定紋を簪(かんざし)に入れたり、襦袢の襟に入れたりすることなどが頻繁に行われるようになりました。
このような風潮は、市井にとどまらず、御殿女中の中にも手巾(しゅきん)や煙管(きせる)などに役者好みの文様や定紋を入れる者がいたと言われています。
歌舞伎が流行の発信源にもなっていたことは、元禄5(1692)年刊の女性向け教養書『女重宝記(おんなちょうほうき)』に
時のはやりもやうは大かた歌舞妓しばいより出づるなれば、これをこのみ着給ふも破手(はで)に見へて悪しく……
と記されています。歌舞伎役者が舞台衣裳として考案した模様を一般の女性が着用すれば、派手好みとして非難されことと思われます。
歌舞伎から流行した模様
歌舞伎役者が舞台衣裳で使った模様が評判を呼び、着物のトレンドとなったものもあります。
市松模様
歌舞伎の役者名がついた模様で一番有名なのが「市松模様」ではないでしょうか。
「市松模様」は、色の異なる二つの四角形を交互に並べた格子柄で、「チェッカー柄」「石畳模様」とも呼ばれています。
「市松模様」は上下左右にどこまでも途切れることなく繋がっていく柄であることから、 子孫繁栄や事業拡大など縁起の良い文様として、現在でも多くの人に好まれています。
「市松模様」の呼び名は、江戸中期の若衆形、女形として人気だった初代佐野川市松の名前に由来します。
佐野川市松は、寛保元(1741)年、江戸・中村座で演じた「高野心中(こうやしんじゅう)」の小姓・粂之介で大当たりを取りました。佐野川市松の水もしたたるような若衆ぶりに観客は魅了され、その時の衣裳が、紺と白の石畳模様の袴だったのです!
この大当たりをきっかけに、おしゃれに敏感な江戸の女性達は、石畳模様の小袖をこぞって着始めたそうです。この流行から、「石畳模様」は「市松模様」と呼ばれるようになったのです。
「市松文様」は、佐野川市松が考え出した模様ではありませんが、人気役者が好んで舞台で使ったことで有名になり、流行した模様なのです。
三枡模様
歌舞伎の衣裳には、斬新なデザインに見える模様もあります。その一つが、初代市川團十郎が考案したという「三枡模様(みますもよう)」。大中小の三つの枡を上から見たデザインです。
初代市川團十郎は、荒々しく豪快な歌舞伎の演技「荒事」を確立した人気役者です。
荒事の持つ力強さ、おおらかさは、江戸っ子の熱狂的な支持を得ていました。歌舞伎の演目「暫(しばらく)」の中で、團十郎が扮する鎌倉権五郎が「しばらく」という声とともに花道から登場し、舞台にいる悪人達を追い散らす場面で身に着けているのが、「三枡」の入った蘇芳(すおう)と呼ばれる衣裳です。
芝居とともに、この「三枡模様」が大評判になりました。「三枡」は市川家の家紋にもなり、七代目市川團十郎は、着物だけではなく、煙管や胴乱という小物袋など、いたるところに三枡模様を入れていました。
弁慶格子
ギンガムチェックのような、白地にグレーと黒の格子柄を「弁慶格子(べんけいごうし)」と呼びます。歌舞伎の「勧進帳」に出てくる、山伏姿の弁慶の舞台衣装にちなんで名付けられました。
この格子は、2色の色糸を縦・横双方に用いて同じ幅の碁盤模様に織ったものです。大柄で、格子の幅は広く、二寸(約6㎝)。縦より横のほうが少し太くなっています。色味は、藍や柿色などがありますが、正式には黒系のみが「弁慶格子」とされ、色があるものは「藍弁慶」「柿弁慶」などと区別されています。
「弁慶格子」は、「弁慶縞」と呼ぶ場合もありますが、縞は筋を配した模様のことで、縦横に筋が配されているものも縞と呼びます。
武者絵を得意とした歌川国芳が描いた10枚揃いの見立美人画シリーズの1枚です。タイトルのとおり描かれた女性はみな「弁慶縞(弁慶格子)」の着物を着ています。
「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」の「釣船三婦内」の場面の団七九郎兵衛と一寸徳兵衛、「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」の「三笠山御殿」の場面の鱶七(ふかしち)、「義経千本桜」の「すし屋」の場面のいがみの権太など、気性の強い役が「弁慶格子」の衣裳を着ます。
翁格子
「勧進帳」の武蔵坊弁慶が着ている衣裳は、実は「弁慶格子」ではなく、「翁格子(おきなごうし)」という名称の格子柄です。
歌舞伎十八番「勧進帳」の弁慶は、水衣の下に格子の衣裳を着ていますが、よく見ると、縦横の黒い太い縞の間に色の違う細い縞が縦横それぞれに3本ずつ入れ込んであり、シンプルな弁慶格子とは違うことがわかります。
「翁格子」は、「翁三番叟(おきなさんばそう)」の衣裳から付いた名前とも、太い筋(=翁)が細い筋(=孫)を守っている様子に見立ててついた名前とも言われています。
歌舞伎の家の模様「役者紋」
家の芸を象徴する「定紋」に対し、役者個人への熱狂や感情移入を加速させたのが「役者紋」です。楽屋着や手ぬぐいなど、くだけた使い方をされることが多い「役者紋」は、江戸の庶民の間で大流行しました。好きな役者とお揃いのものを身につけたいというファン心理は現代にも脈々と受け継がれていますが、それが役者の個性をデザインした紋であるところに江戸っ子の粋を感じます。
役者紋は洒落や語呂合わせといった独自のデザインを生み出しました。中でもよく知られているのが「鎌輪ぬ(かまわぬ)文様」と「斧琴菊(よきこときく)文様」ではないでしょうか。
名前をグラフィカルに表現する文様は、世界にもあまり例がありません。暗号のようなデザインを読み解くという行為は、流行を発信する役者と受け手の観客の距離の近さを感じさせます。
鎌輪ぬ文様
「鎌輪ぬ文様」は、「鎌」「○(=輪)」「ぬ」の三文字で「構わぬ」と読ませ、荒ぶる江戸っ子の心意気を表しています。元々は元禄時代の町奴たちが「火も水もいとわず身を捨てて弱き者を助ける」という心意気を宣言するデザインとして身につけたのが始まりだと言われています。
一時廃れていたものを復活させたのは七代目市川團十郎です。
大柄の文様を染め抜いた着物は、彼のおおらかな芸、勇壮な姿と相まって観客を魅了し、爆発的に流行しました。
斧琴菊文様
七代目市川團十郎と同時期に活躍した三代目尾上菊五郎が愛用したのが「斧琴菊文様」です。
自分の名前にある菊が入った三つの文様を組み合わせ、「良き事聞く」と読ませるデザインは、吉祥文様として縁起を担ぐのが好きな江戸っ子に愛されました。
役者の名前から生まれた縞模様いろいろ
江戸時代中期を過ぎた頃から、歌舞伎役者が舞台衣裳の縞模様がシンプルな洒落着として人気を博します。役者の名前を縞とともにデザインした文様も続々と生まれました。
「高麗屋格子」は、四代目松本幸四郎が舞台の衣裳で身につけたもので、松本幸四郎の屋号、高麗屋からきています。息子の五代目松本幸四郎が享和3(1803)年に「鈴ヶ森」で幡随院長兵衛を演じた際、幡随長兵衛の役で出演、その見せ場の一つ「鈴ケ森の場」で、幸四郎が羽織る合羽に用いた太い線と細い線を組み合わせた格子縞が評判を呼び、流行しました。
他にも、四本縞の格子に鐶(かなわ)繋をあしらい、「四つの鐶」で「芝カン」と読ませた「芝翫縞」、三・五・六の縞を縦横に交差させ、「三五六」で三津五郎と読ませた「三津五郎縞」、縦3本、横3本の縞に「中」と「ら」をあしらった「中村格子」などもあります。
役者発信の色
江戸時代の茶色の流行は、歌舞伎の舞台や歌舞伎役者達に愛用された色に、特に茶色が多かったことからも伺えます。
「結綿紋」と「路考茶」
江戸時代中頃、二代目瀬川菊之丞(せがわきくのじょう、俳名:路考(ろこう))という美貌の女形が現れ、ファッションにも大きな影響を与えました。女性のあこがれの的だった瀬川菊之丞は、帯の結び方、着物の染め色やデザイン、ヘアスタイルなど、数々の流行を生みだし、まさに、江戸のファッションリーダーというべき存在でした。
瀬川菊之丞が生み出したものとして「結綿紋(ゆいわたもん)」と「路考茶」があります。
「結綿紋」は、何枚か重ねた真綿の中央を束ねた形の、瀬川菊之丞家の家紋です。菊之丞が「結綿紋」を衣裳に入れるだけではなく、舞台の引き幕にも染めだすと、ファンの女性達の間で、小袖や帯、櫛、さらには紙入れなどの小物にまで「結綿紋」を入れるのが流行しました。
中央の「出雲の阿国」に扮した瀬川菊次郎(俳名:仙魚)、下の「執着獅子(しゅうじゃくじし)」の衣裳の二代目瀬川菊之丞(俳名:王子路考)の着物に、「結綿紋」があります。
また、菊之丞が緑色を帯びた金茶色の衣裳を着て舞台に出ると、渋い色にも関わらず、菊之丞人気から、こちらも大流行。鶯の羽の色にも似た染め色は、菊之丞の俳名である「王子路考」から「路考茶」と呼ばれ、江戸中の女性達が身につけたと言われるほどの人気となり、この時代を代表する色として知られています。
菊之丞は、人気絶頂期に病に倒れ、32歳という短い生涯を閉じます。亡くなった後も、菊之丞が残した「結綿紋」「路考茶」のトレンドは、長く江戸っ子達に愛好されたそうです。
團十郎茶
市川團十郎が代々用いた茶色のことで、赤みのうすい茶色です。ベンガラと柿渋で染めたことから柿渋色、柿色とも言います。荒事の芸を確立した五代目市川團十郎が「暫」でこの柿色の素襖をまとってからは「團十郎茶」とも呼ばれるようになったと言われています。
現代でも、襲名披露の口上などで市川團十郎など、成田屋の役者がこの色の裃(かみしも)をつけることでも知られています。
梅幸茶
「梅幸茶(ばいこうちゃ)」とは、茶みを含んだ淡い萌黄色のことです。初代尾上菊五郎(俳名:梅幸)の好みの色ということから命名された色名です。
当時は浅葱色が全盛でしたが、それと全く違った萌黄色を打ち出したのは、個性を強調するためだったのでしょう。梅幸茶は通人の贔屓客の間で喜ばれ、天保の頃まで流行したそうです。
芝翫茶
「芝翫茶」は、三代目中村歌右衛門(俳名:芝翫)好んで用いた色で、くすんだ赤みのある茶色です。「芝翫茶」は、上方で好まれました。
江戸紫
「江戸紫」とは、江戸で染められた紫の意味で、青みを帯びた紫のことで、「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」で助六が頭に巻いている鉢巻の色でもあります。
江戸紫の鉢巻が映える粋な姿の助六は、顔の右に鉢巻の結び目があり、これは、みなぎるパワーの証です。助六の鉢巻は、病鉢巻とは逆に鉢巻を巻くという奇抜な出立ちで、まさに放蕩無頼、異端の傾き者の粋を表現しているのです!
帯の結び方の流行も、歌舞伎役者から
初期の小袖の帯は、前がはだけないようにするための紐や幅の狭い帯でしたが、次第に帯の幅は広く、そして、長くなっていきます。
女帯の幅が広くなり始めたのは、江戸時代中頃。遊女達はすでに五寸(約15㎝)ほどの広幅帯を用いていたそうですが、この頃、女帯が急に長くなったり、結び方のバリエーションが急増したのには、歌舞伎役者の影響がありました。
歌舞伎の女形のスター達は様々な帯結びを考案し、それらには役者の名がつけられ、若い町娘から婦人達まで広く流行しました。
吉弥結び
女帯の長さに大革命をもたらしたのは、江戸前期に上方で活躍した歌舞伎の女形・上村吉弥(かみむら きちや)の「吉弥結び」です。上村吉弥が、幅広の長い帯を垂れ下がるように華やかに結んで舞台で見せたことがきっかけとなり、帯結びは華々しく展開していきます。
文化4(1808)年に刊行された作者不詳の風俗記『久夢日記(きゅうむにっき)』では、
延宝の比、上村吉弥といふ歌舞伎芝居の女形、はじめし帯のむすびを吉弥むすびとて都鄙なべて流行(はや)りぬ。三尺幅の帯の端、唐犬の耳垂(た)れたるごとく二つ結び、両の端をたらり下ぐるなり。帯屋どもはこころへて、尺長きを拵(こしらえ)えて、吉弥むすびはこれと、値段ひときは高価なり。
と、当時の模様を伝えています。
女性達が吉弥をまねて、帯の端を、唐犬の耳が垂れるような片わなの二つ結びにし、帯の端におもりを入れ、結び余りが垂れ下がるようにした後ろ帯の結び方は、吉弥の名前をとって「吉弥結び」と呼ばれました。
それまでの帯の結び方は、初期の「カルタ結び」であり、それは現代の男結び「貝の口」に似ていて、細帯の帯端を折り込むだけでした。この幅広の長い帯で結ぶ「吉弥結び」の登場は、帯のスタイルに革命をもたらしたと言われています。
これを転機に、女帯は華やかな色彩や模様になり、装飾性豊かなものになっていったのです。さらに、結び方では、前や横に結んでいたのが後ろで結ぶようになり、現在のスタイルに近くなっていきます。そして、帯丈が長くないとこの結び方ができないため、帯屋達は帯を長くして、価格を高くしました。
「吉弥結び」は、江戸中期末の安永・天明頃(1772~1789年)にはすたれました。
なお、江戸時代後期の女性向けのおしゃれ指南書と言える『都風俗化粧伝(みやこふうぞくけわいでん)』では、「柔らかい矢の字型」の帯結びを「吉弥結び」と呼んでおり、全く違う形の帯結びの図示があります。
水木結び
元禄期の女形役者、水木辰之助(みずき たつのすけ)が用いた帯結びで、「吉弥結び」の帯先をさらに長くした華やかな結び方です。
彼は女形なのに背が高かったため、これを紛らわすために帯の手を二尺(76cm)程下げたそうです。「吉弥結び」はたれが短く、ウエスト位置でしたが、「水木結び」の帯のたれの長さは、当時の娘の膝丈くらいあったと推測されます。
平十郎結び
女形役者・村上平十郎(むらかみ へいじゅうろう)により流行したという「平十郎結び」は、背に一直線となる“竪結び”で、上に結び輪がきて、帯は垂直に立てるように結びます。かなり目立つ、大胆な結び方です。
路考結び
享保時代の人気女形役者・二代目瀬川菊之丞の舞台姿から流行した結び方です。形は下ぶくれのお太鼓形から、一方はふっくら、もう一方は平な形になるように結びます。
かぶりものの流行も歌舞伎から
「古今帽子」「沢之丞帽子」「やでん帽子」「水木帽子」「あやめ帽子」「瀬川帽子」など、女形役者が考案した女性のかぶり物も流行しました。
男性用のかぶり物としては、「宗十郎頭巾」が流行しました。
「宗十郎頭巾」は、初代澤村宗十郎が用いはじめたといわれる頭巾で、黒縮緬の袷で四角い筒形を作り、左右から後ろにかけて長い錏(しころ)をつけて、額・ほお・あごを包むようにしたものです。「宗十郎頭巾」の起源と語源は、寛政8(1736)年正月、江戸桐座で初代並木五瓶作「隅田春妓女容性(すだのはるげいしゃかたぎ、通称「梅の由兵衛」)」が初演された際、主役の侠客・梅の由兵衛を勤めた初代澤村宗十郎が、その男伊達を演出するために考案ししました。
当初は「茶の錣頭巾」などとよばれましたが、この演目が大当たりとなり、以後、代々の宗十郎がお家芸としたことから、この主人公のトレードマークであるこの頭巾を「宗十郎頭巾」と呼ぶようになりました。
歌舞伎が生み出した江戸の粋
「粋」は、江戸町人の文化から花開いた美意識です。
江戸時代は、武士を頂点とする身分制度社会で、服装や住む場所など生活全般において、身分による制限や規制が定められていいました。幕府は贅沢を禁止する奢侈禁止令(しゃしきんしれい)を何度も出していますが、町人達は様々な規制をすり抜けるだけではなく、むしろ逆手にとって、新たな美を生み出していきました。町人が、自分達の生活から生まれた独自の美意識を磨き上げていき、そこで開花したが「粋」なのです!
例えば、派手な色模様の着物が禁止されれば、一見地味な色に何色もの微妙な色合いをつくり、風情を楽しんだり、表からは見えない羽織の裏に意匠をほどこしたりと、繊細で趣深い「粋」の美を生み出しています。「粋」は立ち振る舞い、着物の模様や着付け方、髪形、化粧法など、生活のあらゆる場面に表現されています。
歌舞伎役者達は、役者であるがゆえに許されるぜいたくな装いをし、ファッションリーダーとして、独自の世界を作り上げていきましたが、江戸の歌舞伎役者が生み出したモードの中は、現在も歌舞伎の舞台で再現されてるものもあるのです!
歌舞伎と言えば、豪華な衣裳に圧倒されてしまうこともありますが、歌舞伎のファッションに注目して観るのも楽しいですよ。
主な参考文献
- 『おしゃれ文化史 飛鳥時代から江戸時代まで』 ポーラ文化研究所編著 秀明大学出版会 2019年6月
- 『江戸衣装図鑑』 東京堂出版 2011年11月
- 『歌舞伎事典』 服部幸雄編 新版 平凡社 2011年3月 「歌舞伎風俗」の項など
- こころを映す、歌舞伎の舞台 最終回 縦横の縞が交差して描く「格子」(歌舞伎美人)