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2021.05.24

葛飾北斎はプロモーションも上手かった!尾張名古屋が熱狂した即興パフォーマンス「大だるま絵」に迫る!

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とある部屋の一角、男たちが顔を突き合わせ、密談を繰り広げている。

「境内に120畳の紙を敷いてだな、即興でだるま絵を描いていく。筆は俵五俵を束ねたものとそば殻を束ねたものだ。まず顔を描き、ゆっくりと絵を引き上げて衣紋を描く。描きあがったらさらに引き上げるんだ。そうすると大だるまの絵が風にはためいて、観客からワーッと歓声があがる~そんな流れだ」

などと打ち合せていたのではないかと妄想するのは、1817(文化14)年、葛飾北斎が尾張名古屋の西掛所(現本願寺名古屋別院)で行った一大パフォーマンス「大だるま絵」の興行の様子です。

120畳の紙に即興でだるま!?

半日で120畳の紙に大だるまを即興で描いた北斎

『北斎大画即書細図(ほくさいたいがそくしょさいず)』によれば、『北斎漫画』を広く知らせるために、北斎が「大だるま絵」を描くというポスターがあちこちの店に張り出されました。当日はそのポスターを見た人や噂を聞きつけた多くの人が、西掛所を訪れます。まさに今でいうプロモーションです!

北斎さん、こんな告知イベントみたいなこともやっていたんですね!

境内には足場が組まれ、巨大な紙が用意され、見物席も設けられました。弟子たちは墨を摺るなど、準備に奔走。北斎は昼頃に登場し、拍手喝采の中、まずは鼻を描き、右の眼、左の眼、口を描き、お弟子さんが隈取をし、そばがらの筆を使って髭を描き、紙を半分引き上げ、衣紋のところを描きました。仕上がったところで13mぐらい引き上げて、観衆に披露。翌日はさらに高く掲げられただるま絵を見ようとたくさんの見物客が訪れたと言います。

『北斎大画即書細図』 名古屋市博物館蔵

この記録には、当日の賑わいや後日談や反響なども書かれていて、話題をさらった北斎のパフォーマンスに

世人みな、こぞりて賞賛し、みな「達磨先生」と異名(あだ名)をつけて、それをまた略して「だるせん」と呼んだ。

と記されています。

尾張藩士から庶民にまで愛されていた

この詳細な記録を残したのが、尾張藩士であり、文筆家でもあった高力猿猴庵(こうりきえんこうあん)です。彼が北斎について「されば、当地にて画を好める輩、比門に入って学ぶもの少なからず」と評しているように、北斎は名古屋でも大人気で、北斎に弟子入りを希望する者も多かったようです。

『夏の夜明けのホタルの檻』 メトロポリタン美術館

1814(文化11)年に発行された『北斎漫画』は、緻密でありながらグラフィックな構図で、人物鳥獣など森羅万象が多様に描かれます。この下絵を木版画で刷った「版本」が、当時ベストセラーとなりましたが、今見てもその斬新なアイディアや巧みな描写は、天才絵師を語るにふさわしいもの。これが日本から輸出された陶器などの緩衝材に使用され、海外で驚きを持って北斎の名が広まったのだという説もあるほどです。

『北斎漫画』 メトロポリタン美術館

それにしても江戸の絵師であった葛飾北斎が、なぜ名古屋の出版社から、世界にその名を広めた『北斎漫画』を出せたのか?

そもそも、「北斎漫画」が名古屋から出版されてたなんて知らなかった!北斎といえば、江戸か小布施のイメージだったけど、名古屋とも深いつながりがあるんですね

この200年前の名古屋で起きた出来事に驚愕した私は、その真実を探るべく、2017年に名古屋市博物館で『北斎だるせん』展を企画した学芸員の津田卓子さんに突撃インタビューしてきました。

挿絵人気アーチストとしての北斎がすごい!

―北斎というと、ちょっと偏屈で気難しい変わり者、孤高の絵師というイメージがあったのですが、ユニークな一大パフォーマンスをやってのけるなど、軽妙な感じがちょっと意外でした。

津田:北斎について多くの人は、有名な『冨嶽三十六景』を描いた人というイメージが強いと思うのですが、その時の名前はすでに北斎ではなく「為一(いいつ)」でした。北斎は30回以上名前を替えていますが、葛飾北斎を名乗っていた時に描いていたのは、狂歌や読本の挿絵なんです。狂歌というのは1787(天明3)年に、江戸のインテリ層を中心に大流行した文芸で、寛政年間(1789~1801)には、地方でも狂歌を好む愛好家が増えていきます。読本は当時の長編伝奇小説といったところでしょうか。北斎はそこをマーケットにして、全国各地にファンを増やしていきました。『冨嶽三十六景』以前にすでに人気絵師、いわば有名イラストレーターだったのです。そしてそうした地方の人たちから支持を得ていた北斎は、彼らの要望に応えて、あちこち旅をしながら巡業していたんだと思います。

北斎といえば「冨嶽三十六景」のイメージだけど、当時はこの作品が出る前からファンがいたのですね!

『諸芸三十六のつつき書』 メトロポリタン美術館

―確かに旅をするには相当なお金がかかる時代ですし、あれだけいろいろな土地に行って絵を描くためには、自分のお金だけでは追いつきませんよね。

津田:取材も兼ねた営業旅行ですね。当時の絵師はみなそうだったと思うのですが、北斎はいろいろなところに行って、人脈を築いているんです。その中の一人が名古屋の本屋であり、出版社であった永楽屋の主人、永楽屋東四郎(えいらくやとうしろう)です。この頃、永楽屋は江戸の出版社であり、北斎に仕事を依頼していた蔦屋重三郎と業務提携をしているので、彼が北斎と永楽屋を仲介したのかもしれません。初代の蔦屋は歌麿や写楽を世に売り出したプロデューサーとして知られています。

弟子たちのための絵手本として発売された『北斎漫画』は超ベストセラーに

―それにしても、名古屋の出版社が最初に『北斎漫画』を出したというのには驚きました。

津田:1812(文化9)年、北斎は関西への旅行の途中に、名古屋へ立ち寄り、尾張藩士の牧墨僊(まきぼくせん)と親しくなります。そして、その屋敷にて描いた絵300枚余りがのちに『北斎漫画』として出版されたのです。

その際、墨僊は、北斎からこんな教えを受けたそうです。

画に師なし。
波乱を描かんと欲すれば紅海に見、
草木を描かんと欲すれば山野に見る。
人物鳥獣左右其師に遭ふ。
(北斎の教え 牧墨僊『写真学筆 墨僊叢画』より)

≪意訳≫
絵に師匠などおらん。波を描こうとすれば海へ、草木を描こうとすれば山野へ行って観察すればよい。人間や鳥、獣など、自分の身の回りにいくらでも絵の師(手本)がおるではないか。

お手本など要らないという北斎を、ある人が「いやいや北斎さん、みんなあなたの絵にあこがれて門人になっているんだわ。つまり北斎風の絵を学びたいんだわ」。

北斎「うーん、まあそんなら描いてみるか」

『北斎漫画』 メトロポリタン美術館

津田:もしかしたら、この「ある人」というのは永楽屋のことだったのかもしれません。いずれにせよ、北斎自身に会う機会がめったにない地方の人間だからこそ、彼の絵手本を求める思いは強かったのでしょう。そしてその熱に押されて『北斎漫画』は、この世に誕生したのではないかと思ってしまうのです。

北斎は、北斎漫画を出版することにもともとは前向きじゃなかったんですね

『傳神開手 北斎漫画 初編-十五編』メトロポリタン美術館

―永楽屋にとって、『北斎漫画』は社運を賭けたものだったのでしょうか?

津田:永楽屋の武器になったのは間違いないです。ただ永楽屋が、江戸の出版社の角丸屋甚助とともにとはいえ、『北斎漫画』を出せたのには、前段階の背景があるんです。それは北斎がやってくる20年前のことなんですが、当時、本は誰でも出版できる状況ではなかったんです。名古屋ですと、京都の本屋の組合にお伺いを立てないと本が出せなかった。ところが1794(寛政6)年、名古屋の本屋の組合が京都から独立するんです。これは前代未聞のことで、尾張藩の後押しがあったのではないかと思われます。

―確かに平和な時代が続き、尾張藩の武士たちも戦がないから暇を持て余していたのですね?

津田:特に尾張藩は藩士に内職を推奨していたようです。永楽屋は優秀なライターとして藩士を抱え、彼らの内職によるテキストを出版していたんです。

武士がライターをしてたんだ!

彼らが書く全国の知識層にニーズのある本、例えば中国の古典の注釈書などは、永楽屋の主力商品となりました。それをバーターとして全国の本屋さんと交渉し、出版社として力をつけていったようです。ちなみに『北斎漫画』をともに出版した角丸屋甚助は、永楽屋の狂歌の師匠でもあった宿屋飯盛(やどやめしもり)※が繋いだ縁なのではないでしょうか。

※江戸時代の国学者石川雅望(いしかわまさもち)の狂名

―そこから、『北斎漫画』の出版、そのプロモーションとして「大だるま絵」へと展開していくんですね。もともと、最初にこの大だるま絵のパフォーマンスををやったのは東京の護国寺だったそうですね。

津田:名古屋は2回目でしたが、面白いのは、護国寺でやった時より、ちゃんとアップデートされているところです。筆の太さや種類、見せ方なども改良されています。そこが北斎のすごいところです。そして名古屋で開催できたのは、このパフォーマンスを面白がって一緒に手伝った仲間たちがいて、北斎プロジェクトが誕生したからだと思います。

―アップデート! 見せ方まで考えるなんてまるでプロデューサーですね!

津田:護国寺でやった時に、地面に敷いた紙に描いた絵が、あまりに大きすぎて周りからは何だかわからず、来ていた人たちは本堂に登ってようやく全体を見ることができたと言われています。そこで名古屋では、絵自体を引き上げ、観衆に見せるようにしたんです。当日の思いつきで出来ることではないので、見せ方を想定して念入りに準備したんだと思います。見る人の気持ちを考えているところが、表現者としてもすごいところだと思うんです。

アーティストだから作品を描いたらOKではなくて、パフォーマンスを見るお客さん目線になってアップデートしていてすごい!

―イベントを仕掛けるために、絵師と武士、そして弟子や本屋や紙屋が一緒になってワイワイやっていたなんて、なんだか現代と同じようでワクワクしてきますね。

津田:『北斎大画即書細図』の序文に墨僊は、こう書いています。

「好まずして(やろうとしないで)、どうして人の目を驚かすことができるのか」

北斎の画力はもちろん、彼の「人の目を驚かす」パフォーマンスを面白がる名古屋の仲間たちが愛おしく感じられます。なんだか楽しそうですよね。

尾張藩の殿様も北斎のファンだった!?

津田:ちょっと話は変わりますが、当館の所蔵に『伝西浜御殿杉戸絵 唐人奏楽図』という絵があるんです。宮の渡しにあった尾張藩のお屋敷『西浜御殿』に使用されていたと伝わる杉戸絵なんですが、この元絵が北斎のものだったということが2017年にわかりました。御殿の障壁画に浮世絵師の絵を引用するというのは、当時では珍しいことです。大だるま絵制作に協力した高力猿猴庵や墨僊だけでなく、このことからも、尾張藩内に北斎を慕う侍たちがいたということは間違いないと思います。ちなみに尾張藩の若殿様のお墓からは北斎漫画も出ているんです。

庶民にも大人気、武士にも慕われてたなんて、すごい…!

―それはすごい! 本当に北斎はいろいろな人に影響を与えていたんでしょうね。「冨嶽三十六景」に描かれた「尾州不二見原」も名古屋に縁があって描かれたのでしょうか。

津田:富士見原(ふじみばら)は現在の名古屋市中区富士見町にあたります。北斎が滞在していたところから1.5km、大だるま絵の会場となった西掛所からはわずか500mほどの距離です。名古屋にいる時に、猿猴庵あたりが「富士山が見えるところがあるんでいこまい」と富士見原に連れていったのではないかと想像しています。とはいっても、もちろん北斎が実際に道ばたで桶作りをする職人を見たわけではないでしょうね。桶を望遠鏡に見立てて描いていたのではと思うのですが。富士山の三角と、桶の丸を組み合わせた構図が面白いです。富士山がどこにあるの?という「隠れ富士」を探させる意図もあったのではないでしょうか。絵を見ている人が「富士山」を見つけた時の感動まで考えられているんです。大だるまもそうですが、北斎は遊び心があり、人々をあっと驚かせるとことが好きだったんだな~と。実は、私にとっても、この絵は学生の頃に衝撃を受けた絵なんです。

『冨嶽三十六景 尾州不二見原』 メトロポリタン美術館蔵

90年という長い人生の中で、北斎が目指したものとは?

―北斎の絵が日本だけでなく、世界の多くの人々の心を捉えた理由がわかった気がします。北斎は死の直前に「あと5年生きられたら、本当の絵師になれた」と語っていますが、まだ、自分の絵に満足がいかなかったんでしょうか。

津田:護国寺と名古屋における大だるまイベントの比較だけでも、常によりよく面白くしていきたいという情熱を持ち続けた人だったんだと思います。求めるところが、画技の進化だったんですよね。あくなき探求心で絵を描き続け、生き抜いたと言えるのではないでしょうか。

『冨嶽三十六景 山下白雨』メトロポリタン美術館

―お金持ちになりたいとか、名誉が欲しいとか、そういうことではく、ただただ、自分の頭の中にある世界を表現したい欲望と、描きたいものはわかっているのにそれが思うように描けない生みの苦しみだったのでしょうか。北斎にとって絵は終わらない旅のようなものだったのですね。

津田:どこまで行っても終わりがない。一つ見つかると、また、次の課題が出てくる。そんな感じでしょうか。学芸員も同じです(笑)。でもみんなそんなものなのかもしれませんね。

―人生100年時代、改めて北斎の言葉の重みをかみしめてしまいます(笑)。当時とは、全く変わってしまった名古屋の町ですが、この話を聞いたら、北斎もこのあたりを歩いていたんだと妄想するだけで、町を歩くのが楽しくなってきました。

津田:展覧会の時に「だるせんマップ」を作ったんですが、実際に歩いてみると、猿猴庵、墨僊、永楽屋がみな家が近くで、本当に行き来していたんだなと思いました。名古屋の古地図も名古屋市が作ったアプリ「名古屋歴史スマートナビ」で見られます。北斎もいろいろあって、不遇な下積み時代があったり、仲間とわちゃわちゃ楽しんでいたり、仲間がどんどん亡くなって孤独を感じたり、そういった生身の人間としての歴史を感じられると、より身近になりますね。

当時の平均寿命の倍近く生きた北斎。歳を取るにつれて孤独も増すなかで、絵に対する探究心がより生きがいになっていたのかもしれませんね

『北斎大画即書引札』 名古屋市博物館蔵

200年後、名古屋の町で起きた北斎プロジェクトX

名古屋の人々を熱狂させた本願寺名古屋別院所蔵の「大だるま絵」は戦災で焼失。

200年後の記念事業として、この「大だるま絵」を再現することを企画したのが名古屋別院の副輪番である羽川俊裕さんをはじめとする僧侶たちでした。この一大事業を成し遂げようと、多くの人々が集まり、力を結集させていきます。

ワクワクする企画!

詳細な記録として残されている『北斎大画即書細図』を所蔵している名古屋市博物館が同時期に展覧会の企画を立案。学芸員である津田卓子さんが中心となり、資料の提供にあたります。

当時のような興行になれていない名古屋別院の僧侶たちも、かつて垣根を超え、北斎が大だるまを描き、多くの人々が親しみを持って西掛所を訪れたことに意義を感じ、多くの人が訪れることのできるイベントを開催したいとの思いが強まります。中心となって企画運営に奔走した本願寺名古屋別院の熊谷総持さんも「寺は昔から町民たちの集いの場であり、学びの場であったように、身近な場所でした。もう一度、そういった視点に立ち返るためにもこのイベントを成功させたいと強く思うようになりました」と語ってくれます。

やるなら、忠実に再現したいと、120畳の和紙を用意することから始まりますが、大きさにして、縦横18m、横11mにも及ぶ巨大な和紙です。どうやってその和紙を調達したら良いのかもわからず、最初は途方に暮れたと言います。そんな中、名古屋別院の近くで200年近い歴史を持つ紙業屋の柏彌(かしわや)紙店の店主・尾関和成さんが協力を申し出てくれます。さらにそこからの紹介で、文化財保存修復研究所を持つ愛知県立芸術大学が実現に向けて、研究の一環としてこの事業を受託してくれたのです。

各方面のプロ集団の思いが一つに繋がり、平成の北斎プロジェクトが誕生しました。しかし、当日を迎えるまでには、当時の材料を用意することの困難さから始まり、実際に絵を描く同大の模写制作代表の藤田哲也さんを中心とした模写チームは、何度も練習を重ね本番に望んだと言います。江戸時代、北斎が描いた和紙は丈夫な泉貨紙でしたが、これを1880枚用意しなければならず、現在でも手漉き和紙を生産している愛媛県内の工房に発注。さらに張り合わせの作業と、夜を徹して準備が行われたのです。

巨大なだるまを描くだけでなく、準備段階から大変……北斎はどうやって120畳もの和紙を集めたのかも気になりました


そして天候にも恵まれた2017(平成29)年、11月23日、観客が見守る中、境内に敷き詰められた和紙に「大だるま絵」が見事に描かれました。まさに当時と同じように、熱い思いを持った人々が集結し、名古屋の町をとてつもない熱風が吹き抜けた瞬間でした。

試作として描かれた「大だるま絵」は本堂に飾られ、120畳の「大だるま絵」は毎年、11月23日に特別展示として公開されています。

実物見てみたい!

平成の北斎プロジェクトを率いた副輪番である羽川俊裕さん

当時の史料を元に苦心して作った藁筆とそば殻筆

200年後の人々にまで影響を与え、人々を巻き込んでいく北斎のパワーたるや何なのか。
その答えは、5月28日公開の映画「HOKUSAI」の中に見いだせるかもしれません。

名古屋市博物館

住所:名古屋市瑞穂区瑞穂通1-27-1
TEL:052-853-2655
開館時間:9:30~17:00(ただし入場は16:00まで)
休館:月曜日、第4火曜日、年末年始

特別展『北斎だるせん!』図録

2017年北斎が西別院で大だるま絵のパフォーマンスから200年の2017年に北斎と名古屋の関係を通して、北斎の魅力を再発見する「北斎だるせん」展覧会(11月18日~12月18日)を開催。この解説図録には、北斎漫画誕生の記録から、大だるま絵のパフォーマンス、狂歌や読本の挿絵も多数収録。津田卓子学芸員の情熱を注いだ解説は一読の価値あり。名古屋市博物館で販売中。2,500円(送料込み)

『北斎大画即書細図』[ほくさいたいが そくしょさいず]

葛飾北斎が名古屋で行った、120畳という大ダルマを描くパフォーマンスの実況記録

購入希望者は、名古屋市博物館に現金書留にて、上記住所まで

メインビジュアル:『北斎大画即書細図』 名古屋市博物館蔵