奈良の住宅街に謎のピラミッドが!?ダブル祟りや怖~い陰謀のウワサも…

奈良の住宅街に謎のピラミッドが!?ダブル祟りや怖~い陰謀のウワサも…

目次

東大寺や興福寺、人懐っこい鹿など、たくさんの魅力がつまった古の都、奈良。ナチュラルホルンの音色で鹿を集める「鹿寄せ」が行われる緑豊かな飛火野(とびひの)の近くに、ピラミッドのような不思議な形をした建造物があるのをご存じでしょうか。
この「頭塔(ずとう)」と呼ばれる一変約32メートル・七段の土塔は、 玄昉(げんぼう)という僧の首塚だと伝わっています。そこには恐ろしい祟りの噂も……。奈良にそぐわぬピラミッド型の不思議スポットに、いったいどんな物語があるのでしょうか。

住宅街に謎の「ピラミッド」が!

謎の建造物があるのは、近鉄奈良駅からバスで7~8分の場所。浮御堂や飛火野など観光客にも人気のスポットのすぐ近くに「頭塔」と呼ばれる、土が階段状に積まれた塔があります。その姿はまるで日本版ピラミッド。歴史的な建造物の宝庫である奈良においても非常に珍しいスポットです。

画像提供:史跡頭塔保存顕彰会

「頭塔」見学希望の方は、前日までに管理人がいる仲村表具店に申し込む必要があります。「頭塔」の周囲にはぐるっと木道が整備されていて、それぞれの面をじっくりと観察できるようになっています。

最も整備されている北面には、発掘に関する説明パネル、ベンチを備えた見学用デッキも。「頭塔」は高台に位置するため、このデッキからは奈良市街地を見下ろす形になり、古の都の眺望も楽しめます。

北面見学デッキ:ベンチの後ろには、発掘調査や石仏に関する説明パネルもある

「頭塔」は僧・玄昉の首塚?

「頭塔」は長く玄昉の首塚と信じられてきました。玄昉は奈良時代の僧で、遣唐使に学問僧として随行し約18年に渡って唐で学び、735(天平7)年に帰京しました。学問僧と首塚。あまり関連性のない2つに思えますが、そこには当時都で繰り広げられていた藤原氏を中心とした勢力争いが関係しています。

※遣唐使:日本から唐へ派遣された公式使節で国書・物品などを奉献し、唐の技術や文化、政治制度、仏教の経典の収集を目的としていた

奈良時代の権力争い

都は遣唐使によってもたらされた唐の文化の影響を色濃く受け、貴族を中心とした華やかな文化が花開きました。その反面、藤原氏を中心とした朝廷における権力争いも熾烈に。玄昉が生きた時代は、朝廷では藤原氏が権力を強め、権力が藤原氏と皇族側の間を行き来するような状態にありました。

長屋王の祟り

藤原一族の中でも抜きんでた政治手腕で有名なのが、藤原不比等(ふじわらのふひと)。飛鳥時代に天智天皇から藤原氏の姓を賜った政治家・藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の子で、天皇の外戚としてしたたかに権力基盤を築き上げました。不比等は720(養老4)年に逝去しましたが、その権力基盤はその息子たち “藤原四子(藤原四兄弟)” に引き継がれました。ところが四兄弟は当時流行った天然痘(てんねんとう)で相次いで亡くなります。藤原四子政権は幕を閉じ、その後皇族出身の橘諸兄(たちばなのもろえ)が政治の中心を担うことになります。疫病によって権力は藤原氏の手から皇族側へと移ったのです。藤原四子の死は、彼らが冤罪により自殺に追い込んだ皇族・長屋王(ながやのおおきみ)の祟りともいわれていました。

ちなみにこの長屋王は、遣唐使に託して贈った1000着の袈裟(けさ)に以下のような漢詩を刺繍させています。
「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」
山や川、国は異なっていても、風も月も同じ天の下でつながっている……といった内容です。
どこかで耳にしたような気がしませんか?そう、新型コロナウィルスで苦しんでいた中国に、日本青少年育成協会が送ったマスクなどの支援物資の段ボール箱に書かれていたあの漢詩です。あれは長屋王が1000年以上も前に中国(当時の唐)に贈った言葉だったのです。

藤原四子の命を奪った天然痘は遣唐使によってもたらされたものだという説もあり、何か因縁のようなものを感じずにはいられません。権力争いや陰謀や偶然や恨みつらみなどが複雑に絡み合っているのがこの時代の魅力でもあると思うのは私だけでしょうか。

橘諸兄政権と二人のブレーン

さて、同族を重用した藤原氏とは違い、橘諸兄政権は身分にとらわれず優秀な人材を重用しました。もしかしたら天然痘で人材が減って身分にかまっている余裕などなかったかもしれません。そこで活躍したのが玄昉と、同じく遣唐使として唐に渡った学者の吉備真備(きびのまきび)。唐で学んだ二人のブレーンでした。

藤原氏再び!玄昉と吉備真備を排除しようとした藤原広嗣

藤原氏にかわって政権の中心となった橘諸兄と玄昉、吉備真備を快く思わない人物がいました。不比等の孫の一人、藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)です。大宰府に赴任していたのですがこれを左遷と思い込み恨みを募らせ、災厄を玄昉・吉備真備のせいだと朝廷に上奏し、玄昉らの失脚を画策します。挙句の果て挙兵し(藤原広嗣の乱)、無念の中、現在の佐賀県唐津で処刑されました。

玄昉の左遷と広嗣の祟り

反乱を首謀した広嗣はいなくなりましたが、またもや不比等の別の孫が台頭。橘諸兄政権下にいた藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が人事権を握るようになると諸兄は権勢を失い、玄昉も大宰府に左遷されます。しかも左遷翌年の観世音寺の落慶法要の日、広嗣の怨霊によって空に暗雲がたちこめ空中から手が現れて玄昉を連れ去り、興福寺近くに投げ落としたというのです。
投げ落とされた玄昉の体はバラバラになり、頭部が落ちたといわれるのが「頭塔」のある現在の高畑町です。

※実際の死因には、広嗣の遺臣によって殺害されたという説がある

画像:頭塔展示パネルより

玄昉の頭を埋葬したとされる「頭塔」

ピラミッドのような形をした土塔は、弟子たちが玄昉の頭を埋葬した場所ということで「土塔」と呼ばれていたものがなまって「頭塔」と伝わったようです。発掘調査が行われるまでは木々の茂った小山で、近所の子供たちの遊び場だったとか。今でも南側は頭塔の森としてそのまま残されています。

瓦葺の屋根の下の窪みには、如来三尊像や如来坐像、涅槃図などのレリーフが見て取れます。東南アジアで多く見られる仏教遺跡と、少し共通した雰囲気があるように感じませんか?1987年から1998年の9次に渡る発掘調査では、頭塔の中にもうひとつの頭塔が隠れていることも判明し、当初は3段構造だったことがわかりました。長く玄昉の頭を埋葬した首塚と信じられていた「頭塔」は、今では五重塔と同じように「仏舎利を納める仏塔」と考えられています。

権力闘争や祟りが渦巻く奈良時代の魅力

京都と比べると静かな古都の趣が楽しめ、深い歴史を感じることができる奈良。しかしその静かなイメージとはかけ離れた熾烈な権力闘争が繰り広げられ、祟りや怨霊の言い伝えが残るのもまた奈良の奥深い魅力。「頭塔」へは、藤原氏と皇族側が権力を争った時代を少し調べてから訪れるとより一層楽しめます。

頭塔の基本情報

アクセス:近鉄奈良駅から徒歩25分、近鉄奈良駅から市内循環バスで7分「破石町」下車すぐ
見学:9時~17時
料金:頭塔保存顕彰会への協力金として300円
申込:前日までに仲村表具店へ
電話:0742-26-3171
Webサイト:なら旅ネット(奈良県観光公式サイト)

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