Art
2022.05.10

名画に隠されたミステリー!尾形光琳の描いた風神雷神、屏風の裏でも飛んでいた!

この記事を書いた人
この記事に合いの手する人

この記事に合いの手する人

江戸時代初期に俵屋宗達が描いた『風神雷神図屏風』(京都・建仁寺蔵、京都国立博物館寄託、国宝)を約1世紀後に尾形光琳が模写し、さらにその1世紀後に光琳の模写の裏に酒井抱一が別の絵を描いた−−「琳派」の絵師たちは、3世紀にわたる江戸の歴史の中で先達の作風を模倣しつつ創造を重ね、それぞれが独自の境地を開拓しています。その流れの中で生まれた抱一の名作『夏秋草図屏風』には、実は風神雷神が飛んでいるのではないか? 今日はそんなロマンティックな想像の世界に、皆様と一緒に旅立ちたいと思います。

まるで画壇の大河ドラマ!熱い旅になりそうです

光琳の屏風の裏に抱一の絵があった理由

天空ででんでんと太鼓をたたいて雷鳴をとどろかせる雷神と、袋を使って大風を吹かせる風神は、ともに大陸由来の神様。中国・敦煌の莫高窟の壁画(6世紀)などにも描かれています。京都・蓮華王院三十三間堂にある木彫の風神像・雷神像(鎌倉時代、国宝)や、『北野天神縁起絵巻(承久本)』(鎌倉時代、北野天満宮蔵、国宝)に描かれた雷神など、日本でも古くから雷や台風などの自然の脅威を象徴する存在として、さまざまに表現されてきました。

もともとは千手観音像や阿修羅像などの周りの宙空を飛んでいた2神を、俵屋宗達が『風神雷神図屏風』のモチーフとして大きく描いてからは、現代まで多くの画家が模倣したり、変容させたりすることで、キャラクターとしての魅力を放ってきました。それまでは「六曲一双」が屏風の形式の標準だった中で、2つのモチーフを対峙させるのにうってつけの「二曲一双」という形式が広まり始めたのも、宗達のこの作品が起点になっていると聞きます。

六曲一双=屏風の数え方で、六つ折りの屏風が左右で1セット、つまり一双あること。(引用元:実用日本語表現辞典

いろんな視点からレジェンドな作品だったんですね。さすが巨匠!


宗達の絵の原寸大の模写として知られているのが、尾形光琳(おがた・こうりん)の『風神雷神図屏風』(東京国立博物館蔵、重要文化財)です。宗達の絵をかなり正確にトレースしたようなこの屏風の存在自体が、金箔貼りの屏風の中で2神をキャラ立ちさせた宗達の描写がいかに魅力的であったかということを物語っています。

尾形光琳『風神雷神図屏風』 18世紀 二曲一双 紙本金地着色 各166☓183cm 重要文化財 東京国立博物館蔵 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

その光琳の模写の裏に、かつて別の絵があったのをご存じでしょうか。それがこの記事の主役です。

酒井抱一『夏秋草図屏風』 19世紀 二曲一双 紙本銀地着色 各164.5☓182cm 重要文化財 東京国立博物館蔵 重要文化財 東京国立博物館蔵 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

光琳の『風神雷神図屏風』の裏に絵を描いたのは、酒井抱一(さかい・ほういつ)。光琳に私淑して江戸で画風を継承した「江戸琳派」を代表する絵師です。銀箔が貼られた画面の下部に草が描かれたその絵は、『夏秋草図屏風』と呼ばれています。『夏秋草図屏風』は、保存上の問題から1975年に『風神雷神図屏風』からはがされて、別の屏風に仕立て直されました。ともに東京国立博物館が所蔵しています。

私淑とは、直接に教えは受けないが、ひそかにその人を師と考えて尊敬し、模範として学ぶこと。(デジタル大辞泉)
つまり超リスペクトしていたってことですね!


しかし、いくら私淑していたとは言っても、尊敬する画家の絵の裏に自分の絵を描いてしまうなどという大胆なことは普通はしないでしょう。屏風絵の歴史に詳しい日本画家の猪上亜美さんによると、「表裏に絵がある屏風については、池田孤邨​​に表が金地で裏が銀地という例があります。ただし、孤邨​​は抱一の弟子でしたから、影響があったのかもしれません。屏風の表裏両方に絵を描くのは技術的に難しいわけではありませんが、あまり一般的ではないでしょう」といいます。

近年の研究によると、光琳の『風神雷神図屏風』は江戸時代後期に、徳川第11代将軍家斉の父にあたる一橋治済(ひとつばし・はるさだ)が所有しており、抱一は治済の古希の祝いに際して依頼を受けて『夏秋草図屏風』を描いたとされています。抱一自身、姫路藩主の孫、つまり大名家の出身でした。将軍家から大名家の血筋の絵師へ…何とも恐れ多く、そしてありがたい依頼ですよね。断るという選択肢はなく、喜んで描いたのではないでしょうか。

表は金、裏は銀

ここで、もう少し時をさかのぼります。17世紀に宗達が『風神雷神図屏風』を描いたのは、15世紀後半の応仁の乱以来荒廃していた京都の妙光寺を再興する際の、当時の豪商の注文によると言われています。そこでは、和歌を詠むなどの風雅な空間作りが意図されました。当時の価値観では、寺の再興のためには「華々しさ」が必要でした。それが、宗達の屏風が金箔貼りになった理由と考えられています。現代の結婚式などでも使われることがある金屏風は、それ自体が豪華な存在です。金地の屏風に魅力的な図柄を加えることで、寺はより華やかになります。和歌を散らした装飾系の絵巻などの雅やかな世界でも活躍していた宗達は、そうした絵を描くのにこのうえなくふさわしい絵師だったのではないでしょうか。

ちなみに、抱一は宗達の原画の存在を知らずに光琳の絵に接していたようです。光琳の『風神雷神図屏風』は模写ということもあって宗達のオリジナルのほうが高く評価されることが多いのですが、原画を知らなかった抱一には模写であっても現物を目にすることで、宗達の素晴らしい発想や表現が伝わっていたと考えていいでしょう。だから抱一も、思いっきり張り切って描いたのです。

3人の画家の思いと技巧が交わる瞬間!

そしてその『夏秋草図屏風』は銀箔貼り。表の金箔貼りとは対照的ですよね。それは「風神雷神図」への敬意の表れであると同時に、抱一特有の味わいがにじみ出た結果だったのでしょう。描かれた夏草と秋草も、実は雷神と風神に呼応するものです。雷神の裏には雨に打たれた昼顔などの夏草が、風神の裏には強い風になびく葛などの秋草が描かれているのです。夏の雷雨、秋の台風は雷神と風神の仕業。つまり、抱一は、風神も雷神も描かずに、その存在感を画面に残しているのです。銀箔張りであることもあって『夏秋草図屏風』は静けさに満ちているようにも見えるのですが、実は激しい動きがある。なんと奥深い絵なのだろうと、感心しきりです。

『夏秋草図屏風』にぴったりはまった風神雷神

近年、この2つの絵に対してさらに新しい見方をする人物が現れました。日本画家の伊藤哲(いとう・さとし)さんです。伊藤さんは、酒井抱一の雅号「雨華庵(うげあん)」を酒井家の子孫から受け継いで活動しています。伊藤さんの見方を書き出してみます。

・現在は夏草を右隻、秋草を左隻として並べられるのが普通だが、本来は逆だったのではないか。通常の一双屏風では落款(=画家による署名や押印の総称)がそれぞれ外側に来ることから類推しても、そのほうが自然である。
・夏草と秋草それぞれの余白になっている空間には、実は雷神と風神が隠されている。抱一は、鑑賞者に2神の姿を想像させるという、粋な計らいをしたのではないか。

まるでミステリー!

夏草を左隻、秋草を右隻とする並べ方は過去になかったわけではないのですが、現在のように夏草を右、秋草を左に並べているのは、近年の美術史家の研究に基づくものです。『夏秋草図屏風』には下絵(出光美術館蔵)があって文書が貼付されており、その中に「雷神−夏艸雨」「風神−秋艸風」と表裏が呼応する内容の言葉が抱一の自筆で記されている。それが、現在のように並べる根拠と考えられています。

では、伊藤さんの説は荒唐無稽なのでしょうか? 先ほどの画像を再掲します。

酒井抱一『夏秋草図屏風』 19世紀 二曲一双 紙本銀地着色 各164.5☓182cm 重要文化財 東京国立博物館蔵 重要文化財 東京国立博物館蔵 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

左が秋草で右が夏草。左右の草は線対称。真ん中に大胆な余白があるのが印象的です。次に左右を入れ替えます。どうでしょうか。

左隻と右隻を入れ替えた酒井抱一『夏秋草図屏風』 出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)
こう並べると、左隻の左端下部、右隻の右端下部に落款が来る。

まず興味深いのは、右の秋草と左上部の川がほぼまっすぐつながっていることです。二等辺三角形を基調とした構図が出現しました。ここからは主観の域に入りますが、2本の梅の木の真ん中に太い川の流れが三角形のように描かれている尾形光琳の『紅白梅図屏風』(MOA美術館蔵)の構図にも通じる安定感があります。試しに、『夏秋草図屏風』のレプリカを、本物の屏風を部屋で使うときのように、立てて鑑賞してみました。もともとは裏に貼られたものですから、折り方は通常の屏風とは逆の状態になります。

酒井抱一『夏秋草図屏風』のレプリカ(各26☓28.2cm 便利堂製)を机上に立てて鑑賞してみた。このレプリカは尾形光琳の『風神雷神図屏風』と表裏の「両面屏風」になっており、オリジナルの屏風が1975年に分離して保存される前の状態を確認することができる。

屏風というのは実に面白い「道具」だということがわかります。夏草と秋草が迫真性をもって飛び出してきました。屏風絵のすべてがこうした立体性を意識して描かれているわけではないようですが、平面であることから逃がれにくい襖絵(ふすまえ)とは一味違った表現ができる媒体であることに、うなってしまいます。

さらに伊藤さんは、自説に基づいて描いた作品を2018年に発表しました。左右を入れ替えた抱一の『夏秋草図屏風』の模写の上に、抱一があえて隠していた風神と雷神の姿を描き加えた原寸大の肉筆の屏風です。風神と雷神は、光琳が描いた位置に配されています。近年はコンピューターで絵の復元や合成を行うことがしばしばありますが、肉筆での実践は、画家である伊藤さんならではの試みです。

伊藤哲『降臨せし風雷神のために』 2018年 二曲一双 膠 雲肌麻紙 岩絵の具 墨 金泥 ホワイトゴールド箔ほか 各164☓182cm
!!!

両図は見事に重なり、躍動的で迫力のある風景が出現しました。伊藤さんは「風神と雷神は天空を駆け回る存在であることが、とてもリアルに感じられました。雷神の右上にある川のような描写は、おそらく天の川です」と話しています。屏風の折り方は『風神雷神図屏風』に合わせているので、裏に貼られていたときの『夏秋草図屏風』とは凹凸が逆ですが、ここではまた別の立体的な造形美が見えてきました。

屏風の高さは1.6メートルほどありますから、畳の部屋に立ててすぐそばにあぐらをかくなどして座れば、天の川が雲間から覗く銀箔の夜空で暴れる雷神や、秋草を風でなびかせる風神の姿が迫真性をもって感じられることは間違いありません。江戸時代の人々は、おそらく想像力をたくましくしてこうした絵画に接していたのではないでしょうか。『夏秋草図屏風』には描かれていないはずの風神雷神が見えたという人もきっといたでしょう。

表裏にあった2つの絵がこれほど見事に重なるというのは、本当に驚きです。伊藤さんの見方が正しいという確証が得られているわけではありませんが、画家の想像力は芸術作品の鑑賞者を新たな地平に連れて行ってくれるのです。

つあおのラクガキ

ラクガキストを名乗る小川敦生こと「つあお」の、記事にちなんだ絵画を紹介するコーナーです。Gyoemonは雅号です。

Gyoemon『風神雷神図屏風コンパクト』と阿修羅

やはりラクガキストとしては、俵屋宗達の『風神雷神図屏風』を模写せざるをえない! こう思って描いたものを屏風仕立てにしたのが、この素っ頓狂な逸品です。そして真ん中に、数年前に入手した興福寺『阿修羅像』のフィギュアを配置しました。実は風神雷神と阿修羅の組み合わせはずいぶん以前から気に入っていて、これまでに何度も撮ってきたのですが、敦煌・莫高窟の壁画で風神雷神が阿修羅像の周りを飛んでいることを最近知り、こうして並べるのは必然だったのかと思い至りました。まさに、並べるのを「神」の手が手伝ったのかもしれません。

実は、偶然起きていたことがもう一つあります。俵屋宗達の模写と豪語していたわりには、雷神の色が違っていたのです。宗達は雷神を白く描いています。しかし、もともと雷神は赤系統の色で描かれるのが普通でした。『北野天神縁起絵巻』の雷神などは真っ赤です。そして、このへたへたなGyoemonの模写においても、気づいたらオレンジ色で描いてしまっていました。やはり、「神様が降臨したのかもしれないなぁ」などと、ゆるく夢想しています。

参考文献

玉蟲敏子『絵は語る13 酒井抱一筆 夏秋草図屏風−−追憶の銀色』(平凡社)
仲町啓子『光琳論』(中央公論美術出版)
仲町啓子『もっと知りたい尾形光琳 生涯と作品 改訂版』(東京美術)
仲町啓子『美術館へ行こう 琳派に夢見る』(新潮社)
奥平俊六『屏風をひらくとき』(大阪大学出版会)
巖谷國士編『澁澤龍彦空想美術館』(平凡社)
小川敦生「尾形光琳と酒井抱一をめぐる新しい愛の“発見”」(日経ビジネスオンライン2017年10月14日、日経BP社)
小川敦生「変容する風神雷神(上)」(日本経済新聞2022年3月20日付朝刊「美の粋」面)

書いた人

美術ジャーナリスト&日曜ヴァイオリニスト&ラクガキスト(雅号=Gyoemon)。そして多摩美大教授。新聞や雑誌の美術記者を経験しながら「浮世離れ」を目指し、今日に至る。音楽面ではブラームスのヴァイオリン協奏曲のソロをコンプリート演奏する夢を実現し、自己満足の境地へ。著書に『美術の経済』。

この記事に合いの手する人

平成元年生まれ。コピーライターとして10年勤めるも、ひょんなことからイスラエル在住に。好物の茗荷と長ネギが食べられずに悶絶する日々を送っています。好きなものは妖怪と盆踊りと飲酒。