Culture
2020.04.06

事業規模を100倍に拡大「月桂冠」11代目、大倉恒吉。成功を導く「秘密のノート」とは?

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初めて見たお酒のCMが何だったか、覚えていますか?それが「月桂冠」だったという方は多いと思います。伏見で生まれたこの酒造メーカーの歴史は大変古く、創立380年を超えています。今なお伏見の地で酒を造っている「月桂冠」、このおなじみの名前は、11代当主大倉恒吉によってつけられました。

恒吉が当主を継いだのはなんと13歳!波乱万丈の生きざまには、今を生きる我々が学ぶべきポイントがたくさんありました。

跡継ぎでなかった冴えない少年は、のちに事業規模を100倍まで成長させます。その手腕の秘密とは何だったのでしょう?実は、「地道さ」こそが、恒吉の才能でした。

契機は『鳥羽伏見の戦い』?13歳で家督を継いだ少年・大倉恒吉

月桂冠西側にある長建寺

「月桂冠」の前身は1637(寛永14)年。時の将軍は徳川家光、島原の乱がおこった年です。初代当主・大倉治右衛門(おおくらじえもん)が、伏見にて開業しました。治右衛門の出身地は、京都南部の“笠置”(かさぎ)。そこからとって屋号は「笠置屋」とし、「玉泉」(たまのいずみ)という酒を売り始めます。

豊かな地下水と交通の要所だった土地柄から、伏見の酒造りは繁栄していきます。しかし、このころは科学的な知識がまだ適用されていない時代。清酒を腐らせるという事態もたびたび起こっていました。また、米を原料とする酒造りは、飢饉や虫害が起これば、造ることを制限されることもあったそうです。火を使う工程が多いため火災に見舞われることも多く、ライバルによる市場の参入が起こるなど、伏見の酒造りはたびたび危機に陥ります。

中でも幕末の動乱期、「鳥羽伏見の戦い」が、1868(慶応4)年に勃発。町は戦いに巻き込まれることになりました。月桂冠の本宅前の街道を挟んで北側にあった住宅や酒蔵は、多くが被災しました。奇跡的に本宅は無事で、今もこの大倉家本宅は、200年の時を経てそのままの姿を残しています。

この時の当主は10代目・大倉治右衛門。そのほか、水害や干ばつにも襲われた伏見。質素倹約を唱えた治右衛門は、炊き出しなどを行うなど地域全体を見守っていた立派な当主でした。この10代目の次男が、大倉恒吉です。

現場で学び覚えるしかない。厳しかった母と会社の教育


大倉恒吉は1874(明治7)年1月に誕生。優秀な兄を持ち、幼いころは比較され厳格な父からは期待されていなかったようです。しかし、跡継ぎであった兄が急死してしまい、恒吉の運命は大きく変わっていきます。長男と同じ年に、力強い経営者だった父もあとを追うように亡くなってしまいます。
兄亡き後、「ツネのような頼りないものが何になろう」と父に呟かれたという恒吉。そのわずか数え年13歳の少年が、11代目として家業を継ぐしかなくなったのです。

当然、内部からは反発も起こりました。それを突っぱねたのは、恒吉の母ヱイでした。武家出身のヱイは、主亡き家を守り、息子を盛り立てるために尽力。その努力を目の当たりにした恒吉も覚悟を決めます。
ヱイは恒吉の教育に『現場主義』を掲げました。酒造りは杜氏・蔵人にまかせるのが普通。当主の仕事とは帳場にいることでした。しかしヱイは恒吉を蔵人と共に働かせ、米の買い付けには親子そろって向かうなど、二人三脚で酒造りに奔走したのです。

事業規模を100倍に!敏腕ビジネスマン・恒吉が行った改革の数々

ドラマや舞台で、徳利を抱えて酒屋に行く奥さんや娘を見たことはありませんか?昔は酒屋に詰めてもらいに行くスタイルが主流でした。しかし「サラリーマン」の誕生や生活の西洋化に伴い、その習慣は徐々に変化していきます。
恒吉は瓶詰の酒の販売を推し進め、消費者の生活の変化にいち早く呼応しました。経営についても“洋式帳簿”を取り入れ、仕入れや経費などの費用を可視化。その結果、500石で引き継いだ事業は、50000石まで成長。実に事業規模を100倍まで拡大したのです。

「月桂冠」という酒銘が誕生したのもこのころ。1905(明治38)年、恒吉は32歳でした。オリンピックの勝者に贈られる「月桂冠」から取ったこの名前は、酒の王者をめざすという気概が込められています。

ビンの詰まったキャビネット

当時、酒の殺菌は今ほど徹底されておらず、あちこちの酒蔵で酒が腐るという事態が多発していました。これを何とかしたいと思い立った恒吉は、信頼できる技師を入社させ、1909(明治42)年1月10日、「大倉酒造研究所」を創設します。酒蔵が立ち並ぶなか生まれたハイカラな洋館、酒造メーカーとしては初めての研究所でした。
2年後、加熱殺菌(火入れ)の条件を科学的に解き明かし、「防腐剤なしの壜詰酒」を発売することに成功しました。酒樽と違ってビンは殺菌がしやすく、衛生への意識が高いサラリーマンたちに大ヒット。月桂冠の名を一気に高めることになりました。

さらにはデザイナーに発注し、猪口のついた瓶詰酒を開発。鉄道網の整備に伴い、一挙に全国へと広がっていきました。

天才じゃなくても努力と知恵で生き抜ける!恒吉が被った“月桂冠”

「頼りないものが何になろう」と言われた恒吉が、どうして事業規模を100倍にまで拡大できたのでしょうか。13歳で家業を継ぎ現場に投げ込まれたときから、恒吉はコツコツと日々を積み重ね、学ぶことを繰り返してきました。まずは小さなことを試すことから。失敗をしたら、フィードバックによって教訓として活かす。問題点を洗い出して、修正してみてもう一度チャレンジする。言うだけならば簡単です。実際にやってみれば気の遠くなるような工程を繰り返すことで、成功を手中におさめていったのです。

伏見に根付いた月桂冠の歴史を見ることができる「月桂冠大倉記念館」には、恒吉がフィードバックを大切にしていた証である「注意帳」が展示されています。失敗を記録するための帳面、つまりノートですが、ただ失敗を書きつけておくだけではありません。中には「失敗を繰り返さざるよう注意すべき事項」「失念しやすき件」「将来改善を要する件」などの項目が並んでおり、失敗から学ぶ姿勢を重要視していたことがうかがえます。

恒吉は、事業を拡大するにつれ、病院建設の用地や資金を寄付、消防署のための土地を提供するなど、伏見の町へと援助を惜しみませんでした。それは幼いころ、同業者や町の世話役が自らを支援してくれたことへの恩返しとしての行動だったようです。

現在の月桂冠大倉記念館外観

恒吉はやむを得ず家業を継ぐことになりました。「なにくそ」という気持ちで必死に頑張った結果、事業規模を100倍に拡大し、「月桂冠」のブランドをゆるぎないものへと育てたのです。

月桂冠の酒は、天皇陛下御即位の大禮に際しての「御用酒」として使われています。オリンピックの勝者が被る月桂冠。今もなお成長を続ける会社は、間違いなく、恒吉がかぶりたかった冠そのものではないでしょうか。

月桂冠中興の祖 大倉恒吉物語