どうして、「家」は人をワクワクさせるのだろう。それは、きっと完成した家に暮らしている自分を想像するからだ。リビングでくつろいでいる自分。バスタブで疲れを癒している自分。キッチンで料理を楽しんでいる自分。これを実現するために、卒倒するほどというか、無限にある項目を一つずつ検討し、決めていく。ただひたすら、想像した生活を手に入れるためだけに。
戦国時代の武将は、築城でワクワクしたのだろうか。いや、ワクワクというよりは、ドキドキかもしれない。「戦」と「城」は切っても切り離せない関係だ。城の出来栄えにより、自分の将来が決まるかもしれない。そうなると、ドキドキというよりは、ビクビクなのかも。
今回は、そんな戦国時代の築城のお話。現在でも執り行われる「地鎮祭」をはじめ、縁起担ぎのこぼれ話をご紹介しよう。
築城までの道のりは今と同じ?
まず本題に入る前に、予備知識から。簡単に戦国時代の築城の流れを説明しよう。一般的に、築城までには5つのステップがある。
最初に、城をどこに建てるかという、位置決め。「地選(ちせん)」である。細かい場所というよりは、大まかな位置決めのようなものだ。例えば、山に築かれる山城(やまじろ)であればどの山か、平地に築かれる平城(ひらじろ)であればどの平地かを選定する。
次にその場所をさらに絞り込む。山といっても、実際に築く場所を決めるのだ。これを「地取(じどり)」という。どちらかというと、「地選」と「地取」は、一連の続きの作業といえる。
場所が確定すれば「縄張(なわばり)」を行う。「縄張」とは、簡単にいえば、城全体の構想を具体化するものだ。現在の設計図や間取り図の城バージョンみたいなもの。ちなみに、地面に縄を張って測量・設計したから、そのような名称になったのだとか。なお、地形の形状により城の設計は当然異なる。そのため、地形をいかした城となるよう、城の中心となる本丸や隣接する二の丸などを決めていく。他にも、堀はどのように削るのか、城への出入り口はどのような形にするのか、様々な項目を確定しプランを完成させる。この一連の作業を「経始(けいし)」という。
プランが決まれば、築城だ。実際に土木工事を行っていく。これが「普請(ふしん)」だ。さらに続けて建築工事が行われる。これを「作事(さくじ)」という。このように5つの工程を経て、ようやく城が築かれるのである。
当時の地鎮祭「鍬立」ってナニ?
現代において、新たに建物を建築する際に欠かせないのが「地鎮祭」。それは、今も昔も同じこと。じつは戦国時代にも、築城の際には「地鎮祭」のような儀式が行われた。「鍬立(くわだて、くわたて)」や「鍬初(くわぞめ、くわはじめ)」「鍬始(くわはじめ)」である。
確かに、築城の際に行われる地鎮祭のような儀式は、今より熱心に行われたことだろう。その入念さは容易に想像がつく。というのも、戦国時代、城が戦(いくさ)の命運を握っていたからだ。城が堅固であれば、城に籠って戦う「籠城」作戦も可能となる。つまり、城は戦の重要なアイテムだったといえる。そのため、築城に際しては、様々な縁起担ぎ、呪術的なことが行われていた。
多くの資料には「鍬立」や「鍬入」「鍬始」などの言葉が幾度も出てくる。例えば、『甲陽日記』では、時間と方位が具体的に記されている。
「廿八日甲申午刻向ノ方ニ、岩尾ノ城ノ鍬立、七五三.同岩村ノ鍬立、申ノ刻向未ノ方ニ七五九」
「鍬立」という言葉が見られるが、これは予め決められた日時と方角に、鍬を入れるということだろう。さらに数字の「七五三」や「七五九」など暗号のようだが、儀式の内容と解釈されている。
それでは、実際に行われる儀式とはどのようなものか。
じつは『島津家文書』の中に『地取の書』という資料がある。その内容を紐解くと、一連の儀式の流れが分かる。具体的には、征矢を(そや)を立て、鍬を下ろし、神への唱え事を行う。これは、なんとなくイメージがつく。次に、御幣(ごへい)を挟んだ串を用意して、摩利支天(まりしてん)の印を結んで真言を唱えるのだとか。御幣とは、現在でも神社の御祈祷などでよく見られる神祭用具の一つだ。白いひらひらした細長い紙を竹串に挟んだアレである。摩利支天とは、戦国時代に多くの武将が信仰していた軍神のこと。弓箭(きゅうせん)を持ち、イノシシに乗る勇ましい姿で知られる。こちらは呪術的な要素が強いといえる。それが終われば、最後にかわらけ(素焼きの陶器)に、洗った米や御神酒を入れて、地神や荒神にお供えするという。基本的には、現在の地鎮祭とそこまで変わるものではないだろう。
こうして、単に儀礼的に行う場合もあれば、なかには派手な行事として執り行う場合も。派手といえば、やはりあの方の出番である。
織田信長が行った「御鍬始」の様子が『信長公記』に記されている。
「三月廿四日、御鍬始ありて、先方に築地をつかせられ、請取の手前手前に舞台をかざり、児・若衆色々美々敷き出立(いでたち)にて、笛・太鼓・つゝみを以て表紙を合せ囃立(はやしたて)、各(おのおの)も興に乗ぜらる」
これは、信長が武者小路(むしゃのこうじ)に邸を築く際の「鍬始」の様子である。上洛の折に京都に邸がないのは不便とのことで、足利義昭の勧めもあって築くことになったのだ。稚児やら若衆らを派手に美しく着飾らせたうえに、笛や太鼓などで拍子を合わせて囃し立てる。なんとも、歴代随一のパフォーマー信長ならではの鍬始といえるだろう。
今も残る「残念石」の由来
さて、これほどまでに城や邸を築くのに気を遣ったのだから、戦国時代お決まりの縁起担ぎも、もちろん忘れてはならない。その一つが「残念石(ざんねんいし)」である。
信長の安土城以降、大きく「城」は様変わりした。観念だけでなく構造に至ってもだ。この頃から城に石垣を積むことが一般的となり、今でも城跡としての名残が石垣から垣間見ることができる。
じつはこの石垣、当時は非常に面倒な代物であった。なんといっても「石」の調達が大変なのである。山城など、現地で石が調達できれば万々歳だ。しかし、大抵は遠くの山から石を切り出して運んでくる。また、石を切り出す丁場(ちょうば)で加工することも。時に、動員された大名の刻印を彫り込むこともあったようだ。石垣を作るために、石の切り出し、加工、運搬と、想像以上に多くの手間が介在するのだ。
ただ、そこまでの工程を踏んでおきながら、石垣に採用されない石があった。俗にいう「残念石」である。
理由は一つ。不吉だからだ。
「残念石」とは、丁場から運ぶ途中で、不幸にも何らかの理由で「落ちて」しまった石のことである。「城」において「落ちる」はNGワード上位にランクインする言葉。「城が落ちる」、つまり、絶対あってはならない「落城」を意味するからだ。落ちた石を石垣として積むなど、愚の骨頂。一度でも、少しでも、わずかでも「落ちて」しまえば、問答無用。多大な苦労が水の泡でも、決して使わないという暗黙の了解があったという。
では、落ちた石はどうなったのか。その場に捨て置かれたのである。そのため、石垣サイズの加工済みの石が、道中に残っている場合も。全ては大事なお城のため。決して、落ちてはなるまいお城。だからこそ、採算度外視でも、縁起担ぎは徹底されたのだ。
城は、時に多くの悲劇を生む。直接力ずくで攻めにさらされる場合もあれば、兵糧を絶たれることも。水で攻められる、穴を掘って侵入される。城の攻略の手段は一つではない。軍師が知恵を絞り、あの手この手で考える。
だからこそ、守る方もありとあらゆる事態を想定して、築城する。1%でも落城の可能性があれば、即刻、排除する。それがいかに迷信だとしても。そうして、城が悲劇を生まないようにと祈る。
どうか、この城が「吉事」としての存在でありますようにと。
参考文献
『戦国の合戦と武将の絵辞典』 高橋信幸著 成美堂出版 2017年4月
『信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月
『戦国軍師の合戦術』 小和田哲男著 新潮社 2007年10月
『戦国の城の一生』 竹井英文著 吉川弘文館 2018年10月