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2020.11.25

全ては結婚のため?習い事にお手伝い…江戸時代、女子の1日がハードスケジュールすぎるっ!

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ある民間会社の調査によると、小学校6年生の約8割が学習塾を含め、何らかの習い事をしているそうです。
習い事を始めるきっかけや事情は様々で、子ども自身が「仲の良い友達がやっているから、自分も!」と言う場合もあれば、親が「子どもの将来のために」「自分ができなかったから、せめて子どもにだけは……」と習わせる場合も。中には、塾と複数の習い事を掛け持ちする子どももいるそうです。

調査結果を見て、「なんだか、最近の子どもは忙しくて大変そう……」と思ったのですが、江戸時代の少女も、いろいろとやらなくてはいけないことが多くて大変だったようです。
例えば、江戸時代の商家では、娘を行儀見習いの名目で大名や旗本の屋敷に武家奉公に出すことがありましたが、武家奉公をするためには、何か芸を身に付けていることが必須でした。このため、娘たちは踊りや三味線、琴など、様々な芸事を習っており、複数の習い事を掛け持ちしている場合もあったそうです。寺子屋に通って学びながら習い事にも通い、家では習い事のおさらいをして、さらには母親などから家事を仕込まれます。このため、現代の子どももびっくりのハードスケジュールだったのだとか。

それが本当なのかどうか、式亭三馬(しきてい さんば)の滑稽本『浮世風呂』の少女たちの会話を手がかりにして、江戸時代の少女の1日をリサーチしてみました。
(この記事の『浮世風呂』の書き下し文は、岩波書店刊『新日本古典文学大系 86』から引用しています。)

『浮世風呂』で語られる、ある少女の1日

『浮世風呂』は、文化6(1809)年から文化10(1813)年にかけて刊行されました。江戸の町人の日常生活を取材し、庶民の社交場であった銭湯を舞台に、主に会話によって人物の言動の滑稽さを描写した作品です。
『浮世風呂』の三編巻之上に、10~11歳くらいのお丸(まる)とお角(かく)という二人の少女が銭湯の脱衣場で話をしている様子が掲載されています。「としのころ十か十一ばかりの小娘こましゃくれた形(なり)にて二人きものを着ながらはなすをきけば」とあるので、大人びた様子の、ちょっと小生意気な少女たちのようです。お角の家には「高い屋根の蔵がある」そうなので、二人とも商家の娘ではないかと思われます。

わたしのおッかさんは、きついから、むせうとお叱りだよ。まアお聴(きき)な。 朝むつくりと起(おき)ると手習のお師(し)さんへ行(いっ)てお座を出して来て、 夫(それ)から三味線のお師さんの所へ朝稽古にまゐつてね。 内へ帰つて朝飯(あさまんま)をたべて踊の稽古からお手習へ廻つて、お八ツに下ツてから湯へ行て参ると、 直ぐにお琴の御師匠さんへ行て、夫から帰って三味線や踊のおさらひさ。
其内(そのうち)に、 ちイツとばかりあすんでね。日が暮(くれ)ると又琴のおさらひさ。 夫だから、さっぱり遊ぶ隙がないから、否(いや)で否でならないわな。

お角は、朝起きると、まず寺子屋へ行って机を並べます。寺子屋では、手習が終わると机を一か所に積み重ねて片付けて、翌朝、当番の子どもが並べるという規則がありました。
その後、三味線の朝稽古に行きます。家に戻って朝食をとり、踊りの稽古に行ってから寺子屋へ。
午後2時頃に寺子屋から帰ると、おやつを食べてから銭湯へ行き、その後は琴の稽古。家に戻ると、三味線や踊りのおさらいをします。途中でちょっと遊んで、夕方からは琴のおさらい。
三味線、踊り、琴の3つの習い事をしているお角は、「お稽古が休みになるのが最高」「遊ぶ暇がなくて、嫌で嫌でたまらない……」などと言っていています。

『浮世風呂』は小説の一種なので、誇張されたりパロディ化された表現があるにしても、お角の1日はなかなかハードなスケジュールであることがわかります。

習い事に熱心だった江戸の教育ママ。その理由は?

お角とお丸の二人は、自分たちの母親のことも話しています。二人の母親はどのような母親なのか、見ていきましょう。

五雲亭貞秀「出世娘栄寿古録」 国立国会図書館デジタルコレクション

画像の「出世娘栄寿古録」は女の子が産まれてから、手習に行ったり、技芸を習ったり、針仕事を覚えたり、武家奉公をしたり、お見合いをして結婚をしたりと、女の子の人生のあれこれが描かれた双六です。

▼双六に関する記事はこちら!
ゴールは玉の輿!?江戸時代の女性向け「すごろく」がおもしろいっ!

お角の母親の場合

江戸時代の娘の教育は母親の責任でしたが、お角の母親はかなりの教育ママのようです。

おつかさんは幼(ちいさ)い時からむしつ(無筆)とやらでね、字はさつぱりお知(しり)でないはな。あのネ、山だの、海だのある所の遠(とおヲく)の方でお産(うまれ)だから、お三絃(しゃむせん)や何角(なにか)もお知(しり)でないのさ。夫(それ)だから、せめてあれには、芸を仕込(しこま)ねへぢやアなりませんと、おツかさん一人でじやじやばってお出(いで)だよ。

お角の母親は、江戸ではなく地方(=山や海のある所)の生まれで、読み書きができず、三味線などもひけないようです。自分が苦労をしてきたからか、「せめて娘には自分がしてきた苦労をさせたくない」と、いろいろ口うるさく言って、習い事をさせているようです。
お角の父親は、「そんなにうるさくお言いでない。放っておいても覚えるから」と、娘に甘いようですが、母親は「娘の教育は、母親の役目です。甘やかさないでください。あなたがそういうことを言うから、娘が甘えて私の言うことを聞かないのです」などと言っています。

お角は、そんな母親のことを生意気にも「おっかさんは、わがままなんだから……」なんて言っていますが、母親にしてみれば娘のためを思ってやっていること。傍から見れば、どちらの言い分もわかりますが、遊びたいさかりのお角にとっては、習い事が多すぎて大変なのでしょう。娘の教育に対する父親と母親の考え方の違いも、なんだか現代とそっくりですね。

お丸の母親の場合

一方、お丸の母親は、武家奉公の経験者。7歳の時、踊りができたことで武家奉公をしたようです。

わつちのおツかさんは何でも知(しっ)てお出(いで)だから、些(ちっと)でも三絃の弾様(ひきよう)が違ふと直(じき)にお叱りだよ。わたしのおツかさんは七(ななつ)の歳に、踊(おどり)でお屋敷へお上りだと。それだからね、地赤だの地白だの地黒だの紫縮緬(むらさきちりめん)の裾模様だの、惣模様だの大振袖だの、帯は黒天鵞絨(びろうど)のや、厚板のや、何角(なアにか)を、お長持(ながもち)に入(いれ)て、たアんと持(もっ)てお下(さが)りだけど、わたしのおとつさんがどうらくだからネ、皆(みんな)お亡(なくし)だとさ。

お丸の母親は、踊りだけではなく三味線もできるようで、お丸が三味線のおさらいをしていると、母親から「ひき方が違う!」と直されることもあるのだとか。

お丸の母親が武家奉公をやめて実家に帰ったのは、おそらく、結婚のためだと思われます。その時に、元日に着る地赤の着物、3月3日に着る地白の着物、9月9日に着る地黒の着物だけではなく、紫縮緬の裾模様の着物、総模様の着物、黒ビロードの帯、厚地の絹織物の帯など、たくさんの着物や帯を長持という長方形の木箱に入れて家に持ち帰ったものの、お丸の父親が放蕩者だったために、「着物も帯も全部なくなってしまった」のだとか。お丸は祖母から聞かされた話を、お角に話して聞かせます。

芸は身を助ける? 娘たちに芸事を習わせるワケ

当時は、手に職を持つとともに、教養を身に付けることが出世の大きな武器になることが広く認識されていました。特に、江戸のような都市部では女子の教育に熱心で、庶民だけではなく武家も娘に行儀作法をしつけるほか、書道、歌道、香道、茶道などの教養や琴や鼓、三味線、踊りなどの芸事を習わせました。

娘に習い事をさせるのは、武家奉公ができるようにするため。裕福な農家や商家の娘たちの武家奉公は、花嫁修業であり、娘の栄達の登竜門でもありました。武家奉公で箔を付ければ、嫁ぎ先も好条件になるうえ、武家のお眼鏡にかなえば玉の輿も夢ではなかったのです!

一勇斎国芳「娘御目見図」 国立国会図書館デジタルコレクション

多くの場合は、結婚を機に武家奉公を辞めましたが、その際、着物や帯など、奉公でのいただきものを持ち帰ることもできました。

もちろん、家のお手伝いも必須

お丸自身は、手習に行く以外の習い事は三味線だけの様子。その代わりに裁縫をよく覚えるよう祖母に言われており、「先日は着物の破れを継ぎました」と自慢すれば、お角も負けじと「この間は、人形の着物を二つも縫いました」と言い返します。

江戸の町人の女性は、衣類をはじめ身の回りのものは全部自分で縫っていました。このため、裁縫は女の嗜(たしな)みとされており、母や姉などから針仕事を習っていました。また、家計や家事、女中の管理などの奥向きのことは主婦の責任なので、娘たちは母親の手伝いをしながら、家庭の切り盛りを覚えたのです。

ところで、寺子屋ってどういうもの?

お角とお丸は寺子屋にも通っています。
寺子屋とは、子どもたちに文字の読み・書きを教える庶民の教育施設のことです。江戸はもちろん、全国の町や村にあり、幕末頃には全国に15000以上あったと言われています。この寺子屋が、江戸時代の人々の高い識字率を支えていました。
寺子屋の先生を「師匠」、寺子屋に通う子どもたちを「寺子」と呼び、男児の場合は20~60人程度、女児では10~20人ほどの寺子屋が多かったと言われています。

一勇斎国芳「幼童席書会」 国立国会図書館デジタルコレクション
「席書会(せきしょかい)」とは、書道の発表会のようなものです。

入門の時期はいつ? 入学金は必要?

寺子屋には、だいたい6~13歳の子どもが通っていました。寺子屋の入門は、2月の最初の午の日、「初午(はつうま)」の日から通うことが多かったそうです。
入門する時は、父親か母親が子どもを連れていき、師匠に挨拶しました。一般的に寺子屋に通う場合は師匠に、入門料である「束脩(そくしゅう)」と授業料である「謝儀(しゃぎ)」を納めましたが、金額には明確な決まりはなく、庶民でも気軽に寺子屋に通わせることができたと言われています。
また、文机などの寺子屋で使う道具一式を持っていきました。

寺子屋では何を教えていたの?

授業時間は、寺子屋によっても異なっていたようですが、だいたい四ツ(午前10時)から八ツ(午後2時)まででした。
「読み書き算盤(そろばん)」を習うのが基本でしたが、寺子屋の師匠は職業別、年齢別に教科書を与えて教えました。例えば、商人の子どもが多い地域では、そろばんを教える寺子屋もあり、寺子屋では職業や生活に必要な知識・技能・道徳を学習していたのです。
江戸のような都市では、「読み書き算盤」の基本的学習のほか、手紙の書き方や和歌、琴、茶道、生け花、裁縫などの女子のための教養を教える寺子屋もありました。

鈴木春信「五常 智」 シカゴ美術館

基礎的な教養や習字の習得のために寺子屋で使われた教科書を総称して「往来物(おうらいもの)」と言います。庶民の文化と生活の発達、寺子屋の普及に伴い、『商売往来』『百姓往来』『職人往来』など、多種多様のものが作られ、その数は 3000種をこえたと言われています。

江戸時代の寺子屋は、生徒は必ずしも先生の方を向いて座るわけではなく、教科書も、生徒たちの年齢もばらばら、出席するのも欠席するのも自由でした。とはいえ、寺子屋では、道徳や行儀、礼法などについても厳しく指導しており、いたずらがあまりにも過ぎると立たされる、正座させられるなどの罰則規定もあったようです。

寺子屋の師匠になるには、資格は必要?

寺子屋の師匠になるには特に資格は必要というわけではなく、僧侶、書家、神官、医者、浪人などで、多くは男性でした。都市部、特に江戸では女性の師匠もいました。農村では、寺子屋に対する謝礼が少なく、しかも貨幣ではなく自家の農作物などの場合が少なくなかったので、村方三役と言われる名主・組頭・百姓代の村役人が損益を度外視して寺子屋を営むこともありました。
師匠たちは、寺子屋に学びにやってくる子どもたち一人ひとりの親の職業や本人の希望を考え、それぞれにあったカリキュラムを作る個別教育を行っていました。

ヒソヒソ話もおしゃれもアイドルも。いつの時代も、女の子の好きなものは同じ?

二人は、銭湯に来ている女性についても、「あのおばさんは子どもが3人もいるのに若作りしている」「あちらのおばさんは、白髪染めで髪が薄くなっているのを隠している」とか、ヒソヒソ話をします。
そして、お丸は「流行の路考茶(ろこうちゃ)に普段着の着物を染めてもらった」とか、お角は「半四郎鹿子(はんしろうがのこ)がステキ!」だとかおしゃれの話をしながら、「後で、百人一首の歌カルタで遊びましょう」と約束して出ていきます。

お丸が着物を染めてもらった路考茶という色は、江戸歌舞伎最高の女形と評された二代目瀬川菊之丞が好んで用いた茶色のこと。菊之丞の俳名が「路考」であることから、この名がつきました。ややくすんだ渋みのある茶色で、江戸時代の女性たちの間で流行した色ですが、お丸のような少女の着物としては、あまりにも渋すぎる色のような気もしますが……。大人っぽいものに憧れるお年頃なのでしょうか?
また、麻の葉模様を鹿の子で染めた「麻の葉鹿の子」のうち、歌舞伎の女形・五代目岩井半四郎が好んだ浅葱色(あさぎいろ)のものが「半四郎鹿子」と呼ばれ、流行しました。
二人の少女は、流行のおしゃれにも興味深々のようです。

渓斎英泉「英泉并英山錦絵」 国立国会図書館デジタルコレクション

平均的な商家の娘は、季節ごとに物見遊山に行き、芝居見物にも行きました。裕福な家の娘であれば、芝居の演(だ)し物が替わるごとに連れてもらっていたようです。

少女のハードなスケジュールのゴールは結婚?

『浮世風呂』に登場する二人の少女は、私たちが思っていた以上にハードな毎日のスケジュールをこなしつつも、おしゃれにも、当時のアイドルである歌舞伎役者にも興味深々な様子。
商家の娘は、店先に出て客の対応をすることはなかったそうですが、実は、そんなことをしている暇もなかいくらい忙しかったことが理由でした。母親たちは、芸を身につけて武家奉公がかなえば良縁にも恵まれるだろうと、娘たちをけしかけました。商家の場合、息子には跡を継がせず、娘を手堅い奉公人と結婚させる「婿取り婚」も少なくなかったようですが、娘を立派に育てて、少しでも条件の良い家に嫁がせることが母親としての大きな務めであり、希望でもあったのです。

江戸時代の少女たちがハードスケジュールだったかどうかを調べてみて、少女たちが習い事を掛け持ちしているのも、「娘のために」と思う母親の気持ちも、江戸時代も現代も変わらないように思ったのですが、いかがでしょうか?

主な参考文献

書いた人

秋田県大仙市出身。大学の実習をきっかけに、公共図書館に興味を持ち、図書館司書になる。元号が変わるのを機に、30年勤めた図書館を退職してフリーに。「日本のことを聞かれたら、『ニッポニカ』(=小学館の百科事典『日本大百科全書』)を調べるように。」という先輩職員の教えは、退職後も励行中。

この記事に合いの手する人

大学で源氏物語を専攻していた。が、この話をしても「へーそうなんだ」以上の会話が生まれたことはないので、わざわざ誰かに話すことはない。学生時代は茶道や華道、歌舞伎などの日本文化を楽しんでいたものの、子育てに追われる今残ったのは小さな茶箱のみ。旅行によく出かけ、好きな場所は海辺のリゾート地。

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