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Culture
2020.07.03

12泊13日で2億4,000万円⁉︎ 前田家の大名行列が費用もスケジュールもヤバい!

この記事を書いた人

世の中には、「幹事」という役割を颯爽とこなす人たちがいる。なぜ、彼らはあんなにも輝いて見えるのか。もう、眩しすぎるほどの神々しさである。

私も、かつては教育現場で働いてきた身。組織を円滑に機能させ、人間関係の構築には「懇親会」も必要。参加するたびに、幾度となく、そう言い聞かせてきた。しかし、その「幹事」役が回ってくるとなると、話は別。全然、別。ちょっと億劫、どころの騒ぎではない。

日時の調整、場所の予約、料理内容から会のコンテンツまで。決定事項は次から次へと湧いて出る。それも、忘年会や新年会など、まだ「日帰り」なら歯を食いしばって耐えられそうだが。「宿泊」となると、様々な……。ああ、あああ。思い出すだけで、トラウマが。

そう考えれば。
江戸時代、大名らが一定期間、江戸に参勤した「参勤交代」って、マジ、リスペクト。

現代のように飛行機や新幹線で、ピューと行って帰ってくるというワケにはいかないのだから。事前に行程表を江戸幕府に提出し、宿屋を手配。他の藩とのブッキングも考慮しつつ、多くのルールをクリア。こうして、財政的にも無駄を出さずに、大名行列を遂行する。全ては、将軍との謁見のために。江戸までの長い道のりを移動するのである。

今回は、そんな参勤交代の裏話をご紹介。
なかでも、加賀百万石と誉れ高い、加賀藩前田家の大名行列を取り上げる。その人数の多さは驚愕。参勤交代制度の変遷と数々のルールにも触れつつ、かかる総額費用を弾き出そうではないか。
※この記事に掲載している費用総額は、あくまで資料から計算した推定金額となります。

参勤交代制度って鎌倉時代からあったの⁈

「参勤交代制度」は、元和元(1615)年の武家諸法度(ぶけしょはっと)で定められ、寛永12(1635)年の武家諸法度で確立した。

しかし、同じような制度は、じつは、江戸時代以前にも見受けられる。鎌倉時代の「鎌倉大番役(おおばんやく)」と「京都大番役」。どちらも、一定期間、自分の領地を離れて、幕府のある鎌倉か、朝廷のある京都を警備する軍役だ。鎌倉や京都までの移動の経費は御家人持ち。また、警護の期間は鎌倉か京都で暮らしていたため、内容は参勤交代制度と類似していたとも。

その後、室町時代には、新しい制度が確立。3代将軍足利義満の治世以降、各地の「守護(しゅご)」を幕府のある京都に「参勤」させ、定住させたのだ。ここで注意すべきは、江戸時代の参勤交代とは異なり、自国の領地には戻らないというコト。ただ、このシステムは下剋上が起こるきっかけになったとも。なぜなら、守護の代わりに領地を治めた「守護代」が力を持つからだ。結果的に、下剋上を助長させ、戦国の世へと時代を進めることに。

この戦国時代に、破竹の勢いで頭角を現したのが、織田信長。彼も、従属した大名らを自分の元へと参勤させる制度を採用していた。しかし、なにしろ、信長自身が定住しない。このため、想定した制度は定着せぬまま。当の本人は、天下を取る直前で謀反に倒れ自刃。そのあとを引き継いで天下人となったのが、豊臣秀吉である。

歌川国芳-「太平記英勇伝-中浦猿吉郎久吉-豊臣秀吉」

豊臣秀吉の拠点となる「大坂城」、そして京都の「聚楽第(じゅらくだい)」と「伏見城」。秀吉は、臣従した諸大名らの謀反を抑制する策を講じた。妻子らを人質として出させ、大坂城や伏見城の周辺に住まわせることにしたのである。結果的に、諸大名らは自国の領地との間を往復する羽目に。つまり、秀吉の頃には、既に参勤交代のはしりのような制度が存在していたことになる。

そして、秀吉の死後。
次の天下人は徳川家康。江戸幕府を開き、徳川家独裁体制の礎を築く。

家康も、もちろん秀吉の参勤交代制度を引き継ぐ予定であった。当初、家康は、伏見城を拠点にしていたため、大名らの多くは継続して伏見に参勤することに。しかし、「大坂の陣」によって豊臣家が滅亡すると、諸大名らは、あえて妻子を江戸の邸宅に住まわせて、参勤する。

つまり、家康からの命令が下る前に、自発的に行ったのである。家康に恭順の態度を見せるという思惑か。こうみれば、江戸時代の参勤交代制度は、既成事実が先に進行し、慣習化され、あとから追認されたという見方もできる。

なお、参勤交代の実践者として、一番早かったのはというと。
記録では、慶長7(1602)年、加賀藩初代藩主の前田利長(としなが)の江戸訪問だろう。2代藩主となる利常(としつね)と2代将軍徳川秀忠の娘、珠姫(たまひめ)との婚姻が決まったお礼参りだとか。また、江戸で暮らし続ける母の芳春院(前田利家の正室、まつ)の見舞いも兼ねてのこと。

母を人質として江戸に置き、自ら江戸へ参勤する。これが「参勤交代は加賀藩にはじまる」といわれる所以である。

加賀藩の大名行列は少なくて2,000人前後!

さて、この参勤交代制度。あまり知られてはいないが、じつは「軍役」である。

そのため、参勤交代における大名行列については、事細かな規則が設けられている。そのうちの1つが、大名行列の規模、人数である。

思いのほか、藩主自らが領国と江戸を往復するのは、容易ではない。なんせ、身軽に一人旅というワケにはいかない。命を狙われる危険性を考慮しつつ、世間体という見栄も加味する必要がある。

だからといって、大名行列の人数が多ければよいわけでもない。江戸まで移動する費用は、途方もなく多額。しかも、自費。いくら幕府より献上品の倍返しがなされたとしても、なかなか大幅赤字は免れない。こうした諸問題が複雑に絡み合うのが、参勤交代なのである。

のちに、幕府は藩の規模で、参勤交代の大名行列の人数を制限することを定める。具体的には、1万石規模の藩の場合は、騎馬は3~4騎。足軽は20人、人足(荷物の運搬従事者)は30人。つまり、大体50人前後の隊列となるわけである。

もちろん、藩の規模が大きくなるにつれ、人数も増える。5万石だと騎馬7騎、足軽60人、人足100人に。10万石だと騎馬10騎、足軽80人、人足140~150人。つまり、全体で230~240人となるワケだ。ただ、実際に、藩主以外の武将らも、それぞれが家臣を抱えているため、その人数も加算される。結果的に、当初の想定よりも人数は膨れ上がるのだ。

それでは、加賀百万石を擁する加賀藩の場合はどうだったのか。
前田家は外様大名(とざま、関ヶ原の戦い以降に臣従した大名)ながらも、官位は「従三位・参議」という高いモノ。その大名行列は、少ない場合で2,000人前後。多いときには4,000人もの人数になったとか。

2,000人前後って。
私が1年前まで住んでいた北海道のとある町。町民の人数は2,700人ほどだった。町民全員でも、加賀藩MAXの大名行列に足りない。衝撃の事実である。加賀藩の大名行列がスゴイのか、町民の数が少ないのか。行列の長さも想像すらできないほど。もう、よく分からんレベルの話である。

1回の参勤交代の大名行列で億超え?

さて、そろそろ気になる部分へと話を進めよう。
ズバリ、おカネの話である。

加賀藩前田家における大名行列。
それほどの大人数が移動する一大イベントならば。かかる費用総額は、一体どれくらいになったのだろうか。下世話な話だが、その内実を知りたいもの。

現代でも2,000人、4,000人規模で移動する場合、末恐ろしい金額になる。さらに、当時は余計に費用がかかったはず。だって、移動は徒歩。それに荷物も運ばなければならない。移動日数は半端ないほど長くなる。

そもそも、加賀から江戸までのルートは3パターン存在する。第1ルートは、富山県、新潟県まで出てから南下。長野県の追分(おいわけ)より中山道(なかせんどう)を通るもの。総距離は約464.1キロメートルとなる。

第2ルートは福井県を経て滋賀県へ。岐阜県の垂井(たるい)より中山道を通るもの。総距離は約639.6キロメートルである。そして、第3ルート。先ほどの第2ルートの垂井までは同じ。そこから岐阜県の大垣、愛知県の名古屋を通過して、東海道を通るもの。総距離は約589.9キロメートルである。

少しでも、移動日数を短くする。これが費用圧縮のカギとなる。距離でいえば圧倒的に第1ルートになるのだろうか。

ただ、判断に迷うのは、大名行列のルート変更は不可というコト。天候やら病気やらでいかようにも自由気ままにチェンジ、なんてことにはならない。半年前から幕府におうかがいを立て、その返答を待ってから、準備にとりかかる。

つまり、幕府から、大名行列の計画の承認を受けたなら。その通りに遂行するしかないのである。こちらの都合など知ったこっちゃない。途中でがけ崩れにあっても、洪水で川が渡れなくても、お構いなし。到着予定日よりも遅れるのは許されたようだが。提出したスケジュールに沿って、杓子定規にそのルートを通らねばならない。これは絶対に守るべきルールの1つ。

となれば。
天候で左右されるルートは避けたいもの。ただし、距離で考えれば第1ルートが圧倒的。何のトラブルもなければ12泊13日で江戸に到着する。他のルートに比べても4、5日早く到着できるワケだ。そうそう、トラブルになど見舞われないとたかをくくって、最短距離を狙うのか。それとも石橋を叩いて渡るべきか。

ちなみに、加賀藩前田家は、第1ルートの選択が多かったという。そういう意味では、賭けに出たというべきだろう。

それでは、この第1ルートを選択したとして、総額費用はどれくらいになるのだろうか。

文政元(1818)年。加賀藩主は第12代の前田斉広(なりなが)の時代。実際に、越後(新潟県)の糸魚川(いといがわ)に宿泊したときの宿代が、資料に残っている。

藩主の宿泊先となる「本陣」は1泊280文。当時の1文を30円で換算すると、1泊8,400円となる。最下級のお供が泊まる宿は1泊160文。つまり、1泊4800円。なお、一番高いのは、馬にかかる費用。本陣にとめておく場合は、1頭500文。つまり、1泊15,000円。現代でいえば駐車場代になるワケなのだが、強烈に高い。あこぎな値段設定である。

仮に本陣に泊まるのが100名と考えても、84万円。残り1,900名が最下級の宿に泊まったとして912万円。これだけで大体1,000万円。ちなみに、これは1泊だけの費用である。おっと。馬の費用は含まれていないので、あしからず。

ざっと、予定通りに進んだとして12泊で1億2,000万円。MAX4,000人の大名行列なら、単純に2倍計算で2億4,000万円。何度もいうが、馬の費用は省いてこのお値段。驚愕のプライスである(あくまで仮定した推定金額です)。

では、天候が崩れて前に進めなかった場合はどうだろうか。じつは、第1ルートの行程は思いのほか、厳しいもの。金沢から長野県の追分までで、川幅が5メートル以上の河川は73も存在したというから。まあまあなアドベンチャー具合。加えて、73のうち30の河川には、橋すらない。歩いて渡ることができればいいのだが、雨で増水した場合は、もちろん、渡れない。その場所で留まることに。

記録では、実際に天候のため、3つの川で川留めがなされたこともあったとか。片貝川(富山県)、犀川(長野県)、千曲川(長野県)である。この時には、第1ルートといえども、18泊19日かかったというから、恐ろしすぎる。総額費用を考えるだけで、胸いっぱい。いや、江戸に到着したときも、安堵で胸いっぱい。

それにしても、1回の大名行列に軽く億超えとは。
その莫大な富は計り知れず。
加賀藩前田家の懐の凄さを、見せつけられた気がした。

ふと。
当時の参勤交代の大名行列を取り仕切るくらいなら。
現代の「幹事」などへっちゃらじゃないのと思い始めてきた。だって、73もの川をクリアしなくてもよい。当日の変更だってOKなのだ。あの、気の遠くなりそうな行程を思えば。現代の幹事役に就かせて頂けることが、なんだか有難い。

早速、積極的に幹事に立候補なんてと勢い込んで、気が付いた。
私、フリーランスじゃん。

結局、幹事とは無縁の人生なのだ。

参考文献
『加賀藩百万石の知恵』 中村彰彦 日本放送出版協会 2001年12月
『参勤交代の不思議と謎』 山本博文著 実業之日本社 2017年1月

※アイキャッチは哥川豊春作 『御大名行列之図』 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

書いた人

日本各地を移住するフリーライター。教育業界から一転、ライターの道へ。生まれ育った京都を飛び出し、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その後は富山県、愛知県へと流れつき、馬車馬の如く執筆する日々。戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。