Culture
2020.11.02

崩れやすそう…横に張り出した髪型、どうやって作っていたの?お江戸女子の流行ヘアを徹底解剖!

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喜多川歌麿の美人画、女性から見ても素敵ですよね!
ほっそりとした面長の顔、切れ長の目と小さな口元、きめの細かい白い肌。そして、美しく結い上げられた豊かな黒髪……と、当時の美人の条件を余すことなく描いています。
そして、歌麿の美人画で特徴的なのは、サイドの髪をピンと横に張り出させて、内側が透けて見えるようにしたヘアスタイルではないでしょうか? このヘアスタイルは「燈籠鬢(とうろうびん)」と呼ばれ、江戸中期から後期にかけて流行したトレンドヘアなのです!

この記事では、錦絵に描かれた美女のヘアスタイルに注目し、特に、歌麿が美人画に描いたトレンドヘア「燈籠鬢」について紹介します。

黒髪を垂らして魅せるから、結って魅せる時代へ

「黒髪は女の命」とも言われ、日本では古くから「長く艶やかな黒髪」が美人の絶対条件とされています。
長い黒髪を芸術の域にまで高めた日本髪の原型ができたのは、安土桃山時代後期。それ以前は、後ろに長く垂らした 「垂髪(すいはつ)」 や「下げ髪」が女性の主なヘアスタイルでした。

黒髪を後ろに長く垂らす「垂髪」

「垂髪」とは、『源氏物語絵巻』などに登場する貴族女性のヘアスタイルです。
屋敷内で歌を詠んだり香を楽しむ生活を送る平安時代の貴族の女性たち。その肌は白く、自分の身長ほどもある長い黒髪をまっすぐに垂らしていました。長い黒髪と白い肌は美人の条件であり、優雅な暮らしの象徴でもあったのです!

髪を一つに結わう「下げ髪」と「玉結び」アレンジ

一方、庶民の女性たちは、家事や労働の邪魔にならないよう、長い髪を束ねたり、結んだりするようになりました。髪を一本に結んだ髪型は「下げ髪」と呼ばれ、髪を結ぶ位置は、時代が進むにつれて上がっていったと言われています。
「下げ髪」とともに日常的に結われたヘアスタイルが、一本に結んだ髪の先を丸めて折り返し、輪に結んだ「玉結び」です。とても簡単だったので、上流階級から庶民まで広く結われました。

菱川師宣「見返り美人図」 所蔵: 東京国立博物館 ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

「見返り美人図」に描かれた女性のヘアスタイルは、当時、流行していた「玉結び」で、前髪は立てて膨らませた「吹前髪(ふきまえがみ)」です。櫛(くし)は高級品のべっ甲のようです。

日本髪の原型は中国の女性のヘアスタイル?

安土桃山時代になると、徐々に髪が結い上げられるようになりました。

16世紀末(天正頃)から結われはじめたのが「唐輪髷(からわまげ)」です。遊女たちが結いはじめた「唐輪髷」は、中国(=唐)の女性の髷を真似たところから名付けられたヘアスタイルで、日本髪の原型と言われています。
また、「下げ髪」が煩わしい時に笄(こうがい)を使うこともありました。笄は棒状の髪飾りで、笄を髷の中に挿して使うほか、髪をぐるぐると巻きつけて使いました。

江戸時代は、髪の結い方で身元がばれる?

江戸時代は、女性の髪の結い方のバリエーションが数百種類にも及びました。
江戸時代初期、公家や武家階級の女性たちは依然として垂髪でしたが、女歌舞伎や遊女たちが髪を結い始めます。それを庶民がまねするようになり、髪を結うことが広まっていきます。当時は、年齢や職業、地域や身分、未婚・既婚などによって髪の結い方が異なり、ヘアスタイルを見れば、どんな女性なのかがわかったと言われています。

日本髪のポイントは鬢と髱!?

日本髪は、前髪、髷、鬢(びん)、髱(たぼ)の4つのパートに大きく分けられます。
髪の毛を結った部分と頭頂部が髷、顔の両サイドが鬢、襟足あたりの部分が髱で、髱は「つと」とも呼ばれています。鬢と髱は日本髪ならではのもので、時代によって大きくなったり、長く伸びたりと形が変化します。

江戸時代の前半は、髷の形だけがヘアスタイルのバリエーションでした。次第に鬢を大きく横に張り出したり、髱を鳥の尾のような形に後ろに伸ばしたりした技巧的なヘアスタイルが誕生し、流行します。

鈴木春信「青楼美人合」より メトロポリタン美術館
鈴木春信が描く美女は、髱が長く伸びているヘアスタイルが見られます。

ヘアアレンジに欠かせないアイテムは?

こうした日本髪を結うのに欠かせないアイテムが「元結(もとゆい、もっとい)」と「鬢付け油」です。「元結」は細いひも状に撚(よ)った紙で、髪を結うためのもの。伸縮性はありませんが、髪をきつく結うことができます。「鬢付け油」は髪をヘアワックスのように固める整髪料として使われました。

「燈籠鬢」というトレンドヘア

歌麿が美人画に描いた鬢が左右に張り出したヘアスタイルは、「燈籠鬢」と呼ばれています。
「燈籠鬢」という呼び名は、向こう側が透けて見えるところからついたとも、庭の燈籠の笠に似ているところからついたとも言われてます。

喜多川歌麿「姿見七人化粧」 メトロポリタン美術館
寛政前期の江戸三美人の一人、難波屋おきたを描いています。

京都の遊里で誕生した「燈籠鬢」

「燈籠鬢」の流行は宝暦(1751~64年)頃からで、京都で生まれたヘアスタイルと言われています。
江戸後期の風俗の聞き書きをまとめた『寛保延享江府風俗志(かんぽうえいきょうこうふふうぞくし)』には、

夫より京祇園の女子供、とうろうびんとて、つとを少なく、びんを出して、内の透(すく)やうに結し也。亦(また)すきびんとも云(いう)。此姿はやり下りて、江戸にてもそろそろたぼをつめ鬢を出して、左右より鯨の平棒を両方よりさして持たせるなり。

とあります。京祇園の女性や子どもが結っていた、「つと(=髱)」を小さくして鬢を横に出して内が透けるように結う「燈籠鬢」というヘアスタイルが江戸に伝わったことが記されています。

江戸に伝わった「燈籠鬢」は、最初は深川、その後、吉原で流行し、江戸の庶民へも広まりました。当時、錦絵に描かれる遊女たちはファッションリーダーでもあったのです!
喜多川歌麿の描いた大首の美人画の女性の多くが燈籠鬢だったほか、天明から寛政初期(1780年代頃)に描かれた鳥居清長の錦絵の遊女たちの髪型も、ほとんどが燈籠鬢です。

鳥居清長「雛形若菜の初模様」 メトロポリタン美術館

文化(1804~17年)頃になると、「燈籠鬢」はあまり結われなくなりました。「燈籠鬢」は、18世紀後半頃の時代を象徴するトレンドヘアだったのです。

「燈籠鬢」の作り方

ところで、現代のようにヘアアレンジをするための整髪料や道具がなかった時代、美しい燈籠の形はどのようにして作り、保持したのでしょうか?

「燈籠鬢」のサイドの張り出しは、半円形の「鬢さし」を両鬢に通し、上から鬢の毛をかけていって作りました。「鬢さし」とは、鬢を弓形に張るために鯨のひげや柘植(つげ)などを薄くバネのようにして、髪に通して支えたものです。上方では「鬢はり」と呼ばれます。
宝暦(1751~64年)頃に「鬢さし」が考案され、ボリュームのある鬢が結えるようになりました。両鬢に「鬢さし」を入れることで、燈籠のように、毛筋から向こうがうっすらと透けて見えるという繊細で妖艶な芸術的な髪型を作っていたのです!

喜多川歌麿「青楼七小町 玉屋内花紫」 メトロポリタン美術館 

青楼(=吉原)の遊女・花紫は、燈籠鬢に貝髷で、べっ甲の櫛、簪(かんざし)を挿しています。
美しく結われた燈籠鬢が崩れないように、細い白い布で縛って、客に手紙を書こうとしているところでしょうか? 画像をよく見てみると、燈籠鬢の形を維持するため、鬢の右と左に「鬢さし」の先端がわずかにのぞいているのがわかりますか?

歌麿の美人画は、ヘアスタイルにも注目!

江戸時代の錦絵は、当時のトレンドファッションを伝える役割も持っていました。
錦絵からは、当時の流行やトレンドを知ることができます。描かれている美女たちのヘアスタイルも、時代によって移り変わっていることがわかります。

歌麿の美人画と言えば、「毛割(けわり)」という髪の毛1本1本の質感までも再現した彫りの技法や、「八重毛(やえげ)」という生え際の櫛で梳(す)いたように見せる技法が話題になります。もちろん、髪の毛を丁寧に描いた超絶技巧は素晴らしいのですが、当時の最先端のトレンドヘア「燈籠鬢」にも注目してみてはいかがでしょうか?

主な参考文献

  • 『江戸時代の流行と美意識 装いの文化史』 谷田有史、村田孝子監修 三樹書房 2020年2月
  • 『週刊ニッポンの浮世絵 vol.2 喜多川歌麿/見返り美人図』 小学館 2020年10月1日

書いた人

秋田県大仙市出身。大学の実習をきっかけに、公共図書館に興味を持ち、図書館司書になる。元号が変わるのを機に、30年勤めた図書館を退職してフリーに。「日本のことを聞かれたら、『ニッポニカ』(=小学館の百科事典『日本大百科全書』)を調べるように。」という先輩職員の教えは、退職後も励行中。