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燕子花図屛風・「漢委奴の国王」金印
〜ニッポンの国宝100 FILE 5,6〜

日本美術の最高到達点ともいえる「国宝」。2017年は「国宝」という言葉が誕生してから120年。小学館では、その秘められた美と文化の歴史を再発見する「週刊 ニッポンの国宝100」を発売中。

国宝 File 5, 6 表紙

各号のダイジェストとして、名宝のプロフィールをご紹介します。

今回は琳派の記念碑的大作、「燕子花図屛風」と日本の外交史の冒頭を飾る、「漢委奴国王」金印です。

金箔1000枚のきらめき「燕子花図屛風」

国宝_File5

金地の大画面にカキツバタの群落が咲き誇る「燕子花図屛風」は、後世、「琳派」と称される装飾的な芸術を大成させた、江戸時代中期の絵師・尾形光琳の代表作です。

単なる草花図ではなく、画題は平安時代の「伊勢物語」第9段の「東下り」だとされています。東国に下る歌人・在原業平一行が、三河国八橋の地(現在の愛知県知立市八橋町とされる)で一面に咲くカキツバタに心打たれる。そしてはるかな旅路と妻を思う歌を詠んで、一行が涙する場面です。

しかし、この屛風絵には業平をはじめ物語の内容を具体的に示すものは何も描かれていません。それでも光琳の顧客であった京都の寺社や公家、富裕な町衆の人々は、カキツバタの花から「東下り」の物語に思いをはせることができました。彼らにとって「伊勢物語」は、それほどなじみ深い主題だったのです。

そもそも光琳自身が典型的な町衆でした。生まれは京都の高級呉服商・雁金屋。父宗謙は、学問や芸事に精通した趣味人で、光琳も能楽や茶道、書、絵画に親しみつつ成長しました。莫大な遺産を相続して放蕩に明け暮れた光琳が、本格的に画業をスタートさせたのは、父からの遺産も使い果たした40歳を過ぎてからのこと。そして44歳にして、「法橋」(朝廷から与えられる名誉ある位)に叙されるのです。それからまもなくして描かれたのが、この「燕子花図屛風」と考えられています。

画技の基礎を画壇の主流であった狩野派に学び、さらに自分が生まれる少し前まで京都で活躍していた町絵師・俵屋宗達の作品から大きな影響を受けた光琳ですが、この作品では、前例のない手法に挑戦しています。「伊勢物語」を主題にしながら、カキツバタの群落だけを配する。しかも、同じ型の花群を反復させる。金地に群青と緑青だけで大画面を構成する。

呉服商の家に生まれ育った光琳は、工芸的手法、斬新なデザイン感覚と鋭敏な色彩感覚を駆使して、この作品を作り上げました。「燕子花図屛風」は、光琳が独自の画風を全面に打ち出した、はじめての大作。まさに琳派の記念碑的な作品です。

国宝プロフィール

尾形光琳「燕子花図屛風」

18世紀前半 紙本金地着色 六曲一双 各151.2×358.8cm 根津美術館 東京

江戸時代中期に京都で活動した絵師・尾形光琳が描いた屛風。金地にカキツバタのみを描いて、在原業平が主人公とされる「伊勢物語」の第9段「東下り」を象徴的に表現している。リズミカルな花の配置など斬新な装飾性を特徴とする、光琳の代表作。

根津美術館

いちばん小さな「国宝」

国宝_File6

金色に輝くこのいちばん小さな国宝は、江戸時代、天明4年(1784)に発見されました。場所は福岡県の博多湾に浮かぶ志賀島。島に住む「甚兵衛」という農民が、水田の溝を修理中に、大きな石の下から発見したと伝えられています。

掘り出された「金印」は、ただちに福岡藩に提出されました。鑑定依頼を受けた藩の儒学者・亀井南冥は、これが「後漢書 東夷伝」に記載されている印であると指摘しました。つまり、これこそ建武中元2年(57年)、後漢の光武帝(在位25〜57年)が、「倭奴国」に与えた印であるというのです。

印面にはっきりと刻まれた「漢委奴国王」の文字。「委(倭)奴国」部分の読み方については発見当初から諸説あり、さまざまな議論を生んできました。しかし、明治時代に「委の奴の国王」と読まれるようになり、現在ではこの説が有力とされています。「奴国」とは、「三国志 魏志倭人伝」に邪馬台国、投馬国に次ぐ大きな国と記された国のこと。現在の福岡市から春日市一帯にあったと考えられています。

この奴国が、後漢王朝に朝貢の使節を派遣し、皇帝から「金印」を贈られたというわけですが、単なる返礼の品ではありませんでした。漢王朝には、地位や身分の証として印を与える「印章制度」がありました。「漢委奴国王」と刻まれた「金印」をこの制度と照らし合わせてみると、漢が当時の日本の使者をどのように認識し、どのように遇したかがわかるのです。

金製の印は漢の諸侯王に与えられる印で、奴国王が彼らと同等と見なされたことを意味します。つまみの部分にあたる「鈕」は蛇の形をしています。これは南方諸民族に与えられた印鈕の形です。そして印面に刻まれた「国王」とは、周辺の異民族の首長に与えられた最高ランクの官職。つまり、光武帝が奴国王を外臣として最高の待遇でもてなしたことを意味します。

輝く金色と、深く鋭く刻まれた文字の造形美で、見る者を魅了する「金印」。それは、弥生時代後期の日本と中国との外交を雄弁に物語る、歴史の証ともいえます。

国宝プロフィール

「漢委奴の国王」金印

福岡県志賀島出土 後漢(弥生時代後期 1~3世紀) 高約2.2cm 福岡市博物館 

江戸時代の天明4年(1784)、博多湾の湾口に位置する志賀島から出土した鋳造による金製の印。印面に「漢委奴国王」の文字が彫られており、「後漢書 東夷伝」に記述のある、後漢の光武帝が紀元57年に倭の奴国王に下賜した印と考えられている。

福岡市博物館

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