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Culture
2020.02.26

首を煮る・ムチで打つ…。戦国武将の「恐怖の首実検」エピソードを紹介

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「恐れ」と「怒り」。
さて、両方とも「負」のエネルギー満載といえそうだが、どちらがより強い感情といえるだろうか。

いまいち、ピンとこない?確かに確かに。「恐れ」と「怒り」などと、抽象的な表現だからだろうか。では、もっとシンプルにお聞きしよう。

「めっちゃ怖っ」と「めっちゃ腹立つ」。
どちらの思いが強烈か。どちらが、自分の行動を制御できないだろうか。

ちなみに、怒りのまま死ぬことを「憤死」というが、「恐死」という言葉は存在しない。それならば、やはり「怒り」の方が強いということだろうか。じつは、これを証明するような出来事が、戦国時代に起こっている。人々が恐れおののく中で、怒りのあまり、「生首を…した織田信長」「生首に…した毛利元就」。いずれも戦国時代の世にのし上がってきた強者たち。

今回は、そんな大名たちの祟りなど恐れぬ所業をご紹介。前回の「首実検(くびじっけん)の記事」に続いての第2弾。その名も「あなたの知らない首実検…その後」。

えーい。腹立たしい!足蹴りする信長

合戦に勝った場合に行う儀式の一つに「首実検」というものがある。討ち取られた生首を洗って血や砂などを落とし、必要であれば死に化粧まで施す。そして、首に名札をつけて誰なのかを明確にし、木の台に置いて検分するというものだ。

家臣の論功行賞のためでもあるが、それだけではない。討ち取られた者の慰霊という目的も兼ね備えていた。だからこそ、祟られないように軍配者のような呪術に通じた者が、儀式を執り行ったとされている。

しかし、通常の首実検とは異なるような状況も。例えば、憎き相手を討ち取るなど、武将が強い思い入れを抱いているような場合だ。その特殊なケースとして、最初に紹介するのがこのお方。神をも恐れぬ所業を幾度も行っている「織田信長」である。

湯浅常山(ゆあさじょうざん)が記した『常山紀談』には、目を疑うような場面が。

…勝頼の首を滝川が士滝川荘左衛門という使番に持たせて、信長に見せ思せば、さまゝに罵りて(ののしりて)、杖にて二つつきて後、足にて蹴られけり

勝頼とは、もちろん武田勝頼(かつより)である。なんといっても武田氏滅亡まで時間がかかり過ぎた。信長と同盟を組んでいた徳川家康は、武田信玄と戦った三方ヶ原の合戦で敗走。信玄の死後、息子である勝頼と戦った長篠の合戦では武田軍を撃破するも、討ち取ることはできなかった。そして、天正3(1575)年の長篠の合戦から約7年。天正10(1582)年3月にようやく武田勝頼は自刃。こうして武田氏は滅亡することとなる。

それにしても、信長は過激だ。「罵る」に加えて「杖でつつく」。そして最後の決め技である「足蹴り」。一般的に、首実験の際には、甲冑などを身に着けて正装で臨む。万が一、首が飛んでくることに備え、弓矢をつがえる者もいる。一説には、大将は太刀に手をかけて行うとか。しかし、信長は散々な仕打ちを。これこそ、「怒り」が「恐れ」を超えた瞬間であろう。

怒りが収まらぬ!ムチ打つ毛利元就

「まあ、織田信長なら…ねえ?」と思っていないだろうか。しかし、世間では、普段、冷静な人ほど、キレたら手をつけられない、というではないか。限度知らずのキレっぷりとも。この格言を体現したのが、あまり感情を出さないといわれた毛利元就(もうりもとなり)。相手は、厳島の戦いで討ち取った陶晴賢(すえのはるかた)。元就のキレっぷりに、世の格言も「なるほど、こういうことか」と、つい納得してしまう。

江戸時代の軍記である『万代記(ばんだいき』に、毛利元就が首実検で取った驚きの行動が記されている。

元就様むちを御取り候て、陶殿首を御さし候へば、児玉周防罷り(まかり)たち、少し首の右の方、衣を引分け申され候。元就様仰せられ候は、科(とが)無き義隆を殺し、八逆罪を以て天罰遁れず(のがれず)、殊更(ことさら)天子の勅勘を以て此の如し。誰に恨か有るべしと御にらみ成され、策(むち)を三度御降り候」

ムチである。

杖でつついて足蹴りも、ムチを3度振り下ろすのも。もう、同じくらいの祟られレベルであろう。相手の陶晴賢は、元就の旧主、大内義隆(おおうちよしたか)の配下であったが、謀反を起こす。結果、大内義隆は自刃した(大寧寺の変)。その後、大内家の実権を掌握したが、天文24(1555)年の厳島の戦いで、毛利元就に敗れている。

首実検は、慰霊目的も兼ねて行われる。しかし、織田信長や毛利元就をみれば、これまでの戦いの鬱憤を晴らす場でもあったといえそうだ。

殿!首が動きまする⁈

さて、色々と首実検の模様をお伝えしてきたわけだが、ここで一つの疑問が沸き起こってくる。果たして、実際に「祟り」はあったのか。首が飛んでくると信じられていた戦国時代。ここで興味深い記録をご紹介しよう。山形城主の最上義光(もがみよしあき)が行った首実検についてである。

『羽陽軍記』の中に「首実検之事」と記されている。これは、慶長5(1600)年の最上義光と上杉勢の直江兼続(なおえかねつぐ)が戦った長谷堂城の戦いに際してのこと。奥州の関ケ原とも呼ばれるこの戦いだが、結果は石田三成の敗走の知らせを受けて、直江軍が撤退している。この戦いで、上杉勢の上泉康綱(かみいずみやすつな)が討ち取られた。その後、首実検の際に、なんと上泉康綱の生首がしおれないというのだ。なんなら、口を開いて時々目も開け、動くように見えるのだとか。

これに対し、報告を受けた最上義光は、ある指示を出す。

…舌を出し口をあきたるヲ遺恨の首と云、煮させ見るへし

最上義光曰く「煮ろ」。

ここから、少々グロくなることを先にお断りする。役を仰せつかった里見兄弟は、時々動くようにみえる首を、恐れながら大釜で煮たという。しかし、未だ首はしおれず。その上、時々目を開いて動くように見えたので、皆騒いで逃げていったのだとか。そこで、義光は修験者に、上泉の首に対して7日間護摩を焚かせたというのだ。そして数日後。ようやく、7日目で上泉の生首はにっこり笑った表情となったという。目はふさがれ、首はしおれたと記録されている。

どうしてだろう。逆に、にっこり笑われた方が怖いのではないか。そこには、ある種の凄みが感じられる。そもそも論だが、大釜で煮れば、目を開くのは、いた仕方のないことだ。熱が加わわることで、目もとは変化する。つい先作った夜のおかずの「ブリ大根」なんかを思い出してしまった。ブリのあらを炊いたのだが、なんだかブリの目が…動いたような。段々、ブリが食べられなくなる気がしてならない。

いや、それよりも、7日目のにっこりは、顔が腫れて目が細くなったからではないか。段々、話がそれてきた。とにかく、実際にこのような記録があること自体、「祟り」への恐れがあった証拠といえるだろう。ちなみに、上泉のしおれた首はというと、観音堂の下に深く埋めたとされている。

戦国の世は、至るところで身近に「死」が存在する。だからだろうか。「生」と「死」の境目が曖昧にならないように、こうした呪術的な要素が必須だったといえる。それにしても、そんな「恐れ」を突き抜けるだけの「怒り」を持つ強者でも、運命には逆らえなかったようだ。

足蹴りした3ヶ月後に、本能寺の変が勃発。信長は自刃。
因果応報という言葉が、頭に浮かんだ。

参考文献
『最上義光』 竹井英文編著 戎光祥出版 2017年10月
『信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月
『戦国軍師の合戦術』 小和田哲男著 新潮社 2007年10月

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。