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Culture
2020.08.13

日本軍最後の死闘の地、虎頭要塞。戦史を通じて考えるコロナ禍

この記事を書いた人

「今の子供は戦争を天災かなにかだと思っているんですよ」

数年前、都内の小学校教員からそんな話を聞いた。2018年から始まった小中学校での道徳授業の教科化(中学校は2019年から)によって導入された教科書に関する集会に出席した時のことである。教科書が一種類増えるという特需にあって、教科書会社各社は自社の教科書を採択してもらおうと必死だった。けれども、いったいなにを題材にするかは皆目見当もつかず、試行錯誤が続けられていた。そうした中には、戦争……太平洋戦争の空襲体験などを綴ったものも多く見られた。けれども、そこに記されている文章には、どこか違和感を拭えなかった。

体験談を扱っているのに、なにか遠い昔に突然ふりかかった不幸な出来事というふうな他人事という感じが拭えないのだ。ありていにいえば、リアリティがないのである。

そう、気がつけば戦後70年も過ぎた。ボクも40代になったわけだが、当時は当たり前にいた戦争体験者というのも、ほとんどいなくなってしまった。それを生業にする人から在野の人まで、前の戦争のことを調べて、なんらかの形で発表している人というのも多いが、生の声を聴ける時代ももうすぐ終わる。

もう「前の戦争」は記憶から記録の時代に

ただ、記録は残っている。未曾有の敗戦の結果だろうか、戦後には多くの体験談や回想録が編まれている。そうした書物を読むことを繰り返して、我々は僅かなページでは「天災」程度にしか捉えられない血肉の通った戦争の現実を知ることが出来るのだ。善悪やイデオロギーなどというものを越えた先にある人間の匂いのするもの。昭和の時代には、そうした本も多く出版されていた。やはり、自分たちが同時代に生きていたがゆえに、あの戦争はなんだったのかと考える機会を得たい読者層というものが存在したのだろう。

そうした本の多くも、今では多くが忘れ去られ、興味のある人の間で知られるに過ぎなくなっている……。

率直に「人生が濃い」著者の体験した戦争

五年ほど前に、偶然一冊の本を手に入れた。『秘録 北満永久要塞 関東軍の最期』1964(昭和39)年、秋田書店から出た本だ。著者は岡崎哲夫。

昭和の頃、当事者達による多くの本が出版されたがそれらも今では忘却されたものが多い

裏には著者近影と略歴が記されていた。ちょっと引用してみよう。

大正九年、岡山市に生まる。
 (中略)
昭和十八年、現役学徒兵。同二十年、虎頭要塞に転属されて戦争の悲惨さをつぶさに体験。ハバロフスクで抑留生活三年、二十三年復員。昭和三十年、森永ドライミルク中毒事件で長女が被災、全国被災者同盟協議会の委員長に選ばれて対森永交渉。著書「森永ミルク事件史」三十八年十二月号の「文芸春秋」に虎頭記録の要約を発表、多大の反響あり。

(同書より。以下、引用部分は原文ママ)

なんだ、この著者はと驚いた。凡庸な言葉を使えば人生が濃すぎる。戦地に出生してからの、対ソ戦。シベリア抑留。
そこまででも「大変でしたね」といわれる体験なのに、略歴に記載された僅かな言葉からも戦後が安寧でなかったことがわかる。そんな著者の人生の中で、一冊を認めるに値する体験だった虎頭要塞とはなんなのか。ボクは本のページをめくってみることにしたのだ。

荒野の中に築かれた大要塞

1932(昭和7年)、満州事変の結果として満州国が成立する。それは日本が長大な国境線で仮想敵国であるソ連と対峙することの始まりであった。国境線での緊張は1939(昭和14)年のノモンハン事件などを引き起こすことになるわけだが、対ソ戦への警戒からソ満国境には国境要塞の築城が始まる。そうした中で、現・中国黒竜江省鶏西市虎林市虎頭鎮に築かれたのが虎頭要塞であった。当時の虎頭鎮は、様々な民族が数百人あまり暮らす寒村に過ぎなかった。目の前には国境線であるウスリー江(黒竜江)が流れ、周囲には虎や狼の住む大湿地が広がる。

満州の大地は広く果てしない(国会図書館所蔵『満洲景観:写真帖』より)

国境線の向こうも遙かなシベリアの平原である。だが、虎頭には地の利があった。寒村を囲む丘陵に登れば国境の向こうに広がるソ連領が一望できたのである。対岸にはソ連領のイマン市(現・ダリネレチェンスク)。そこには、ハバロフスクとウラジオストックを繋ぐシベリア鉄道とイマン川を渡る鉄橋も一望できたのである。

虎頭はまさに、ウラジオストクやウスリースクの。のど元につきつけられたアイクチであり、また、ソ連領沿海州の心臓部にむけられた長槍の穂先であった。

大河の対岸に要塞が建設されていることを察知したソ連側も黙ってはいなかった。砲撃で鉄道線路が遮断されるのを避けるべく、シベリア鉄道を国境のから離れたところへ迂回させたのである。

シベリア鉄道は今でも変わらぬ交通の大動脈である

これに対して日本軍は、1941(昭和16)年、要塞に試製四十一糎榴弾砲の設置を決定する。口径41cm、砲身長13.445m。重量1トンの砲弾を20キロ先まで到達させることができる巨大砲である。あまりの大きさに運用コストも掛かりすぎるため使用されていなかったものを、いざ開戦した際の切り札として搬入したのである。それと共に要塞の工事も進行した。多くの労働者を使い、丘陵の地下に巨大な地下壕が次々と掘削された。要塞という名前は現代風だが、実態は「城」である。攻め寄せる敵をあちこちに設けられた銃眼から射撃し、虎口のごとき穴から出撃して迎え撃つのは戦国時代の、それと変わらない。

無用の長物になるかと思われた要塞だが

しかし、国境の緊張感は次第に薄らいできた。1941(昭和16)年4月。日ソ中立条約が締結される。直後、独ソ戦が始まると条約を破棄して侵攻するプランも検討されたものの、結局ソ連との対決は避けられた。そして、太平洋戦争の開戦と共に、満州に集積された人や物資は南方へと転用されていった。

次第に南方の戦局が悪化し、日本の運命に暗雲が漂ってくると国境の寒村の空気も変わっていた。

人の運命は、目前のことに夢中になっている当人よりも、傍観者のほうがそれを見て取ることがある。

そう語る岡崎は、ここで自身に寄せられた宣撫工作を行っていた人物の手紙を紹介している。

この時すでに彼らは、日本の敗戦——というより、ソ連軍の越境を既に感じとっていたのではないかと思います。満人部落に行ってみても、いつもかわらない平静をよそおっていたが、日本人の運命は刻々と迫っているんだよ……といった目つきにかわっていたことが、あとになってわかったことです。

当時はわからなかったが、回想だからこそ書けることがある。要塞に詰める兵士たちもどこかで「もう、これは駄目だ」と感じ取っていたのである。なにしろ、平静に友好的な風をしている満州人も朝鮮人も白系ロシア人も、決して信頼できる相手ではない。出入りしている兵隊の人数やら、注文された野菜の量。はたまたロシア人の売春宿での睦言まで、あらゆるつまらない情報も集められると価値を持つ。

冬になると氷の上を渡って行き来する者もいたという

ソ連に対して重要交通路に突きつけた剣の役割を果たすはずの要塞が、いつしか周りは敵だらけの海に浮いている孤島となってしまっていたわけだ。

ウスリー江の川底には、幾度も謎の電話線が見つかる。となると、機を見るに敏な日本兵は、不安の中でさっさと国境を突破してソ連側へと逃亡する。岡崎によれば、ついには機密書類を持って逃亡した見習士官までいたという。

そして絶望的な戦争へ

1945(昭和20)年になると、ついに要塞の守備兵も次々と引き抜かれ、巨大な要塞に守備兵はわずかに800人となってしまう。さすがに、これでは無理とわかったのか7月には800人が増員され7月30日に編成式が行われる。800人でも補充されただけマシというわけにはいかなかった。そのほとんどが数カ月前に現地召集された訓練もされていない素人なのである。おまけに、速射砲や迫撃砲などの装備も補充されたかと思えば、本土決戦用に移送するから取り外せという命令がでたり……傍観していれば、逃れられない負のスパイラルにはまり、戦う前から負けは決まっていたことはよく見て取れただろう。

しかし、運命からは逃れることはできない。岡崎は、そんな体験を精緻に記している。岡崎が上等兵として虎頭要塞に送り込まれたのは7月のことだった。岡崎は、既に途中の駅で自分の運命を見ている。

肥沃な希望の大地は凄惨な記憶へと変わっていった(国会図書館所蔵『満洲景観:写真帖』より)

国境へ向かう自分たちの列車とは逆方向に、夥しい資財や人員が運ばれていたのである。

こうして8月8日未明に国境を突破し侵攻してきたソ連軍との戦闘は全6章立てのうち3章を用いて記される。

大要塞はあまりにも運に恵まれていなかった。守備隊長・西脇武陸軍大佐は出張中で要塞に戻れなくなり、砲兵隊指揮官・大木正陸軍大尉が守備隊長代理として指揮するという、泥縄ぶり。加えて、要塞にはソ連軍に追われた在留日本人も逃げ込んできて、混乱は極まる。

唯一、記録される華々しい戦果は、試製四十一糎榴弾砲が目論見通りに、国境線の遙かにある迂回鉄橋を砲撃し破壊することができたくらいだろう。その後も戦闘は玉音放送も知らぬまま続き、ソ連側が日本人を使って行った停戦交渉も謀略と拒否。軍使に派遣された日本人も斬り殺して戦闘は続いた。結局、要塞が陥落したのは8月26日。生存者は僅かに50人あまりだったという。

いま改めて考える戦争と平和の価値

「巨大砲」「十倍以上」「二週間」といったエピソードが注目されがちだ。けれども、そうした際立つエピソードよりも、体験者しか至ることのできない心情にこそ、体験を聞くことの本質があると思うのだ。

岡崎もまた、この戦闘を通じて正邪や戦争の是非のような大きなことを語ろうとはしない。ただ、自分がその心中を語るのみである。

開戦初日、主陣地猛虎山にはいりそこねた不運が、かえって私を生き永らえさせた。ソ連軍の戦車砲弾は、私を負傷させることによって、私の運命から死の蓋然性を減少してくれた。その砲弾は危機の最中私を盲目におとしいれたが、必要とともにそれはふたたび開眼した。この二週間は、私の思想と私の生涯との深刻な試練であり、巨大な実験であった。

お題目で唱えるような戦争への賛否は簡単だが、それはあまりにも空虚なものである。文明のはじまりからずっと戦争や内乱、疫病は人類史に大きな変化を与えてきた。いま、我々がおびえるコロナウイルスも数百年後には、その後の人類を変えたなにかとして記録されるのだろう。

リモートワークとかなんとかというものが、やたらと目立つようになり、「新しい生活様式」なんてものが、早々と提示されている。でも、歴史の変化なんて、そんな手軽に思いつくものなのではない。

ドイツの軍人で作家のエルンスト・ユンガーは、第1次世界大戦に従軍し西部戦線での凄惨な体験を通して、戦争の中に巨大な歴史をうねりを見いだした(……と、したり顔で書いているが主著『鋼鉄の嵐の中で』の日本語訳が出ていないのでちゃんと読めてない)。

ボクらもまた、コロナ禍という苛烈な運命に翻弄される不幸の中に、時代の激変に接するという機会に恵まれた幸運を見いだすのだ。

戦争という「過去の悲惨なもの」とされる歴史を学ぶ本質は、そこにあるのだと思う。

 
 

書いた人

編集プロダクションで修業を積み十余年。ルポルタージュやノンフィクションを書いたり、うんちく系記事もちょこちょこ。気になる話題があったらとりあえず現地に行く。昔は馬賊になりたいなんて夢があったけど、ルポライターにはなれたのでまだまだ倒れるまで夢を追いかけたいと思う、今日この頃。