かつて一つの陶片から400年以上さかのぼる美濃桃山陶の歴史を明らかにした男がいました。それが後に人間国宝となる陶芸家・荒川豊蔵です。
※美濃桃山陶とは、織田信長以降の安土桃山時代に茶の湯で使われた陶器の総称
豊蔵が手にした『志野(しの)』の陶片は、陶磁史上の大発見として世間を揺るがします。そしてそのことがきっかけとなり、豊蔵は当時勤務していた北大路魯山人(きたおおじろさんじん)の元を去ることになり、自身の人生をも大きく転換させていきます。割れた陶片が記した土の記憶に導かれ、陶芸の神様に引き寄せられ、数奇な運命をたどった荒川豊蔵の『志野再現』に込めた思いとその作陶にかけた生涯を追ってみました。
美濃焼の里・多治見市で生まれた荒川豊蔵
荒川豊蔵は、明治27(1894)年、岐阜県多治見町(現在の岐阜県多治見市)で農業を営む父・梅次郎、母・なべの一人息子として誕生します。母方の祖父は、隣町の土岐郡(現在の土岐市)高田に窯を開いた陶祖・加藤与左衛門景一の直系で、主に徳利(とっくり)を焼く製陶業を営んでいました。この地域は1300年の歴史を誇るやきものの産地であり、親戚も数多くの人が陶磁器に関わっていたと言います。そういった環境にあったため、中学を出ると、陶磁器を扱う貿易会社へ丁稚奉公に出ます。幼い頃から、やきものに触れてきた豊蔵が、後に陶芸の道に進むのはまさに自然の流れだったと言えます。
当時、結婚年齢は今よりもずいぶん早く、磁器の上絵付を生業としている叔父の薦めで、いとこの志づと結婚します。数えで豊蔵が18歳、志づ14歳。幼な妻を抱えて、独り立ちした豊蔵でしたが、その後の厳しい人生で数々の苦難に遭います。晩年は人間国宝となる名誉を得るも、作陶時代のほとんどは貧困に苦しむ生活でした。そんな豊蔵をしっかりと支え続けたのは妻・志づでした。豊蔵の成功には、間違いなく内助の功があったのだと言えます。
北大路魯山人との出会いが数奇な運命の始まり
貿易関係の仕事を続けていた豊蔵ですが、もともと絵心があり、画家になりたかった豊蔵にとって、取り扱う安物の陶器は満足できるものではありませんでした。そこで自ら上絵磁器を手掛けるようになっていきます。しかし独学で始めた仕事はなかなか軌道に乗らず、東京へと単身で働きに出るなど、不遇の時を過ごします。そんな中、以前知り合った宮永東山(みやながとうざん)を京都に訪ね、その縁から東山窯の工場長を任されることになります。京都で雅趣あふれるやきものに触れるうちに、やきものの面白さに目覚め、自ら轆轤(ろくろ)挽きをするようになりました。ここでの出会いが陶芸の道へと進むきっかけとなり、豊蔵の運命を大きく変える書家・篆刻家であり、のちに陶芸家となった北大路魯山人との出会いに繋がるのです。
当時、すでに赤坂の会員制料亭『星岡茶寮』を立ち上げていた魯山人は、そこで使う食器を作らせるため、窯元を転々としていました。その一つであった東山窯で、豊蔵と出会います。その頃からすでに魯山人の人となりは、傲慢かつ気難しいとされていましたが、不思議と豊蔵とは気が合い、勉強会などにも連れて行ってくれるようになります。立場や年齢は違えど、やきものへの思いは同じであり、丁稚奉公などの苦労の末、窯の工場長となった豊蔵にどこか親近感を覚えたのかもしれません。魯山人は豊蔵の轆轤挽きの才能を認め、豊蔵は魯山人の審美眼に敬意を持っており、二人の間には陶器に対する同じような感覚が流れていたとも言えます。その後、昭和2(1927)年、魯山人が星岡茶寮で使う器を作るために建てられた『星岡窯』のやきもの長として、豊蔵を招き入れます。これが豊蔵の運命を大きく変える第一歩となるのでした。
地元で見つけた陶片は、400年以上前に焼かれた志野だった
家族を連れて、鎌倉へと居を移し、窯場の長として、人生を順風満帆にスタートさせました。しかし、また運命のいたずらが大きく動き出します。昭和5(1930)年、名古屋の百貨店で「星岡窯主作陶展」を開催。名古屋を訪れた魯山人と豊蔵は、宿泊場所に近い古物商から、桃山時代に作られた古志野を見せてもらいます。豊蔵にとって初めて手にする銘碗「志野筍茶碗」の素晴らしさに引き込まれる中、茶碗の底の部分である高台(こうだい)についた赤土の色を見て、瀬戸の地で焼かれたものではないとの思いがよぎります。
当時、志野や瀬戸黒、織部などは瀬戸物の発祥と言われる愛知県瀬戸市で焼かれたものだと思われていました。そのため、魯山人は豊蔵の言葉に耳を傾けることもなく、鎌倉へと帰ってしまいます。しかし、豊蔵は以前、叔父に連れられた岐阜県可児市の窯跡で織部の陶片を見つけていたことを思い出し、自ら親戚に同行を頼み、古窯へと向かいます。発掘調査など行われていない時代、何時間もかけて、いくつかの古窯を回りました。そしてついに、大萱牟田洞(岐阜県可児市)で、古物商に見せてもらった「志野筍茶碗」と同じ筍の絵が描かれたやきものの陶片を発見します。これが後に陶磁史を揺るがす大事件へと発展するのです。
陶片の発見を自分の手柄とする魯山人との決別
豊蔵は、この地で志野が焼かれたことを証明し、さらには、瀬戸黒や黄瀬戸の陶片も数多く発見します。この報告に喜んだ魯山人は、更に発掘へと豊蔵を促し、大萱牟田洞にも自らやってきました。この時、すでに魯山人には商機が見えていたのかもしれません。そして、勇み足となった魯山人はこのことを発表し、日本経済新聞の前身である中外商業新報に記事が掲載されたのです。記事には、魯山人がこの地で陶片を発見したかのような書き方になっており、それを知った豊蔵の失望は計り知れないものとなりました。そして、その後、陶片の発掘ブームが起こり、陶片はお宝へと変貌していきます。1日の手間賃が50~70銭の時代に、破片でも良いものであれば、1円、2円で古物商が引き取るようになったのです。
志野再現と作陶に捧げた美濃と祖先への思い
志野の陶片を見つけてから、豊蔵の思いは、志野の再現へと向かっていきます。桃山時代に作られた志野や瀬戸黒は、千利休から古田織部、そして小堀遠州へと、主となる茶頭が変わる中で、趣に合わないとされ、衰退してしまっていました。豊蔵が発見した大萱牟田洞の窯で志野が作られていたのも16世紀末~17世紀初めまでの間だけでした。史料もない、技術の伝達もすべて失われてしまっている中、豊蔵は、大萱牟田洞での窯の発掘調査に加え、近隣の山を歩き、陶土を探し始めます。いつかは「自分の手で志野を焼きたい」というその思いの強さが原動力でもあったのでしょう。しかし、魯山人は志野の陶片の発見者というところにこだわっていました。それは、魯山人の発行していた『星岡』の中にも記され、それを見た豊蔵は、もはや魯山人に対して、向き合う気力を失っていきました。世間の風潮、さらには志を共にしていると思っていた魯山人との意見の相違に失望した豊蔵は、昭和7(1912)年に星岡窯を去り、当てもないまま郷里へと戻ります。日本が戦争へと突入していく時代、世の中は不景気の嵐が吹き荒れる中、それでも自分の志を曲げることはできなかったのでしょう。そこには、陶芸への思いだけでなく、桃山時代、美濃に窯を作った陶工が母方の先祖であったことにも繋がります。母や先祖への思いを胸に自分が志野を復活させなければという使命にも似た思いが豊蔵にはあったのだと思わざるを得ません。
鎌倉から可児へ戻る時に知人からもらった餞別や親戚への借金でどうにかお金を工面し、人里離れた雑木林の中に、窯と居宅を作ります。冬の厳しい時期は、生卵が家の中で凍ってしまったと言われたほどの厳しい環境下でしたが、それでも豊蔵はこの場所にこだわりました。天正5(1577)年に窯を開いた陶祖が、母方の先祖と兄弟であったこと、そこで自分が陶片を発見したこと。それらの縁に抗うことができなかったのです。内弟子を数人取るも、窯を大きくすることもなく、細々とただただ一途な志野への再現と静かに自分の作陶に生涯を捧げ、亡くなるまで山の中で炎と土に囲まれた生活を送りました。
長石(ちょうせき)を釉薬とした白い肌を持つ志野は、筆で絵が施せる下絵付けを可能にした日本で初めてのやきものです。その趣は味わい深く、優雅で豪快と評されていました。豊蔵は1200度以上で焼き上げることで、長石が透明になり、下の絵が浮かび上がるという技術を見事に再現します。荒川豊蔵の仕事への評価は大きくなり、焼きあがった器は、時にはとてつもない価値を生むほどになりました。その評価は、本人の意思を超えたものでもあったのではと思います。なるべく自然を壊すことなく、自然の中に抱かれながら作業をした豊蔵の中にあったのは、ふるさと美濃への思いと丹精な美しさを誇る美濃焼の歴史だけだったのではないでしょうか。急斜面の木立の中に建てられた窯の傍らに立つと、純粋で丁寧にやきものに捧げた豊蔵の人生が伝わってくるようです。後に、自分の作品を後世に残すためだけではなく、美濃桃山陶の素晴らしさを伝えたいと収集した器や破片を展示する荒川豊蔵資料館を作りましたが、それも400年以上前の窯があるこの地に来て、ここで感じてほしいといった思いがあったのかもしれません。
各界の大物が幾度となく、この地を訪れた美濃桃山陶の聖地
戦時下の粛々とした暮らしの中、細々と作陶を続けた豊蔵のところには、戦後、多くの人々が訪れました。一時は仲違いをした魯山人も『星岡茶寮』を追放され、再び、縁を持つようになったと言います。人物にはかなりのクセがあったけれど、彼の作る器には絶大な賛辞を送っていた豊蔵。やはり二人の縁は「陶器」で深く繋がれていたのだと思います。その後も、多くの芸術家や文人がこの辺境な地を訪れました。それらはひとえに豊蔵の作る陶器の素晴らしさと人柄によるものも大きかったのではないでしょうか。志野や瀬戸黒の再現だけにとどまらず、『豊蔵志野』と称される独自の造形美と色彩美を誇る作品は多くの人の礼賛を浴びました。昭和30(1955)年には人間国宝にも認定され、昭和46(1971)年には文化勲章を受章し、文化功労者として顕彰されます。91年の生涯のほとんどは苦しいものだったと豊蔵自身も書いていますが、後年の名誉は、自分の才に溺れることなく、ひたむきに陶芸と向き合った豊蔵への神様からのご褒美だったのはないでしょうか。
春秋の季節イベント時には、荒川豊蔵の窯を公開
「作業小屋は、豊蔵が亡くなってからは一度も開けることがなく、2020年に初めて公開したのですが、当時使っていたものがそのままの状態で残されていました。使っていた道具も、薪も当時のままです。機械は入っておらず、すべて手作業で行っていたことがわかります。昭和60(1985)年に亡くなった豊蔵が、窯を最後に焚いたのが昭和56(1981)年で、すでに80歳を超えていましたが、下にある赤い屋根の仕事場で器を作り、かついでここまで運んで焼いていました。豊蔵は、常に桃山期と同じやり方で再現することにこだわった信念の人でもあります。その思いをこの地に来て、感じてもらえたらと思います」と荒川豊蔵資料館・学芸員の加藤桂子さん。志野陶片発見90年に合わせ、荒川豊蔵の志野再現への思いを知ってもらえたらと公開に踏み切られたそう。「ここ牟田洞は美濃桃山陶の聖地であり、豊蔵は、陶片をとても大切にしました。陶片は師匠であり、破片だからこそ、割れ口からたくさんの情報がもらえる大事な資料です。その思いを感じ取って体感していただけたらと思います」
木々に覆われた豊蔵の作業場は、すべて自然のもので作られ、土に還ることのできる素材。自然の中に間借りをするような謙虚さが豊蔵の神髄だったのではと思います。作業場からは古窯が見下ろせ、それを見つめながら、もくもくと作業を続けていた豊蔵は初心を忘れることなく、陶芸の神様に愛されながら、その生涯を終えたのではないでしょうか。
参考文献:『縁に随う』荒川豊蔵(日本経済新聞社)
荒川豊蔵資料館
陶芸家であり、志野・瀬戸黒で国の重要無形文化財保持者に認定された故・荒川豊蔵の作品やコレクションを展示。同時に旧荒川豊蔵邸の敷地や居宅、陶房を公開している。館蔵品には、自作、自筆作品、古陶磁器をはじめ、出土陶片などの貴重な資料も所蔵。
住所:岐阜県可児市久々利柿下入会352番地
電話:0574-64-1461
開館時間:9時30分~16時(最終入館は15時30分)
休館日 月曜日(祝日の場合は開館)、祝日の翌日及び年末年始
入館料:一般210円 高校生以下無料
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