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読み物
Culture
2020.02.23

東国一の美少女・駒姫の悲劇。処刑までの100メートルはあまりにも長過ぎた

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シンデレラがハッピーエンドといわれるのは、何も王子と結婚したからではない。結婚後に、仲睦まじく幸せに暮らしたからだ。例えば、革命が起きて、王子と共に処刑されていれば、それは単なる悲劇として語られるだろう。「ほらね、玉の輿婚には、落とし穴があるんだよ。ね?堅実に身分相応の人がいいよ」的な。

駒姫(こまひめ)も、天下人、豊臣秀吉の次期後継者である秀次に見初められ、嫁ぐことに。ただ、シンデレラと違うのは身分差がないということだ。父は山形城主、最上義光(もがみよしあき)。いとこは、あの伊達政宗というのだから、家柄もよい。親に溺愛され、大事に大事に育てられた姫君でもある。そして何より、駒姫は東国一と誉れ高い美少女であった。

15歳の美少女が、なにゆえ京都の三条河原で処刑されるに至ったのか。ここでは、駒姫の逃れられない悲しき運命を追っていく。

美少女ゆえに見初められ

冒頭の駒姫の肖像画は、山形県の専称寺(せんしょうじ)に残っているもの。この寺は、駒姫の菩提寺でもあり、父・最上義光が駒姫の肖像画を奉納したのだとか。当時の女性にしては目が細くもなく、切れ長で美人だ。さすがに東国一の美少女といわれるだけのことはある。

現代であれば、このような少女となるだろうか。

最上義光歴史資料館のキャラクター「駒姫」

目がくりっとしていて、いかにも美少女という容姿だ。確かに可愛らしいかったのだろう。ただ、駒姫はそれだけではない。容姿のみならず、教養も兼ね備えていたという。『奥羽永慶軍記』では、その才媛ぶりがわかる記述がある。

「容色嬋娟(せんけん)世にすぐれたるのみにあらず、小野小町がもてあそひし道を学び、優婆塞(うばそく)の宮のすさび給ひし跡をも追んとのみ、琵琶を弾じては傾く月の影を招き、花の下に歌を詠じては、移らふ色をいためたり」

この少女に惚れこんだのが、豊臣秀吉の甥、秀次(ひでつぐ)である。ちょうど世は、秀吉の天下統一の最終仕上げというところ。戦乱の場所は奥州へ。天正19(1591)年9月、九戸政実(くのへまさざね)の乱の平定後、秀次が帰国の途中で立ち寄ったのが、最上義光の山形城であった。

最上義光像

秀次を接待したのは当時11歳の駒姫(諸説あり)。琵琶を奏し、和歌を詠んだその姿に、秀次は大絶賛。いたく気に入られ「側室へ」と求められる。しかし、最上義光は固辞。まだ幼く、礼節も身につけていないなどを理由に、なんとか逃げ切りに成功する。ただ、15歳になればとの約束をさせられてしまうのだった。ちょうどこのあと、12月に秀次は秀吉の跡を継いで関白に就任。確かに、次期天下人との婚姻関係はお家にとっても安泰。そんな計算が頭をかすめたのかもしれない。一説には、最上側から駒姫を側室にと持ち掛けたとも。ただ、事の真相は定かではない。

その後も秀次からの要求は続く。最上義光もさすがに次期天下人の秀次に逆らえず、文禄4(1595)年に、15歳になった駒姫を連れて上洛。山形から京都へと長い旅路の末、いったんは、最上屋敷に入って疲れを癒したという。そうして、落ち着いた頃をみて、秀次の屋敷である聚楽第(じゅらくだい)へと移った。そこでの駒姫の呼び名は「お伊万(おいま)の方」。

この新しい名前が与えられてすぐのこと。数日後に事態は一変するのである。

豊臣秀次謀反!迫りくる連座の悲劇

文禄4(1595)年、7月8日、豊臣秀次は和歌山県の高野山へ出立する。秀吉の養子となって家督を譲られ、関白となったのは天正19(1591)年12月のこと。たった4年で、まさか自身が追われる身になろうとは、思いもしなかっただろう。7月10日に高野山の青巌寺(せいがんじ)へ入り、15日には切腹。申し開きもできず、性急すぎるほどのあっけない幕切れだった。

事の発端は、秀吉に待望の実子ができたことによる。秀吉は多くの側室を迎えたが、相反して子が少ない。できたとしても鶴松のように早世するなど、跡を継げる者がいなかった。そこで、秀吉の姉・ともの子である三好秀次を養子に迎え、家督を継がせたのだ。しかし、その約1年半後、文禄2(1593)年に秀吉の側室・淀殿がまたの懐妊、大阪城で無事に子を産む。くわえて生まれた子は男の子だった。幼名は「お拾(ひろ、ひろい、ひろいまるなど)」。のちの、豊臣秀頼である。秀吉からすれば、なんといっても実子で男。そのうえ、淀殿は織田信長の姪であり、亡き主君の織田家の血を引く。いろんな意味で、秀吉はメロメロになった。

豊臣秀吉像

お拾(秀頼)が生まれた1か月後に、秀吉は秀次に対して、ある提案を持ちかけている。山科言経(やましなときつね)の『言経卿記(ときつねきょうき)』にはこのように記録されている。

「先ず日本国を五ツに破り(わり)、四分参らるべしと云々」

いやいや…んな無茶な。
そう、まったくもって、荒唐無稽な計画なのである。秀吉も最初は、秀次のことも考えねばと思ったのだろうか。日本を5つに割って、4分を秀次にと提案した。少なくとも、かわいい我が子と、秀次で日本を分割しようとしていたのだ。実際のところ、秀吉は朝鮮出兵を実現させた男。万が一にも、お隣のように、日本という国が分かれていたかもしれない。

さらにその翌月には、秀吉はさらに新たな策を打つ。秀次に対して、お拾(秀頼)と秀次の娘を婚約させることを決めたのだ。こうみれば、当初は秀吉も、秀次との折り合いをつけようとしていたともみえる。まだ両者の関係性は悪化していなかった。文禄3(1594)年の正月には、秀吉の所望で秀次が能を舞った記録もあるほど。2月には秀吉の能を秀次が見物したという。ただ、一方で、秀吉の動きに少しずつだが変化が見られる。秀次が治めていた尾張へ鷹狩りに出かけて視察するなどがいい例だ。二人の会見も頻繁に行われ、どうやら秀吉が秀次に禅譲を促していたものと思われる。

しかし、事態は急展開を迎える。寝耳に水の「秀次謀反」の疑い。どうやら文禄4(1595)年7月3日に、秀吉と秀次の間で何やら決定的な「不和」となる出来事が生じたようだ。その後の怒涛の流れは、誰も止められず。秀次は「謀反」の疑いで関白の職を剥奪され、高野山へと追放される。そして、弁解の機会も与えられず、切腹にてこの世を去った。秀吉に会うことすら叶わなかったという。同年7月15日のこと。秀次、享年28歳であった。

悲しすぎる駒姫の最期とは

現在では秀次の謀反は冤罪という見立てだ。秀吉側近の石田三成らが、秀次からの政権交代を画策したという。しかし当時は、裏の事情など知る由もなく、世間では突発的な出来事として驚かれた。一方で、大名たちは恐れおののき、大慌ての様子。伊達政宗はいったん帰国したが、すぐに引き返す。徳川家康や上杉景勝も大急ぎで上洛。というのも、次期天下人であった秀次と共に謀反を企てたとの嫌疑がかけられる恐れがあったからだ。罪を犯した本人のみならず、その家族や親類縁者まで刑罰が科される「縁座(えんざ)」、また主従関係や特殊な関係の者まで刑罰が科される「連座」である。

そして、この縁座や連座に巻き込まれて処刑されたのが、お伊万の方(駒姫)を含む妻妾、侍女らであった。秀次が高野山へ出立したのが文禄4(1595)年7月10日、15日には切腹。妻妾らはというと、同年7月11日には、前田玄以の居城である丹波亀山城へ送られている。そうして、再度京都に戻され、8月2日には残酷ともいえる最期を迎えるのである。

京都・三条河原

さて、お伊万の方(駒姫)はというと、名目上は秀次の側室となってはいるが、実質的に夫婦関係はなく、なんなら秀次に会ってもいないのだとか(諸説あり)。処刑が決まった際には、父、最上義光が娘の助命嘆願に駆け回ったという。ただ、自身も秀次との関係を問われ、嫌疑がかかっている身。そのため、伏見に幽閉されており、各所に話を通すのは現実的に難しかったのではなかいとも指摘されている。

そうして迎える運命の8月2日。秀次の妻妾や子ら38名(39名との説あり)が7輌の牛車で市中引き回しとなる。お伊万の方(駒姫)は、2番目の車に乗せられたという。正室の一の台こと、菊亭晴季(きくていはれすえ)の娘など、公家、武家、仏家出身の4人が乗っていたとか。『関白雙紙(かんぱくそうし)』には当時の状況が記されている。

はだ(肌)にハいつれもきゃうかたひら(経帷子)をめ(召)されつゝ、てのくい(手拭)にハほんし(梵字)をすへ、ひたひ(額)をうつくませ給ふ、御くし(髪)おろさせ給ひしハ三人の御子のおや(親)

経帷子(きょうかたびら)とは、死者に着せる白い着物で、いわゆる死に装束のことである。三条河原についたお伊万の方は、車から引き降ろされ、河原へと引き立てられる。検使役には、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以の4人。河原には、高野山で切腹した秀次の首が置かれ、妻妾らはそれぞれに拝ませられたのだとか。そして、割竹で作った垣を結った中で、具足に身を固めた河原者たちが、次々と子や妻妾ら刺し殺して首を刎ねていったという。

お伊万の方(駒姫)の処刑は11番目。一説には、助命嘆願が聞き入れられたともいわれている。上洛したばかりの駒姫を処刑するとはあまりにもひどいと、各方面から助命の声が上がったのだ。淀殿の口添えもあって、最終的に秀吉は助命を決断。「鎌倉で尼になるように」と、処刑場に早馬を出したという。しかし、あと一歩のところ。正確には一町だから、距離にして100メートル弱というところか。僅差で間に合わずに処刑となった。

15歳でもさすが。あの戦国の世で、武家にて育てられた女性である。落ち着いた様子で、処刑の際には項(うなじ)を伸ばし差し出したのだとか。お伊万の方(駒姫)の辞世の句も潔い。

「罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき」

罪もなく斬られる我が身。それでもお慈悲ある弥陀の剣ならば、五つの罪業も断ち切られて成仏できるだろうと詠んでいる。凄惨極まりない処刑は午後四時頃まで続いたようだ。処刑後、妻妾らの屍は無造作に投げ入れられたという。遺体を引き取りたいというのも叶わず、全員の屍を一つにまとめて簡単な塚が作られた。その名も「畜生塚」「悪逆塚」。あまりの惨さに、『大かうさまぐんきのうち』では「地獄の鬼の責めとはこういうものか」と記録されている。妻妾のみならず侍女までも処刑した、その見せしめ以上の暴挙に、豊臣政権から人心が一気に離れたのも事実である。

ちなみに、この秀次事件だが、非常にきな臭い。秀次の家臣全員が連座で処刑されたかというとそうでもない。秀次を補佐するためにつけられた年寄衆らは処刑ではなく、反対に所領の加増などの待遇を受けている。秀次の妻妾らも同じ。秀次切腹の知らせを受け、いち早く尼となった者もいたようだが、秀吉は逃さなかった。一方で、側室の一人、池田恒興(いけだつねおき)の娘は助命された。「北政所」と呼ばれた彼女は、吉田城へ戻されて処刑されずに不問となっている。そういう意味では、余計に、お伊万の方(駒姫)の処刑が不条理にみえてくる。

どうして秀吉は、秀次妻妾ら、侍女までもをことごとく処刑したのか。一説には、秀次の正室、一の台が広い範囲で金銀を貸し付けていたことが発覚、秀吉の逆鱗に触れたともいわれている。これは『多聞院日記(たもんいんにっき)』にも記されている。

「金銀過分に菊亭殿の娘奉行にて、方々預けられおわんぬ。曲事(くせごと)とて…」

つまり、正室である一の台は、その権力を持って半ば強制的に金銀を貸し付け、回収していたというのだ。この金融業に関わっていたという理由で、妻妾らの処刑が決まったとの説明がなされている。そうであるなら、ことさらお伊万の方(駒姫)には、全く身に覚えのないこと。悲劇では片づけられない結末だろう。

なお、最愛なる娘の最期を、最上義光は屋敷で聞いたとされている。
『最上記』では、最上義光の様子を「愁傷限りなく、湯水も喉を通らずに嘆き臥した」と記録する。また、『奥羽永慶軍記』では、義光が「過去の業にこそ」との言葉を呟いたとも。

朝から仏間で祈り続けていた出羽の猛将、義光も、残念ながら運命を覆すことはできなかった。一方、山形では、駒姫の母である大崎夫人が飛脚で娘の死を知る。そして、その2週間後。後を追うように亡くなった。一説には、自殺ともいわれている。妻、娘を失って嘆き悲しむ義光の憎しみの矛先は、もちろん豊臣側へ。のちの関ケ原の戦いでは東軍の徳川方となり、会津の上杉景勝と戦った。その武功が認められ、最上義光は57万石となっている。

最後に。
15歳の少女を襲った悲劇。自身が処刑されることを知った駒姫の胸中はいかほどか。じつは、『太閤記』の中には、辞世の句がもう一つある。

「うつつとも夢とも知らぬ世の中に すまでぞかへる白川の水」

駒姫についての情報は、年齢も15歳や19歳などまちまち。辞世の句も諸説ある。しかし、一つだけ確かなこと、それは、武家の娘として育ったことだ。そうであるならば、どの家に嫁いだとしても、戦により人質や自刃などの可能性があることを、駒姫は誰よりも一番知っていたはず。自身の身には、それなりの覚悟ができていたと推測できる。

それよりも、心配なのは残された者の悲しみだろう。父、最上義光は同じく嫌疑がかけられ、どのような処遇となるかは読めず。母は誰よりも自分のことを大事に思って心を痛めるはず。だからこそ、駒姫は、現実なのか夢なのかわからない、という辞世の句を詠んだのではないだろうか。処刑に対する嘆き悲しみ、恨みなどを一切入れず、武家の娘として称賛される最期を選んだ。それが、これまで慈しみ大事に育ててくれた父母への唯一の孝行だと思ったのかもしれない。

東国一の美少女とうたわれた駒姫。あまりにも短い生涯だった。

基本情報

名称:最上義光歴史館
住所:山形県山形市大手町1-53
公式webサイト:http://mogamiyoshiaki.jp/?p=list&c=929
備考:冒頭の駒姫の画像は最上義光歴史館のキャラクター画像です

参考文献
『最上義光』 竹井英文編著 戎光祥出版 2017年10月
『47都道府県の戦国 姫たちの野望』 八幡和郎著 講談社 2011年6月
『戦国姫物語―城を支えた女たち』 山名美和子著 鳳書院 2012年10月
『豊臣秀次』 藤田恒春著 吉川弘文館 2015年3月

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書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。