Travel
2020.05.03

信長を土下座させた男!?朝倉氏最後の当主・義景が住んだ「一乗谷朝倉氏遺跡」

この記事を書いた人

明智光秀が一時鉄砲指南役として仕えた朝倉氏は、103年間に渡り越前を支配下に置いた戦国大名。越前国一乗谷は“北陸の小京都”と呼ばれて繁栄しました。朝倉氏が最も栄えたのが10代孝景(たかかげ)の時代。その子、16歳で家督を継いだ11代義景(よしかげ)の時代に朝倉氏は滅亡を迎えます。
結果として最後の当主となってしまった朝倉義景ですが、いったいどのような人物だったのでしょうか。その時代背景を、朝倉氏が治めた一乗谷とともにご紹介します。

谷合に広がる美しい一乗谷朝倉氏遺跡

一乗谷朝倉氏遺跡は福井市街の南東約10Kmの谷に広がります。越前を支配した朝倉氏の城下町跡で、国の重要文化財・特別史跡・特別名勝に指定。約5Kmの谷幅が最も狭まった南北の場所に上城戸跡(かみきどあと)と下城戸跡(しもきどあと)とという土塁を設け、最盛期にはこの中に約1万人が暮らしていたと考えられています。

桜の季節は特に桃源郷のような美しさ!ここに400年以上も前の城下町の跡がそっくり埋もれていたというのですから、歴史ファンが憧れるのも納得です。一乗谷は“日本のポンペイ”とも呼ばれています。

朝倉館跡と庭園

もともと朝倉氏は現在の兵庫県養父市(やぶし)八鹿町(ようかちょう)の豪族でした。南北朝時代に、主人の斯波高経(しばたかつね)に従って朝倉広景(ひろかげ)が越前に入国したのが始まりです。この広景にはじまり、孝景、氏景、貞景、孝景、義景(最後の当主)と、朝倉氏は越前の地で5代に渡って繁栄します。朝倉氏がこの一乗谷を本拠地にしたのは1467年の応仁の乱での活躍がきっかけだったとされていますが、かなり以前から朝倉氏が一乗谷を本拠としていた説もあります。
一乗谷には戦乱で荒廃した都の貴族・僧侶などの文化人が下向し、北陸の小京都とも呼ばれました。

朝倉館跡正面の堀に面して建つ唐門(朝倉氏の時代にあったものではなく、後に秀吉が義景の善提を弔うために寄進したものと伝えられている)

高い文化水準をうかがわせる朝倉館跡

唐門をくぐった先にある朝倉館跡は11代当主義景が住んだ館跡で、常御殿、主殿、会所、茶室、日本最古の花壇、台所、厩(うまや)、蔵などが整然と配されていた跡が覗えます。屋敷跡奥の小高い場所に登って上から眺めると全貌を見渡せます。

豪壮な石組みが残る4つの庭園

一乗谷朝倉氏遺跡には、朝倉館跡の館跡庭園、義景の側室・小少将(こしょうしょう)の住まいであった諏訪館跡庭園、最も古い湯殿跡庭園、将軍・足利義昭を招いて桜を見る宴会を催した南陽寺跡庭園の4つの庭の跡が残っています。室町時代の庭園の雰囲気がよく伝わる造りで、特別名勝に指定されています。

芸術家の故岡本太郎氏が訪れた際には、庭園に感動して長時間眺めていたそうですよ。

忠実に再現された復原町並

朝倉館跡を見下ろす小高い場所からは、朝倉館跡と道路を挟んで昔の町並みがそのまま残ったような場所が見えます。ここだけ見ると本当にタイムスリップしたかのような光景です。

ここは復原町並。原寸大の立体模型で、まるで当時の町に迷い込んだかのようなクオリティで復原されています。中央の道を挟んで山側に重臣たちの立派な屋敷、反対側に武家屋敷や町人の町屋が並び、発掘された石垣や礎石をそのまま使って柱や壁、建具なども忠実に復原されています。

一乗谷では衣食住もここで賄われていたといわれています。町屋や武家屋敷は中を見学できるようになっています。当時の暮らしぶりがわかりますのでぜひ入ってみましょう。

「染」の暖簾をくぐると中には藍の壺もあるという徹底ぶり

朝倉氏最後の当主 朝倉義景

足利義昭、信長、光秀…時代のキーパーソンと深くかかわりがあった義景

義景は室町幕府最後の将軍・足利義昭と繋がりがありました。大河ドラマ『麒麟がくる』で向井理さんが演じる足利義輝が三好三人衆らによって殺害されると、義輝の弟で仏門に入っていた覚慶(後の義昭)は、義景と大覚寺義俊の力添えで近江へと逃れます。
その後義昭は越前に3年にわたって滞在し、義景は義昭の後見となり元服の儀も執り行っています(義昭は仏門に入っていたため、元服していなかったので)。義昭は上洛したがりますが義景がなかなか動かなかったため、結局織田信長を頼って上洛を遂げ将軍になりました。そこには信長を頼るように進言した光秀の存在があったともいわれています。

義景さん、なんだかちょっともったいないような気がしますね…。

何度も信長を追い詰めた義景

信長と義景の間では、何度か戦が起こっています。信長が義弟(妹・お市の夫)である浅井長政に裏切られ、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)と明智光秀が殿軍(しんがり)を務めた元亀元(1570)年の金ヶ崎の戦いや、同年の「織田・徳川軍」対「浅井・朝倉軍」の姉川の戦いはよく知られているのではないでしょうか。金ヶ崎の戦いでは、お市が袋の両端を縛った「小豆の袋」を陣中見舞いとして信長に送り、浅井・朝倉の挟み撃ちの危機を伝えたという逸話があり、度々ドラマなどでも取り上げられる有名シーンです。

何度も信長を追い詰め「あともう一歩!」と思われる場面があり、もう決まってしまっている過去のこととはいえ、歴史ファンはヤキモキ。

「織田」対「浅井・朝倉軍」の志賀の陣は、和睦のために義景と長政の前で信長が土下座し、義景に対し「天下は朝倉殿持ち給え。我は二度と望みなし」という起請文を出したという話もありますが、これに関しては出所が江戸時代に書かれた『三河物語』なので真偽・客観性は乏しいとされています。ただし、義景と信長の戦いを語るうえでは面白い逸話としてたびたび話題にあがり、アニメ「信長の忍び」でも登場するシーンです。

朝倉氏の最後の当主義景は「決断力がない」「チャンスをものにできない」などと歴史ファンをやきもきさせる一方、文武両道に秀でた大名として評価される一面も持ち合わせています。刀根坂の戦い(一乗谷の戦い)で信長に追われ、最後は従兄弟の朝倉景鏡に裏切られ自刃し、ここに一乗谷朝倉氏の栄華に終止符が打たれました。

一乗谷朝倉氏遺跡
京福バス福井駅前5番乗り場から62東郷線で25分 「朝倉資料館前」又は「復原町並」下車
電車は一乗谷駅が最寄ですが、本数が少ないのでご注意ください

書いた人

生まれも育ちも大阪のコテコテ関西人です。ホテル・旅行・ハードルの低い和文化体験を中心にご紹介してまいります。普段は取材や旅行で飛び回っていますが、一番気持ちのいい季節に限って着物部屋に引きこもって大量の着物の虫干しに追われるという、ちょっぴり悲しい休日を過ごしております。