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2020.10.16

夫の責任を負って処刑された戦国武将の妻。見事な最期を遂げた荒木村重の妻・たしの悲劇の顛末とは?

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平成26(2014)年の大河ドラマ『軍師官兵衛』で、桐谷美玲さんが演じて話題となった、荒木村重の妻・たし(ドラマでは「だし」)。
桐谷さんの愛らしさがとても印象的だったのですが、その最期はとても悲しいものでした。

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夫の行動が原因で悲劇に巻き込まれた戦国武将の妻、その物語をご紹介いたします。

荒木村重とは?

摂津の国人領主・池田家の家臣の生まれだった荒木村重は、池田家の内紛に乗じて主君を何度も変えました。

織田信長の家臣となった村重は、やがて有岡城(ありおかじょう)城主となるなど、いくつもの輝かしい武功を挙げます。戦上手で豪胆な性格の村重を信長は重用し、村重は異例ともいえる大出世を果たしたのです。

しかし村重のほうはというと、信長に忠誠は尽くしませんでした。
中国攻めの最中に戦線離脱して籠城をはじめた村重は、再三説得に訪れた黒田孝高(官兵衛)を幽閉、頑として応じなかったのです。

兵糧も尽き始めた籠城10カ月ほど後の天正7(1579)年9月2日夜、村重は5、6人の供のみを従えて城を抜け出し、嫡男・村次(むらつぐ)の尼崎城へ落ちのびます。その2カ月後、重臣たちも信長の出した条件に応えるべく、尼崎城へ向かい、たしをはじめ、妻子のみが有岡城に取り残されました。

村重の行動が招いた惨劇

信長の出した新たな条件も村重は拒否し、ついに人質となっていた有岡城の女性たちの処刑が断行されます。

天正7(1579)年12月13日、尼崎の近くの七松(ななまつ)で、122人が磔(はりつけ)にかけられ、鉄砲・槍・薙刀などで殺害されます。
続いて、女性たちの警護についていた若党124人を含む510人あまりが、家4軒に押し込められて焼き殺されました。

たしの最期

最後に、同年12月16日、荒木村重の身内が京都の市中を引き廻しの上、六条河原で処刑されます。

村重の正室・たしは有名な美人で、「今楊貴妃(いまようきひ)」と呼ばれていたほどだったといいます。

たしは終始毅然とした態度を貫き、護送されていた車から下りると帯を締めなおして髪を高々と結い直し、小袖の襟を後ろへ引いて、見事に首を斬られたと伝わります。
他の妻女たちも皆、これにならって見事な最期を遂げました。

たし、享年21。
村重は「道糞(どうふん)」その後「道薫(どうくん)」を名乗り、茶人として信長の死後も生き続けます。利休七哲の1人に数えられるまでとなった村重は、52歳でこの世を去りました。

浮世絵の元祖ともいわれる江戸時代の絵師、岩佐又兵衛(いわさまたべえ)は、このとき奇跡的に生き延びた村重の子なのですが、それはまた別の機会に。

荒木村重について、以下の記事により詳しい内容が書かれています。
美人妻より「茶壺」を選んだ武将・荒木村重。一族を見捨てひとり生き延びたその価値観とは

アイキャッチ画像:狩野常信『唐美人図』、出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)を改変