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北斎AtoZ
P=【パフォーマンス】思い切ったアピール力で人気急上昇!
初めて師事した浮世絵師・勝川春章の没後、勝川派を破門された北斎は、琳派の流れを汲む俵屋宗理(たわらやそうり)を襲名します。
しかし間もなく、その画号をあっさり門人に譲ってしまった北斎は、40歳を過ぎたころから即興の「席画」や「曲画」などの、今でいうパフォーマンス・アートをたびたび試みています。
たとえば、寛政11(1799)年には三囲稲荷(みめぐりいなり)の開帳に合わせて曲画を披露し、文化元 (1804)年の音羽護国寺(おとわごこくじ)の観世音(かんぜおん)開帳時には、本堂の前に120畳の紙を用意し、その場で大ダルマを描いて評判をとりました。
北斎のパフォーマンスに特化した展覧会も!
大だるまパフォーマンスの評判は11代将軍徳川家斉(いえなり)まで伝わり、将軍の御前で、文人画家・谷文晁(たにぶんちょう)とともに「席画」を行ったとか。北斎は優れた画力のみならず、インパクトある自己PRによって名を上げていったのです。
これが北斎の大ダルマ・パフォーマンス!
その後、『北斎漫画』が評判をとり、人気絵師となった北斎は、文化14(1817)年に名古屋を訪れた際に、自らが手がけた絵手本の悪口を耳にします。
それに憤慨したのか、北斎は江戸で行っていたパフォーマンスを西本願寺掛所(にしほんがんじかけしょ)で決行。
大勢の見物人の前に用意された120畳もの大きな紙に大ダルマを描くと、やんやの喝采を浴び、 北斎人気はさらに上昇。名古屋や関西からの門人も激増しました。
このように北斎は、優れた画力にプラスして、大衆の心をつかむ術を知っていて、自己プロデュース能力にも長けていたことがわかります。