明治時代末期から大正、昭和中期まで終生旺盛な執筆活動を続けた作家・谷崎潤一郎(たにざき じゅんいちろう)。作品は今もなお人気が高く、度々映像化や舞台化もされています。3度の結婚と、その過程で起きたスキャンダルは当時の人達を驚かせました。平凡な生活よりも芸術のために変化を好み、作品に昇華した谷崎潤一郎の生き様を追ってみたいと思います。
関東大震災がきっかけで、関西へ移住
明治43(1910)年、24歳で※『刺青(しせい)』を発表した谷崎は、新進作家として注目を集めます。東京や神奈川など転居を繰り返しては、執筆活動を行っていました。しかし、『刺青』以降の代表作はまだなく、戯曲を書いたり、活動写真を制作したりと、作家としての立ち位置を模索する時期が続きました。
大正12(1923)年、37歳の谷崎は、関東大震災があったことから、家族で関西へと移転します。一時的な仮住まいのつもりだったのが、阪神間の郊外の風土が気に入り、長く執筆活動の場となります。この関西への転居で作風もがらっと変わり、数々の作品が生み出され、谷崎が作家として名をなす転機となりました。
谷崎が愛した兵庫県芦屋市に、業績の顕彰を目的にした芦屋市谷崎潤一郎記念館があります。数寄屋風の邸宅を模していて、まるで自宅へ招かれたような感覚に。また谷崎が生前に実際に使っていた文机などが置かれた、書斎のイメージを形にしたコーナーがあります。窓からは美しい庭が見渡せ、谷崎は庭を眺めながら筆を進めていたのではと想像できて楽しいです。
最初の妻千代と、世間を騒がせた仰天事件
谷崎は妻の千代と1人娘の鮎子の3人で関西での生活を始めます。転居してから発表した※『痴人の愛』が大変な人気を呼び、作家としての地位は揺るぎないものになりつつありました。しかし千代との夫婦仲は最悪で、修復できない深刻な事態となっていたのです。
芦屋市谷崎潤一郎記念館・学芸員の井上勝博さんは、「元々は芸者で、気性の激しい初と結婚したかったのですが叶わなかったのです。そこで紹介された妹の千代と結婚したいきさつがあるんです」。谷崎が望んだのは、姉の初に感じた妖しい魅力でしたが、千代はごく家庭的で平穏な生活を望む女性でした。結婚当時、悪魔的な作風で、日々の生活にも芸術家の感性を失いたくない谷崎にとっては、夫婦としての相性が良くなかったようです。女性目線で見ると、なんて理不尽なと思ってしまいますが、それだけ作家としての熱意や業が深かったと言えるかもしれません。
そして、この冷たい夫婦関係は、周囲の人間を巻き込んだ事件を引き起こします。谷崎は文壇の仲間と距離を取り、独自の文学を追究していましたが、作家の佐藤春夫とは友情を育んでいました。※小田原事件を起こすなど紆余曲折の長い年月の末に、谷崎は妻を親友の佐藤に譲る決心をするのです。2人とも有名人であったことから準備を周到に進め、3人連名の挨拶状を発表します。各新聞が挨拶状を掲載すると、「妻君譲渡事件」として世の中は騒然となりました。一般的な常識では理解しがたい感覚ですが、谷崎としては周囲の理解も得られて、穏やかに収束すると思っていたようです。谷崎はその後も元妻と娘の新生活に気を配り、佐藤との友情も終生変わることはありませんでした。
夫婦の不和を、赤裸々に描いた『蓼喰う虫』
妻の千代との関係が色濃く反映されているのが『蓼食う虫(たでくうむし)』。それまで西洋への憧れや、異国趣味が感じられた作風が、この作品から変化したと言われています。人形浄瑠璃が物語の中で効果的に使われていて、日本文化への傾倒が感じられます。
要(かなめ)と美佐子は仮面夫婦です。息子の弘(ひろし)の前ではそれぞれ父親と母親を演じていますが、美佐子は暇さえあれば恋人の元へ通い、要も黙認している状態です。すっかり冷え切った関係の2人は離婚したいと考えていますが、息子のことを考えるとなかなか実行できずにいます。
ある日夫婦は、美佐子の父とその愛人と連れだって人形浄瑠璃を見に出かけます。要は妻に関心を持つことができないのに、義父の若い愛人に興味を示します。要と美佐子は理屈ではどうにもならない悩みや、やるせなさを感じながらも、無為な時間を過ごします。見かねた周囲の助言もあり、ついに要は離婚を決心して養父へ手紙を書くのでした。
2番目の妻、丁未子との短い結婚生活
谷崎と並んで写真に収まっているのは、千代との離婚後に結婚した丁未子(とみこ)です。まるでアイドルスターのような可憐な美貌が、目を引きます。丁未子は、谷崎が※『卍(まんじ)』を執筆中に出会った大阪の女子専門学校の女生徒達の1人でした。谷崎は当時42歳で兵庫県岡本に新築の家を建て、有名作家となっていました。丁未子は自分よりも20歳も年上の谷崎を、遠い憧れの存在として見ていたようです。
出会ってから3年後に2人は結婚しますが、英文科出身の才媛である丁未子との結婚もうまくいきませんでした。わずか2年で破綻してしまいます。端から見て憧れる作家と、実際に生活を共にするのは大きな違いがあったことでしょう。また谷崎には、他に心に秘めた愛する人がいたことが影響していたようです。丁未子と愛人との間で揺れ動く関係を描いたのが『猫と庄造と二人のおんな』。1人の男を巡る女性2人との三角関係を描いていて、猫のリリーを中心にしたユーモラスな内容です。自身の不幸な結婚生活を、冷静に面白い作品にしてしまう谷崎潤一郎って一体…。
「女性は結婚相手に真実の愛を求めると思います。でも作家である谷崎潤一郎が求めていたものは、違っていたのでしょうね」と井上さん。現実の夫婦の関係性よりも、小説の世界の方に重きを置き、私生活は創造の為の道具のように考えていたとしたら、そばにいる女性は大変な思いをしたのではないでしょうか。
3番目の妻松子を得て、広がった作品世界
丁未子との関係がうまくいかなくなった時期に、谷崎の心を占めていた女性とは誰だったのか。それは船場の※御寮(ごりょう)はんとして、大阪で指折りの豪商の妻だった松子です。出会いは約10年前に遡ります。人妻で高嶺の花である松子は、谷崎にとってずっと憧れの存在でした。手の届かない存在と諦めていましたが、没落して貧しい暮らしぶりとなり、夫から見放されてしまった松子を、谷崎は放っておくことができませんでした。丁未子と別居した翌年に谷崎は松子と同棲を始めます。そして離婚から1年後、昭和10(1935)年、谷崎が50歳、松子30歳で夫婦となります。
松子というミューズを得たことで、谷崎は長い女性遍歴を終え、理想的な作家生活を送っていきます。※『春琴抄(しゅんきんしょう)』、『細雪(ささめゆき)』といった代表作を世に出し、国内だけでなく海外からも注目される大作家となります。『春琴抄』執筆時には松子への手紙も、下僕になりきって書いていたとか。名前も奉公人のようでいたいと「潤一郞」ではなく「順一」と署名する徹底ぶりでした。谷崎が望むマゾヒズムの世界を作るのに、創作の理解者である松子の存在は大きかったようです。
時局に抗って執筆した細雪
谷崎作品の中でも最大の長編小説で、傑作として名高いのが『細雪』です。松子は大阪の藤永田造船所(ふじながたぞうせんじょ)の大株主であった、森田安松の次女で、他に3人の姉妹がいました。この作品は松子とその姉妹から着想を得たようで、芦屋を舞台に4姉妹の日常の悲喜こもごもを描いています。
第2次世界大戦中の昭和18(1943)年に月刊誌で発表を始めると、軍部から「内容が戦時にそぐわない」と注意を受けて掲載ができなくなります。発表の場を失っても、谷崎は執筆を続けました。そして終戦から1年後の昭和21(1946)年に、ようやく発表にこぎつけます。『細雪』に描かれた関西の上流階級のはんなりとした世界は大衆の支持を得て、ベストセラーとなります。そして谷崎はこの作品で、毎日出版文化賞、朝日文化賞を受賞の名誉にあずかります。
今も色あせない谷崎文学の魅力
芦屋市谷崎潤一郎記念館では、谷崎が執筆した作品の販売も行っています。「これだけ長く執筆活動を続けた作家は珍しいと思います。人間が持つ欲望を理性的に描いていて、今読んでも面白いです」と井上さん。記念館での本の売り上げランキングも掲示していて、1位は※『瘋癲老人日記(ふうてんろうじんにっき)』。「この作品は79歳で亡くなる4年前に出版されました。自分の老いや死期が近づいているのを意識していたと思いますが、それさえも俯瞰してユーモラスに描いています。是非、読んでもらいたいですね」。最後までエネルギッシュにぶれずに創作活動を続けた谷崎潤一郎の小説に触れると、何だか元気がもらえそうです。
芦屋市谷崎潤一郎記念館基本情報
住所:兵庫県芦屋市伊勢町12-15(バス停『緑町』下車徒歩すぐ)
開館時間:10時~17時(入館は16時半まで)
休館日:月曜日(月曜が祝日の場合は翌日)、年末年始(12月28日~1月4日)、展示入れ替えの期間
入場料:一般300円、大・高生200円、中学生以下無料。
(特別展開催時は、一般500円、大・高生400円、中学生以下無料)
公式ウェブサイト