その冷酷さに天皇も嘆いた…!2代将軍徳川秀忠の素顔とは?影が薄いなんてもう言わせないっ

その冷酷さに天皇も嘆いた…!2代将軍徳川秀忠の素顔とは?影が薄いなんてもう言わせないっ

明け方4時。
前日からの大雨が止まない中、庭に勢ぞろいした武士や鷹匠らの面々。

彼らは、本日4時に予定されていた主君の鷹狩りの同行者であった。豪雨のため中止になるだろうと思ってはいたが、念のため登城。主君の取次が中止の発表を告げるのを待っていたのである。

さすがに、主君は寝ているだろうと思っているところへ、鷹狩り装束に身を包んだ主君その人が。
同行者らの身だしなみをチェックし、全員が揃っているか確認。

えっ。まさかの鷹狩りが実施されるのか。こんな豪雨なのに?
誰もが、衝撃に備えた。

その時、主君から一言。
「皆、支度に抜かりはないな。よし。この天候ゆえに鷹狩りは順延する。解散いたせ」。

庭で雨に濡れながらそう告げる主君の姿を見て、一同ため息。

……。
なんてルール通りなんだ。

さて、この主君というのが、2代将軍、徳川秀忠(ひでただ)。今回の主役である。

徳川秀忠といえば、初代徳川家康と3代家光の繋ぎ役的なイメージが強い2代将軍。「関ヶ原の戦い」では遅参し、派手な実績もない。なんなら、家康の命令を忠実にこなすためだけに、次期将軍に選ばれたという印象も。

しかし、よく考えてみれば、あの徳川幕府の礎を盤石にした人物でもある。
果たして、本当に、そんな凡庸な人物だったのか。

今回は、ある人物の手紙をもとに、2代将軍、秀忠の知られざる素顔をご紹介。一体、どんな一面が出てくるやら。徳川家康が後継者として選んだ理由が、分かるかもしれない。

三男だった徳川秀忠の政治手腕とは?

徳川秀忠が2代将軍となったのは、慶長10(1605)年2月。ちょうど27歳の時のこと。

じつのところ、秀忠は三男である。長男・信康(のぶやす)は織田信長の命で切腹。次男・秀康(ひでやす)は豊臣秀吉の養子となり、その後は結城家へ。結果、まさかの三男・秀忠に、家督相続が回ってくるのである。

そんな棚ぼた的な秀忠。確たる理想を持ち、熱き情熱を胸に秘めて、いざ執政へと言いたいところだが。実際は、初代将軍の徳川家康が、世襲制を公言するために将軍職を譲ったようなもの。未だ実権を握っていたのは、その後も「大御所」として君臨していた本人、徳川家康であった。

つまり、秀忠は、ただオヤジの下で働く若き2代目という感じ。

将軍とはいえ、何事も自分で決めることはできず。偉大な父、家康の意向を確認し、その通りに実行する。そんな時代が10年ほど続いたのち、ようやく元和2(1616)年4月に家康死去。その後の7年間こそが、まごうことなき「徳川秀忠の時代」である。彼は、ようやく、真の意味での「天下人」になったのだ。

徳川家康像

さて、そんな秀忠の人物評はというと。あまり芳しくない。『常山紀談(じょうざんきだん)』での、徳川秀忠の人物評は、こんなふうに記されている。

「台徳院殿(秀忠)は殊に礼儀正しくおはしまし、苟(かり)にも疾言おはしまさず。事なき時は泥塑人(でいさくじん、土人形という意味)のごとくになん」

礼儀正しく失言もない。平時は土人形のようだと。全く、褒めているのかけなしているのか。ことさらひどい言われようである。

ただ、そんな害のない凡庸な人物かと思いきや。政治的手腕は相当なもの。情に揺れやすい徳川家康よりも、粛々と進める秀忠には、空恐ろしいものを感じる。確かに家康は狸オヤジだったが、その分、柔軟性があった。しかし、秀忠にはそれがない。家康はその部分を評価したのだろう。それにしても、杓子定規な「剛」の部分は、秀忠という人物をより際立たせる。

これは、何も、ただの感想ではない。事実を示したまで。

じつは、秀忠の治世の7年間に、多くの大名家が改易(かいえき)の憂き目に遭っている。改易とは、武士の所領や家禄・屋敷を没収して、士籍から除くこと。いうなれば、一種の身分刑であり、蟄居(ちっきょ、謹慎処分)よりは重く、切腹よりは軽い。そんなえげつない処分である改易を容赦なく進めたのが、この秀忠である。結果、蓋を開けてみれば、なんと、41家が潰されたという。

改易を皮切りに、秀忠は緻密な支配体制を築いてく。経済活動が盛んな畿内には、「関ヶ原の戦い」以前から臣従していた譜代(ふだい)大名を集中的に配置。改易や転封(てんぽう、領地を他に移す、国替え)された土地には、譜代・親藩の大名を配置して、周囲を監視させるのも怠らない。

この支配体制の確立は、大名統制だけにとどまらず。なんと、秀忠は、朝廷、寺社をも厳しい統制下に置いたのである。また、海外貿易を制限して、大名らの財力を削ぐことにも成功。徳川幕府の礎をより強固なものにしたのである。

衝撃的な「後水尾天皇の譲位」の裏側!その手紙とは?

ここに1通の手紙が残っている。
日付は寛永6(1629)年12月27日。手紙を書いた人物は、細川忠興(ただおき)。明智光秀の娘である玉(ガラシャ)の夫の方が有名なのかもしれない。ただ、ここでは、朝廷とのパイプを持つ細川幽斎(ゆうさい)の息子の立場の方が分かりやすいだろう。

細川忠興像

手紙の相手は、そのまた息子の細川忠利(ただとし)。父子間で、手紙のやりとりをしていたようだが。ここで、ちょうど世間を騒がせた出来事について、忠興が言及しているのである。

その出来事とは。
寛永6(1629)年11月。後水尾(ごみずのお)天皇が幕府側に何の通告もせず、無断で行った譲位のこと。譲位した相手は、次女である興子(おきこ)内親王(のちの明正天皇)。徳川秀忠の外孫にあたる。

一般的に、後水尾天皇の突然の退位の背景には、江戸幕府の圧政が絡むとみられている。徳川秀忠の朝廷、寺社への締め付けはかなりのものだった。その代表的な事件が「紫衣(しえ)事件」である。

もともと慶長18(1613)年に、江戸幕府は大徳寺や妙心寺、知恩院など8つの寺に対して、「勅許紫衣法度(ちょっきょしえはっと)」を出した。「紫衣」とは、その名の通り、紫色の袈裟(けさ)のこと。僧侶が着用するものである。この紫衣を身につけられるのは、朝廷の許可を受けた特別の高僧だけという慣例があった。

しかし、この法度により、朝廷の専権事項であった紫衣の許可について、事前に幕府への申し出が必要となったのである。さらに元和元(1615)年の「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」では、紫衣の許可をもっと慎重にするようにとのお達しも。

これには、朝廷もさすがに反発。朝廷側は、これまで通りの慣例を続けていたため、秀忠はとうとう「朝廷による紫衣の許可」を厳禁とした。しかし、それでも紫衣の勅許がなされたことで、強烈な策に打って出たのである。それが「諸宗法度」。元和元(1615)年以降に、朝廷より紫衣などを賜った者らを無効としたのである。つまり、紫衣を取り上げるというもの。

実際に、大徳寺の15名の僧侶のうち、存命中の6名の紫衣が剥奪。加えて、朝廷に反発した大徳寺の沢庵(たくあん)などの僧侶が流罪となった。

これに激怒した後水尾天皇は、退位することで幕府に意思表明をする。

そして、この後水尾天皇の心情を伝えたのが、先ほどご紹介した細川忠興の手紙である。主上(しゅじょう)とは、後水尾天皇のこと。痛いくらいの剥き出しな絶望感が伝わってくる。その手紙の内容を一部抜粋しよう。

「また、大徳寺・妙心寺の長老などが不届きであると武家より言われ、あるものは衣(紫衣)を剥がれ、また配流(はいる)となられたので、口宣(くぜん、勅命の原案文書)も一度に七、八十枚も反故になった。それゆえ、主上は『これ以上の恥辱があろうか』と仰せになっている」
(吉本健二著『戦国武将からの手紙―乱世に生きた男たちの素顔』より一部抜粋) 

天皇自らが「恥辱」とのたまうほど。それほど、秀忠の施策は強烈だった。ただ、じつは事の真相は、そう単純ではない。紫衣事件は、氷山の一角。この手紙には、幕府に対する不満や痛烈な皮肉が、てんこ盛りに紹介されているのである。

例えば、公家衆への官位の任免、手に入った金銀など、全てが自由ではなくなったという。これらの仕打ちを、後水尾天皇はどう受け止めたのか。先ほどの手紙に戻ってみよう。

「神代よりこのかた禁中にこのような例はない。それなのに、今、自分の代になって、このような事態が起こっては、事情をよく知らないことゆえ、後代から自分が謗(そし)りを受けることになろう。そのことが何より口惜しく思われてならない、とのことだ」
(同上より一部抜粋) 

簡単にいえば、江戸幕府は朝廷に対してやりたい放題だったのである。確かに、これまでの伝統が自分の代で消滅するのは、ある意味、御先祖、子孫いずれにも顔向けできないものであろう。

それにしても、後水尾天皇には、激怒以外に、諦めにも似たある種の「自暴自棄」が見え隠れする。なぜ、そこまで反骨心が薄れてしまったのか。これには、ちゃんとしたワケがある。

じつは、徳川家康、秀忠父子は、かねてから、天皇家への姻戚関係を模索していた。そして、その夢がついに実現。元和6(1620)年、秀忠の八女・和子(まさこ)をゴリ押しで入内させることに成功するのである。和子は天皇の女御(にょうご)となり、寛永元(1624)年には中宮(ちゅうぐう)となる。

それだけで済まないのが、徳川秀忠。
それでは、衝撃的な後水尾天皇譲位の裏側をご紹介しよう。忠興の手紙には、信じられない内容が書かれている。

「また隠れた理由として、御局衆の腹に宮様たちがどれほど生まれても押し殺され、または流産させられていることがある。主上は、ことのほか酷く、ご無念に思われたとのことだ。『どれほど子供が生まれても、武家(秀忠)の孫よりほかは天皇の位に決してつけないのに、あまりに乱暴なことだ』と深くお思いになったとのこと」
(同上より一部抜粋) 

確かに、一方的な後水尾天皇側の言い分かもしれない。

ただ、現実に。
譲位以前に生まれた子は、全て和子が産んだ子らである。そして、後水尾天皇が譲位したのちには、和子以外の側室から、24人もの子が産まれているという。

ただでさえ、400年以上もの前の話。そして、天皇家という秘密のベールに包まれた内側のこと。真実は闇の中である。しかし、あまりにも、符合するところが多い気がしないだろうか。

細川忠興の手紙が全てではないが。
政治手腕の実績、朝廷、寺社に対する締め付け。

こうみると、秀忠は、決して凡庸な男などではない。
逆に、冷酷な一面を持ち合わせつつ、表に出さない。そこにまた、大いなる未知数を感じる。

最後に。
秀忠の死に際のこと。
徳川家康と同様、「神号」を授けることを提案されたが、きっぱりと断っている。オヤジほど、後世にまで君臨せずともよい。ただ、やるべきことはやる。そんな強い意志が垣間見える。

まさしく。
「冷静と情熱の間」

そんな言葉が似合う将軍であった。

参考文献
『徳川家康に学ぶ健康法』 永野次郎編 株式会社メディアソフト 2015年1月
『別冊宝島 家康の謎』 井野澄恵編 宝島社 2015年4月
『大名家の秘密: 秘史『盛衰記』を読む』 氏家幹人著  草思社  2018年9月
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月
『戦国武将からの手紙―乱世に生きた男たちの素顔』 吉本健二著 学研プラス 2008年5月

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