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2019.09.26

日本近代彫刻の父・荻原守衛(碌山)とは何者だったのか。中村屋サロン美術館学芸員に聞いた!

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「碌山」の号でお馴染みの明治期に活躍した彫刻家・荻原守衛(以下、守衛)は、渡洋して初めてロダンに学んだ日本人であり、“日本近代彫刻の父”として知られています。内から溢れ出る生命の躍動を感じられるような守衛の力強い彫刻を鑑賞するなら、長野県安曇野市にある碌山美術館が真っ先に思い浮かぶかもしれません。安曇野は少し遠方で……と鑑賞の機会を逃している方にオススメしたいのが、中村屋サロン美術館です。

1910(明治43年)に30歳で急逝した守衛が、留学から戻り日本で彫刻を制作した期間はわずか2年でしたが、守衛が若手の芸術家に与えた影響は計り知れません。そんな守衛は、どのようにして彫刻家を目指すようになったのでしょうか? 中村屋サロン美術館の学芸員・太田美喜子さんに、荻原守衛の作家としての生涯や、中村屋の創業者でありサロンに集まる芸術家たちのよき父、母のような存在だった相馬愛蔵とその妻・良(以下、ペンネームの「黒光」)との関わり、中村屋サロンでの交流についてお話を伺いました。


黒光の嫁入り道具の油絵が、守衛を芸術の道へ向かわせる

荻原守衛は1879年(明治12年)に中村屋の創業者・相馬愛蔵と同じ、長野県南安曇郡東穂高村で生まれました。サロンの中心人物であった芸術家とその場を提供した中村屋の主人として関わる以前から、同郷である守衛と愛蔵は親交を結んでいました。また愛蔵の妻・黒光は、守衛やサロンに訪れる芸術家たちから、母のように慕われる存在でした。

守衛が芸術家を目指すことになるのは、この黒光が相馬家に嫁ぐ際に嫁入り道具で持ってきた油絵《亀戸風景》がきっかけでした。

「《亀戸風景》は長尾杢太郎が描いた絵で、杢太郎が黒光の結婚祝いに贈ったものです。今は当たり前のように美術館があり、いつでも油絵を見ることができますが、当時、日本画を持っている家はあっても、西洋画材を使った絵が簡単に見られる時代ではありませんでした。荻原は初めて油彩画というものを見て、『なぜこんな風に描けるんだろう』と感銘を受けました。

杢太郎は不同舎で学んでいました。不同舎の主催者・小山正太郎は、工部美術学校でイタリアの画家・フォンタネージに学んでいます。フォンタネージはフランスのバルビゾン派のミレーやコローを研究し描いている人物だったため、不同舎では写生して描く風景画を中心に勉強しました。守衛を感動させた《亀戸風景》も、バルビゾン派を連想させる作品です」

東京の不同舎などで油彩画を学んだ守衛は、パリで学ぶために渡仏した小山正太郎に習い、1901年(明治34年)にニューヨークとパリへ留学しました。

「荻原はまずニューヨークに渡りました。フェアチャイルド家でスクールボーイ(当時の日本でいう書生)をしながら、ニューヨークの美術学校で学びました。そしてお金が貯まると憧れのパリに向かいました。パリでお金が無くなるとニューヨークに戻り、稼いでから再びパリへ向かうということを、守衛は2度繰り返しています」


荻原守衛 人体デッサン ニューヨーク時代 木炭、紙 公益財団法人碌山美術館蔵


柳敬助 人体デッサン 1904-09年 木炭、紙 公益社団法人碌山美術館蔵

最初の渡仏でロダンの《考える人》を見て、守衛は彫刻家に転身することを決意します。2度目のパリで滞在した期間は約一年。美術学校「アカデミー・ジュリアン」で彫刻を学びました。


荻原守衛 人体デッサン ニューヨーク時代 木炭、紙 公益社団法人碌山美術館蔵

「1回目のパリ留学でもジュリアンで学びますが、絵画部でした。2回目は彫刻部で、主に粘土を使った塑像を勉強しました。ただ、荻原はこの時の先生について、あまり言及をしていません。当時一緒にいた荻原の友人によれば、先生からの指導に耳を傾けるよりも、自ら研究をして制作していたといいます。この時、いつもロダンの作品が頭にあったため、ロダンの作風を感じさせるような作品を制作しています。

守衛は何度かロダンを訪ね、ロダンから直接教えを受けています。《考える人》がきっかけで自分が彫刻家になったことや、美術学校のアカデミックな教えでは全く足りていない、自分はロダンの作品を見て研究をしていることを話し、弟子として認められています。

ロダンの『作品に生命がなくてはダメだ』『生命こそが美である』という考え方に納得した守衛は、帰国後にも『作品には内なる力がなければいけない』と繰り返し言っています。これが荻原守衛が命を吹き込む芸術家であると言われる所以です」

パリからイタリア、ギリシャ、エジプトを経由して、1908年(明治41年)に帰国した守衛は、ロダンに弟子と認められた人物として、大変注目されました。滞仏時代に制作された作品のうち、《女の胴》《坑夫》の2点の石膏像が持ち帰られ、日本で鋳造されました。帰国後、第2回文展ではこの2点の他、《文覚》を出品。《文覚》は三等を受賞しますが、《女の胴》《坑夫》は評価を得られなかったのだとか。

「《坑夫》は未完成だと言われ、腕や首のないトルソである《女の胴》は、ほぼ理解されませんでした。当時の日本で考えられた完成された像というのは、表面は滑らかで段差が少なく、きちんと整えられたものだと考えられていました。海外で学んだ荻原の表現は、当時の日本にはまだ早すぎるものだったんですね」


荻原守衛《北條虎吉像》1909年 ブロンズ 公益社団法人碌山美術館蔵 ※《女》と《北條虎吉像》の石膏原型は、国宝・重要文化財(美術品)に指定されています

碌山の芸術のよき理解者であった愛蔵、黒光とは

帰国後に制作された守衛の彫刻作品には、黒光への思いも偲ばれる作品がいくつか見受けられます。

黒光がお嫁に来た時には、仙台のお姫様がお嫁に来るということで、地域の人たちが総出で見物に来る状況だったため、その中に守衛もいて、その時の黒光を見た守衛は憧れのようなものを抱いていたのではと考えられています。

「文学少女だった黒光さんはもともと、ワーズワースの『田園』を読むなど、田園生活に憧れを持っていたのですが、実際の田舎暮らしは想像と違いました。黒光の故郷は、東京ほどではないとはいえ都会の宮城・仙台ですから、ギャップに苦しんだようです。安曇野の生活に馴染めず、体調を崩します」

愛蔵は黒光のために、東京で何か事業をやろうとしていました。そして1901年、本郷に居抜きで買い取った店舗でパン屋中村屋を創業。本郷の店が順調だったことから、新宿追分に支店を出し、1909年に現在地に移転します。現在は2014年に商業ビル「新宿中村屋ビル」に建てかえられ、中村屋サロン美術館が設置されました。

「黒光が入院して東京にいた頃、萩原は小山正太郎が主催していた画塾・不同舎に入るために上京していました。萩原は黒光のお見舞いに頻繁に行き、親交を深めていました」

守衛は7年間に及ぶ留学から戻ると、新宿へ行きます。この時期に、黒光への思いが変わった出来事が起こりました。

「愛蔵は実家で養蚕の事業があったため、愛蔵の帰省中は基本的に黒光がお店を任されていました。その際の愛蔵のある裏切りを知り、黒光は悩み苦しみました。慕っていた黒光が悲しむ姿を見て、荻原の思いが愛情に変わっていったのではないかと言われています」

前述した《文覚》は、守衛の黒光に対する思いが想像できる作品としても知られています。

「荻原は鎌倉のお寺に黒光と一緒に行って、文覚上人自身が彫ったとされる文覚の彫刻を見ています。文覚は、人妻に恋をして夫を殺そうとするのですが、間違えて愛する人を殺してしまい、その後悔から出家をしたという物語と、黒光という人妻に恋心を抱いている自分の苦悩を重ね合わせたと考えられています。

また《デスペア》という作品も、黒光が愛蔵の裏切りに嘆き苦しんでいる姿と、守衛が報われない愛で苦しんでいる姿が感じられるような作品です。


荻原守衛《女》1910年(1978年鋳造) 株式会社中村屋蔵

絶作である《女》については、黒光をモデルにした作品だと言われています。実際の制作では岡田みどりという女性をモデルにしていますが、写真で見比べると、岡田みどりよりも黒光に似ていることが分かります。黒光自身もこの作品を初めて見た時に『私だと思った』と記述しています」

守衛は愛情を黒光に抱いていたことから複雑な関係を想像させます。ですが守衛、愛蔵、黒光の関係は、家族のようなものでした。守衛は相馬家の子供たちの面倒を見ていて、愛蔵のことをとても尊敬していたのだとか。

愛蔵と黒光の人物像について、太田さんはこう話します。

「黒光は、かなり進んだ考えを持った近代的な女性でした。学校に行きたい一心で親を説き伏せて行かせてもらったような人物です。黒光の実家は武士の家で、はっきりと物を言うような女性は異色な存在だったと思います。ですから行動の人と言えるでしょう。

対して、愛蔵はものすごく優しい人だったそうです。女性は一歩引いたものである、と言う考え方が主流の時代に、愛蔵はそれを許して、黒光の人柄や主張を全面に出せるような深い懐を持った人だと言えます。また、とても研究熱心で勉強家でした。

芸術的な理解を持った黒光に対して、愛蔵はどちらかといえば理数系でしょう。ただ、二人とも芸術家を可愛がっていました。当時の芸術家は非常に貧しかったんです。貧しい中で一生懸命に命を削って作品に力を注ぐ彼らに、手を差し伸べる度量を持った夫婦でした」

中村屋サロンでの交流

守衛は帰国すると、新宿中村屋のある角筈(つのはず)にアトリエを作ります。アトリエの資金を提供したのは、守衛の理解者であり経済的な支援を行なっていた兄・本十です。

「新宿にアトリエを築いた理由として、東京で芸術を学んでいたことや、自分が慕っていたお兄さんお姉さんのような存在の相馬家がいたことも理由として考えられます」

守衛を中心に中村屋に芸術家たちが集まり、「中村屋サロン」が誕生します。

「サロンの初期のメンバーと言われているのが、戸張孤雁や柳敬助、高村光太郎など、守衛が留学中に知り合った人たちです。

また留学から戻った守衛は、ロダンから初めて直接教えを受けた人物として非常に注目されていました。不同舎の先輩である中村不折は、守衛が日本に戻ってきた時に、不同舎の後進である太平洋画会で教えていました。そこで学んでいた人物に中村彝や中原悌二郎がいます。不折は、学生だった若い芸術家たちに『碌山というのが帰ってきたから会ってくるといい』と、守衛に会うように言っていたそうです。そうして守衛に憧れて彫刻家になろうという人たちが出てきます。日本ではどちらかといえば、人物像といえば肖像が多かったのですが、守衛をきっかけに、だんだんと芸術の表現手段としての人物像が広がっていったのです」

サロンは居心地の良い場所であり、芸術家たちに刺激を与える場でもありました。

「当時の日本美術界にはヒエラルキーがあり、東京美術学校で言えば教授が絶対的な力を持ち、そこでの派閥争いに馴染めない人たちは辛かったでしょう。守衛はそういった権威とは全く関わりのないところから出てきた人物ですし、中村屋サロン自体もそういったしがらみから切り離された場だったため、自由に物が言える場だったと想像できます。

愛蔵たちは金銭的な支援というよりは、場の提供をしました。中村屋には食べ物があったため、貧しい生活をしていた芸術家たちに食べさせることもできました。

温かい場があり、そこには仲間がいて荻原もいる。『カアサン』と呼ばれる黒光や頼れる愛蔵もいました。荻原は、午前中はアトリエで制作をして、午後は中村屋にやってきて、子どもたちの面倒を見たり、モナカのあんこ詰めや店番もしていたそうです。そういった意味で中村屋は芸術家たちにとって、とても居心地の良い場所になっていたと思います」

中村屋サロン美術館で荻原守衛展が開催

日本美術史に名を残す「中村屋サロン」があった場所で、荻原守衛展が開催されます。

9月14日から中村屋サロン美術館で行われる「生誕140年・中村屋サロン美術館開館5周年記念 荻原守衛展 彫刻家への道」では、彫刻やデッサン、油彩など約50点(デッサンや素描などの一部の作品は、前期後期入れ替えがあります)が展示されます。その中には守衛が2度目のニューヨーク留学で描いたデッサンや、人体の研究のために描いた解剖画、守衛と関係のあった芸術家の作品も数点出品され、《考える人》を含むロダンの作品も5点並びます。


オーギュスト・ロダン《考える人》1880年 ブロンズ おかざき世界子ども美術博物館蔵

最後に展示からどのようなことを感じ取ってほしいか、太田さんに伺いました。

「今回は彫刻がメインの展示です。荻原は1910年に30歳で亡くなってしまうため、日本近代彫刻の父と言われているにも関わらず、日本で彫刻を制作した活動期間は2年と非常に短いものでした。その間に、日本の芸術家に影響を与えることができたのは、守衛の芸術家としての信念であり、ロダンと出会うことで形を成した守衛自身の芸術があってのことだと考えています。

守衛は、作品の内部に生命を入れることを念頭に制作に励んでいました。来場した際には、作品の内にある力を感じ取っていただきたいと思っています」

 

【展覧会情報】

「生誕140年・中村屋サロン美術館開館5周年記念 荻原守衛展 彫刻家への道」

会期:2019年9月14日(土)~ 12月8日(日)

前期:9月14日(土)~10月29日(火)

後期:11月1日(金)~12月8日(日) ※前期後期で一部、作品の入れ替えがあります

展示替え期間:10月30日(水)〜10月31日(木)

開館時間:10:30~19:00(入館は18:40まで)

休館日:毎週火曜日(10月22日(祝)、29日(開館記念日)を除く)

URL:https://www.nakamuraya.co.jp/museum/exhibitions/

書いた人

もともとはアーティスト志望でセンスがなく挫折。発信する側から工芸やアートに関わることに。今は根付の普及に力を注ぐ。日本根付研究会会員。滑舌が悪く、電話をして名乗る前の挨拶で噛み、「あ、石水さんですよね」と当てられる。東京都阿佐ヶ谷出身。中央線とカレーとサブカルが好き。