プロ野球の歴史上「孤高のエース」と呼ばれた投手は何人もいます。「チームスポーツなんだから仲間がいるでしょ」とツッコまれそうですが、野球というスポーツはその性質上、どれだけいいピッチングをしたとしても、味方打線が奮起しなければ勝利の栄光を手にすることはできないのです。実際、弱小球団と強豪球団に所属する選手では勝ち星の伸び方にどうしても差が出てしまうもので、私の応援する横浜DeNAベイスターズでも活躍した「ハマの番長」三浦大輔は、先発投手として最高の栄誉であるプロ通算200勝を記録することなく引退を決断しました。私は今でも横浜がもっと強豪だったら三浦は200勝することができたと信じていますし、その意味では彼も孤高のエースなのかもしれません。
しかし、そうした類の「孤高のエース」ではなく、まさしく生涯のすべてを「孤高のエース」として過ごした投手がいたことをご存じでしょうか。その投手の名は、戦前から戦後にかけて日本のプロ野球界で活躍したロシア出身の投手「ヴィクトル・スタルヒン」。プロ通算で300勝を成し遂げた偉大な選手でしたが、一方でスタルヒンの生涯は「波乱万丈」という言葉では表しきれないほど悲惨なものだったのです……。
ロシア革命で祖国を追われ、日本で野球に出会う
スタルヒンは、1916年にロシアのニージニ・タキールという小さな村で生まれました。彼の父であるコンスタンチン・スタルヒンはロシアのロマノフ王朝に仕える将校であり、一家は貴族らしい暮らしをしていたといいます。しかし、世界史に詳しい方なら「1917年のロシア」と言われただけで何が起こったのかを察知できるかもしれません。そう、ロシアに君臨したロマノフ王朝がレーニンを中心とする社会主義勢力によって打倒され、ソ連が誕生する「ロシア革命」が起こった年です。
ロシア革命はロマノフ王朝の関係者を徹底的に弾圧したという特徴があり、スタルヒン一家も革命軍によって追われる身の上となってしまいました。コンスタンチンは反革命勢力の一員として戦いに加わり、幼きスタルヒンを抱いた母ニフドキア・スタルヒンは故郷を去ります。彼らは逃亡先でも徹底した狩りに遭い、心休まる時もなく命からがらの逃亡生活を続けました。そのうちコンスタンチンと奇跡的な再会を果たすのですが、最後に逃げ込んだシベリアの地までもが革命軍に占拠されるという有様。
一家は死体に紛れ込んで街から脱出し、流れ着いた先が当時日本の占領下にあった満洲・ハルビンの地でした。
しかし、彼らのような亡命ロシア人が急増したことによりハルビンでは生活物資が不足し、急激なインフレが引き起こされてしまったのです。苦しい生活を強いられたであろう一家は、4年ほどのハルビン生活に見切りをつけて日本本土への脱出を企図します。
しかしながら、日本はロシア移民の受け入れに難色を示し、大金を用意することでのみ入国を許可されます。幸い、スタルヒン一家には数少ない宝石などが残されていたので、それを売ることで資金を工面して北海道・旭川の地へ移り住みます。彼らはコートなどの原料となったラシャの行商で生計を立て、それなりの生活を営んでいたようです。ただ、彼らの一家が日本国籍を得られたわけではなく、かといって祖国は滅びているので「無国籍人」になってしまっていました。
スタルヒン少年は旭川市立日章小学校に入学し、そこで野球に出会いました。始めはいじめられることも多かったようですが、彼が野球で抜きんでた才能を示すようになるとそうした声は下火になっていったといいます。が、いじめられているときにスタルヒンが見せた態度を見逃してはなりません。彼は少し悲しそうな顔をしたのち、すぐにニコニコと笑いました。しかし、裏ではポロポロと涙を流していたのです。
父親が殺人犯になり、巨人入りを強要される
スタルヒンは旭川中学校に入学し、その頃には野球面での名声が確立されたものになっていました。彼を擁した旭川中学校は、1932年甲子園大会の北海道地区予選で躍進しましたが、惜しくも準々決勝で敗退。しかし、地元旭川での予選開催だったこともあり、スタルヒンは地元のスターになっていました。
ところがその翌年、スタルヒン一家の運命を左右する重大事件が発生します。1933年の1月、コンスタンチンが自身の経営する喫茶店「バイカル」の従業員女性を殺害してしまったのです。動機はその女性がソ連の諜報員であることを匂わせ、かつポリシェヴィキを褒めたたえる態度をとっていたことへの憎しみから生じたものでした。彼は懲役8年の刑を言い渡され、一家の生活はかなり苦しいものになったといいます。しかしすでに地元のスターであったスタルヒンが迫害されることはなかったようで、むしろ同情的な視線が向けられました。
スタルヒンはその年、翌年と立て続けに北海道予選を決勝まで勝ち抜き、甲子園出場まであと一歩のところまでこぎつけます(旧制中学は5年制なので、あと2年チャンスがある)。しかし、北海道で活躍する外国人大投手の名が全国に広まったことで、彼をスカウトしようという動きが出てきます。それを主導したのが読売巨人軍を創設した正力松太郎でした。
正力は読売新聞の販売戦略の一環としてアメリカからメジャーリーグのオールスターチームを呼び寄せ、日本の選手たちと試合をさせるというイベントを企画しました。しかし、当時は文部省の指示により学生とプロ選手の対戦が禁じられていたため、正力は将来のプロ球団化を念頭に置いて全日本チームを組織しようとしました。そのメンバーにスタルヒンは選ばれたのですが、彼自身なんと新聞紙面で初めて自分が選ばれたことを知ったというのです。
そもそも、スタルヒンはまだ中学3年生。彼は果たせなかった甲子園出場を目指して特訓に励み、チームメイトや地域の人々もそれを応援する構図が出来上がっていました。
彼の引き抜きは学校の退学を意味しますから、当然街は大反対のムード一色に。スタルヒン本人もプロ入りを望まなかったので、この話は白紙撤回となるかに思われました。
しかしながら、なかなか戦力が揃わない読売側は強硬手段に出ます。まず、彼が父の殺人で困窮している点に目をつけ、生活の保証をすることで引き抜こうとしました。が、地域の反対は根強く、スタルヒンをなんとしても匿おうとします。一方の読売は「政界のフィクサー」と恐れられた頭山満の協力まで取り付けて彼らを捜索し、ついには特高警察にまで依頼してスタルヒンを見つけ出しました。最終的に、「お前の父親は殺人犯だ。だから、もしこの誘いを断れば一家そろって国外追放の可能性もあるんだぞ」と脅迫。こうなってはもはやスタルヒンに選択の余地などなく、彼は自身への期待を裏切る形で逃げるように旭川を去らなければなりませんでした。
大投手として活躍するも、名前が「須田博」に
プロ選手となったスタルヒンは、読売が意地でも入団させようとした先見の明を証明するように好成績を残していきます。また、ひょうきんな人柄から「スタちゃん」というニックネームでも親しまれ、チームメイトとの関係性も良好だったようです。ただ、スタルヒンはとにかく考えていることがすぐ顔に出てしまう性質だったようで、すぐに泣いたり笑ったりする彼は良くも悪くも先輩たちによるからかいの的になったといいます。
アメリカ遠征の際にはメジャー球団からもスカウトされたといい、その実力は国際的にも評価されました。しかし、無国籍人であったことからアメリカでは入国拒否や国外追放の危機におびえなければならず、彼は日本国籍の取得を試みます。スタルヒンは日本側の担当者に頼み込みますが、返事はたった一言で「どう見ても日本人じゃないから、国籍は渡せない」というものでした。当時の日本における国籍取得の条件は極めてあいまいで、担当者の裁量一つでどうにでもできたのです。外見が「日本人らしくない」スタルヒンは国籍取得を諦めなければなりませんでした。
巨人で選手としても成長を遂げていたスタルヒンですが、彼だけでなく日本の野球界全体に戦争の影が忍び寄ります。1937年には盧溝橋事件をキッカケに日中戦争が幕を開け、国家総動員体制が敷かれようとしていました。野球界も野球道具の節約が推奨され、同時に選手たちも軍人として戦地に送り出されました。
箸で日本食を味わい、将棋を指し、流ちょうな日本語を話したスタルヒンですが、「日本人らしくない」という理由で国籍はありません。それゆえに徴兵されることもなかったのですが、戦時体制になると「外人」への目が日に日に厳しいものとなっていきました。1940年には野球がアメリカの国技ということで風当たりが強くなり、彼らは野球用語を和訳して対応しました。しかし、「ヴィクトル・スタルヒン」の名を日本語に置き換えることは不可能です。結果、巨人のフロントは彼に「須田博」という日本風の名への改名を強要しました。スタルヒンにとって改名を拒むことは野球選手でいられなくなることと同義であり、彼にこれを拒む選択肢はありませんでした。
それでも、スタルヒンが迫害を逃れられたわけではありません。彼は外に出るのも特高に届け出をしなければなりませんでしたし、常に特高によって尾行されていました。少しでも不審な動きをすれば、見るも無残な姿になるまで拷問を受けるリスクがあったからです。彼は全神経を注いで「日本人らしく」振舞わなければなりませんでした。そんな日々に彼は心身を病んでいき、肋膜炎と診断されて一時は選手生命さえ危ぶまれました。そして、これほどまでに日本人であろうとしたスタルヒンは、1942年に「外人である」ことを理由に巨人から追放されたのです。
戦後に復権するも、最期は不審死を遂げた
とうとう生活すらもままならなくなったスタルヒンは、一家で「外人」の抑留先であった軽井沢へ向かいます。
幸いこの地には各国の要人も暮らしていたので、彼らは一家で雑用をこなして生き延びました。それでもスタルヒンは身体を病み、健康な妻のレナと労働をめぐって大喧嘩をしてしまいます。非常に苦しい生活を強いられていたスタルヒンですが、1945年の終戦を機に自由を手にし、焼け跡となった東京に戻って仕事を探しました。彼は東京の地理にもたいへん明るかったので、進駐軍の通訳兼案内人として働き、大量の食糧を手にしました。そのうち進駐軍に正式な形で雇用され、安定した給料を得ることもできたようです。
一方、混乱の渦中にあった日本社会でしたが、プロ野球の復活に向けた動きは着々と進んでいました。進駐軍の中心的存在だったアメリカの国技ということもあり、彼らも野球の復活を推奨します。その中でスタルヒンは巨人時代の恩師である藤本定義が立ち上げたパシフィックという球団への入団を希望しますが、これに待ったをかけたのが巨人。彼らは「自分たちに保有権があるから、他チームへの入団は認められない」と抗議します。結局、訴訟騒ぎの末に両球団が和解する形でスタルヒンのパシフィック入団が認められ、投手として実に数年ぶりのマウンドに立ったのでした。
しかし、スタルヒンは家庭内の不和や進駐軍の仕事にもかかわっていたため、野球面で特筆するほどの成績を上げることができませんでした。もちろん、長年野球から離れていたが故のなまりもあるでしょう。自身の不調に加えてチームも空中分解寸前となり、スタルヒンは野球を半ばあきらめて進駐軍の管轄する巣鴨プリズンで通訳者になる試験を受けたほど。が、浮気を重ねていた妻とキッパリ離婚したことでふたたび野球に気持ちが向けられ、藤本とともに金星スターズに移籍してシーズン17勝を記録しました。
それでも資金難に苦しむ金星は映画会社の大映に買収され、大映スターズとして再出発します。ところがチーム内では派閥争いが繰り広げられ、とても野球に集中できる環境ではなくなってしまったのです。それでもスタルヒンは孤軍奮闘し、同時に新たな妻であるターニャとの新婚生活もスタート。しかし、その後は野球選手として衰えを隠せなくなり、1954年には新興球団である高橋ユニオンズへ放出されます。チーム状況もスタルヒン自身のピッチングもピリッとしませんでしたが、彼は最終年にプロ通算300勝を達成。しかしながら巨人と約束していた引退興行の約束も果たされず、「野球人生、僕は裏切られっぱなしだった」という言葉を残したといいます。
引退後はあれほど熱望していた日本国籍の申請も行わず、娘のナターシャ・スタルヒン曰く「引退後の2年間は誰にも触れられたくない人生の一部分であった」そう。実際、彼女はスタルヒンの伝記でこの部分については一切触れていません。そして、1957年1月12日、スタルヒンは車を運転中に東急玉川線三宿駅に停車中の路面電車に追突し、この世を去りました。彼は直前のパーティーで飲酒しており、飲酒運転が死の原因ではないかと言われています。しかし、ナターシャは「死にはいささか不審な点がある」と語っており、スタルヒンの飲酒量が非常に少なかっただけでなく、次の目的地であった旭川中の同窓会会場と真逆に車を走らせていたようです。
結局、スタルヒンは最期まで無国籍人でした。生前は苦しみ続けたスタルヒンですが、1960年に創設された野球殿堂ではいの一番に殿堂入りし、現代でも旭川には「スタルヒン球場」と呼ばれる市営球場が存在します。
スタルヒンに対して日本人たちが行った仕打ちは、決して許されるものではありません。その罪を償うことはできませんが、せめて彼の残した生涯の記録を伝え続けていくことが、私たちにできる唯一の罪滅ぼしなのかもしれません。
【参考文献・HP】
ナターシャ・スタルヒン『ロシアから来たエース』PHP研究書、1997年
HTB「心の中の国境~無国籍投手スタルヒンの栄光と挫折~」
https://www.htb.co.jp/vision/kokoro/story.html
他
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