愛知県は、やきものの代名詞となった瀬戸焼をはじめ、国の伝統工芸品にも指定されている有松絞りの手工業や自動車メーカートヨタの原点でもある手織り機など、古くからモノづくりにおいて先進的な地域でした。現在でも製造出荷額等では、47兆9,243億円とダントツの全国1位を誇っています(経済産業省「2020年工業統計表[概要版])。
ところで、このモノづくりの原点が、もしかしたら弥生時代にあるかもしれないって、知っていましたか?
見てください! この美しいフォルム。そして、スタイリッシュな赤と白のコントラスト! これらがなんと弥生時代に造られたものなんです!!
弥生時代って、縄文が終わって、稲作などの農耕が定着し、住居も竪穴式住居や高床式倉庫なんかが出来て、少し生活がグレードアップした時代でしょ? ぐらいに思っているあなた! ここ尾張地区最大級の朝日遺跡の出土品を見てください! ここの出土品はレベルが高くて、実に驚きの様相を呈しているのです!
というわけで、赤彩土器と呼ばれるこの美しい土器に魅せられてしまった私は、これらが多数出土したといわれる朝日遺跡を訪ね、その詳細を調べてきました。
これを読むと、弥生時代のイメージが180度変わること、間違いなしです!!
朝日遺跡の歴史から紐解く弥生時代の様子
牧歌的な暮らしが続いていた縄文時代が終わり、集落間や地域を超えた争いが始まったとされる弥生時代には、日本最大級と呼ばれる佐賀県の吉野ケ里遺跡をはじめ、奈良県の唐古・鍵遺跡、大阪府の池上曽根遺跡など、掘や土塁、策などで囲まれた防御施設とされる巨大環濠集落が存在しました。朝日遺跡もその一つで、東海地域の中核的な集落として発展していきました。
朝日遺跡の範囲は、東西1.4km、南北0.8km に及び、遺跡の面積は80~100万㎡と推定されています。昭和4年に調査がスタートし、人々が暮らし始めたとされる貝殻山貝塚にハマグリやカキの殻が大量に発掘されました。戦争などで発掘調査は一時中断されるも、戦後もたびたび発掘調査が行われ、昭和43年には貝殻山貝塚が愛知県の史跡に指定されます。昭和46年には、貝殻山貝塚を含む10,169.40㎡が国史跡に指定されました。
北東から南西にかけて流れる谷の南北に住居が営まれていたことから、出土品も土中の水分によって守られていたため、保存状態の良い形でさまざまなものが発掘されているのも特徴です。
弥生時代後期には、中期までの環濠として使われていた溝の中に、魚を捕獲するヤナのような施設が設けられ、魚を捕獲する仕組みが造られていたこともわかりました。出土品からはハマグリ、カキ、アジ、スズキ、サバなどの魚介類の殻や骨が見つかっており、漁猟が盛んだったことも伝わっています。
「パレス・スタイル」というめちゃくちゃお洒落な名前のついた赤彩土器!
ビビットな赤い彩色は古の人々にとっても、高貴で特別な意味で使われていたものです。こういったタイプの土器がたくさん埋蔵されていたのがここ朝日遺跡です。
そして、この美しさに感激しているのは、私だけではありません。明治時代から大正時代にかけて活躍した考古学者の浜田耕作氏も、この美しい赤彩土器を目の前にして、
(略)かの尾張熱田の貝塚の出土品や最近、近江滋賀村の大津宮祉で発見されものの如きは、かの希臘(ギリシャ)クリート土器中、クノソスの遺品が特に清大で「パレース式」と與羽るる如く、彌生式土器中の称し度(しょうした)い位の優品である」
(日本の古代土器『史前学雑誌』第1巻第4号 浜田耕作 1929年)
と論文で発表しているのです。
ギリシャ・クレタ島のクノッソス宮殿跡から出土した遺品と違わない優品ということで、この赤彩土器を「パレス・スタイル」と呼ぶようになり、弥生時代を代表する美術品として語られるようになったのだとか。
出土品のうち、2,028点が国の重要文化財に指定
こんなおしゃれな壺やブランデーグラスのような高杯まで造っていた弥生人って、どんな生活をしていたのか。想像していた原始的な生活スタイルとは、ちょっと違うんじゃない? そんなさまざまな妄想が膨らむ中、あいち朝日遺跡ミュージアム学芸員の原田幹(もとき)さんに、詳しくお話を伺いました。
黒田:今までに見ていた土器のイメージとは違う、洗練された雰囲気さえ感じてしまう赤彩土器なんですが、これってこの地域だけで造られていたものなんですか?
原田:数としてはこの東海エリアからたくさん出ています。技術的にすごいかというとそうではなく、ベンガラも縄文時代から使われていました。ただ、赤色が施される部分と地肌の白さを残す部分が交互に配置されるなど、緻密な文様も含め、こだわっている点が今の時代から見ても「よくできているな」と思います。
黒田:模様の入れ方も均一的で、デザインされているようです。これがどのくらい出土しているんですか?
原田:展示されているのは状態の良いものだけなので60点ほどですが、出土はその何十倍もありました。ここ朝日遺跡は、出土量が多いのも特徴で、2012(平成24)年に2,028点が国の重要文化財に指定されました。ただ、それは出土したものの1パーセント以下なんです。発掘された時は、土より土器の方が多いぐらいの状況でした。
朝日遺跡は現代の名古屋のような大都会だった?
黒田:このことから朝日遺跡はどのような集落だったと思われますか?
原田:一番大きな特徴として、出土品の量からいっても、朝日遺跡の状況は人がたくさん集まって、都市的な機能を持つ大規模集落として機能していたと思います。たぶん日本で指折り数えられる程の集落で、いわば大都会。弥生時代の名古屋といってもおかしくないくらいなんです。周辺には一般的な集落が多いので、農村的な集落と都市的な集落と、集落にも階層が出来始めていたのではないかなと思います。
黒田:近隣の集落とは何が違うんですか。
原田:朝日遺跡は他の集落とは出土しているものが違います。大阪の方で造られていた優品が出たり、勾玉や管玉を造る工房が見つかっているのです。工房の中には材料も遺っていたんですが、それが北陸地方のものなので、北陸からこれらを造る人が材料と共に移動してきたと考えられます。
黒田:他からも移り住んできた人たちがいたということなんですね。それだけ情報が行き交っていたからここを目指して来る人たちがいたと。
原田:その頃の一般的な集落は、田んぼで米を作って、自分たちが食べられる分を自家消費していました。しかし朝日遺跡は、その生産量では賄いきれないほどたくさんの人が集まってきていたことがわかっています。出土品も日常の生活品ではなく、特殊なもの、勾玉や青銅器を造るなど、高度な技術力を必要とするものが多い。そういう技術を持った人が集まってきてモノづくりをしていたんです。遠方との交易も盛んになり、ここで採れない珍しい材料のものが、一旦ここに集約されていたという要素が考えられます。まず朝日遺跡で荷揚げされて、そこから周辺へと広がっているような感じです。
黒田:都市の形成に近いものがありますよね。
原田:その地域をリードする場所で、モノや情報が集まってきていたんでしょうね。ここでモノを造ったり、それらを外に出すことで、交換に米などの食料を得ていたのではと考えられます。
黒田:そういった交易の中で、赤彩土器は、弥生時代のヒット商品だったのでしょうか。大量に造られていた意味ってあるんですか?
原田:赤彩土器は4世紀ぐらいまで造られているので、かなり長く需要があったことになります。最初はこのあたりだけで使われていたのですが、古墳時代になると、全国に広がっています。弥生時代はあくまで地域ごとの文化で、独自スタイルなんですが、古墳時代になると生活や儀式も統一されていく。その最たるものが古墳。各地で前方後円墳などの墓ができるようになり、似通った形状の古墳が造られるようになり、統一されていったんだと思います。その中で、お供え物の一つとして、赤彩土器が採用されたということなのではと考えています。
農機具や機織りに使われる道具など、現代のルーツともいえる出土品の数々
黒田:なんか愛知のモノづくりが弥生時代でも認められていたようで嬉しいですね! 他にも精巧な道具類が出土していますよね。
原田:木製品の農具などは今とほとんど変わりがないです。金属の技術や機織りの技術も進んでいて、朝日遺跡は愛知のモノづくりの原点と僕は言っています(笑)。
原田:朝日遺跡で出土した動物の骨、角、牙 などで作られた骨角製品は、狩猟や漁労に使われたもの が多く、質・量ともに優れた良品です。また、機織りに使用された、糸を紡ぐための紡錘車(ぼうすいしゃ)は、木製が多い中、朝日遺跡は石製、鹿角製のものが出土しており、鹿角製紡錘車は、角の根元の角座という部分がきれいな円盤状に整形されています。
黒田:機織りの技術を示す出土品は、針の細さや糸をつむぐための道具など、原型としては現代に受け継がれたものと大差ないですよね。針の頭の穴とか、どうやって開けたんだろうというものまで。これらを見ていると、弥生時代への認識が変わってきます。実際、弥生時代への調査で以前と変わってきていることはあるんですか?
原田:九州あたりですと、弥生時代の始まりが、紀元前の7世紀や8世紀から10世紀まで遡るのではないかという学説が出ています。このあたりの東海地方でも紀元前6世紀ぐらいからが弥生時代の始まりなのではないかといわれています。九州などで出土しているクジラの骨を使った剣(アワビおこし)が出土して、海を介した交易なども想定されます。また鉄の斧の刃先は、当時としても精度が高く、舶来品じゃないかという見方もあります。そう考えると、人の流入も含め、思っている以上に広範囲での交易が盛んだったのではと思いますし、現代の原型といえるものも多いんです。
それともう一つ、現在、中京圏は関西と関東の中間、境目で両方の文化、情報が入ってきてますよね。それが弥生時代も同じで、大陸からの文化が西から入り、その最終地がここ名古屋だった。縄文時代の文化は東から入ってきたものも名古屋を終着地としていた。だから東西の文化をうまく融合させて、新しいモノづくりが生まれていたのが東海地方の特徴だったのではと思うんです。
実際に弥生時代の生活を体験してみる
2020年11月にオープンしたあいち朝日遺跡ミュージアムは、弥生時代の「朝日遺跡」から出土品の展示を中心に、弥生時代の生活をアニメやジオラマなどで再現したり、実際に体験できる常設コーナーやイベントやワークショップが開催されています。
敷地内の田んぼでは、田植えから収穫、脱穀し、土器で炊くまでの流れを1年かけて行っています。
また体験で作った土器を藁や木などを燃やして実際に焼き上げます。
赤彩土器の壺をかたどったテーブルと勾玉をモチーフにしたソファ。現代でも十分通用するデザイン性を誇っています。弥生式生活スタイルとして楽しめそう!
各地の発掘調査で縄文時代から弥生時代、そして古墳時代の生活がよりリアルにわかるようになってきました。そしてその生活スタイルは、現代の生活とそれほど乖離しているわけでもなく、循環型やリサイクル、地産地消という意味では、今よりもサスティナブルな生活だったといえるのかもしれません。5000~6000年前の名古屋の祖先たちに負けぬよう、モノづくりとサスティナブルを融合させ、新しい未来を築いていく時なのかもしれません。
【あいち朝日遺跡ミュージアム】
住所:愛知県清須市朝日貝塚1番地
営業時間 :9:30~17:00
定休日 :月曜日(祝祭日の場合、翌平日)
年末年始(12月28日~1月3日)
公式ホームページ