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2020.12.23

曾祖父は「君が代」を制定していない。日露戦争の総司令官、大山巌に関するウソ・ホント

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日露戦争で日本軍を率いたことで知られる大山巌は、歴史の教科書に載ったり載らなかったりで、いまひとつ著名とも言い難いところじゃないかと思います。学校で教わる歴史の授業は、近代まで行かずに時間切れになったり、近代を教わるころには受験シーズンの到来で学校の授業そっちのけで入試対策をしていたりしますから、明治以降の歴史を学校できちんと教わっていない人が多いようですね。私もそうでした。そのせいか、明治以後に活躍した大山巌のことも、小説やドラマをきっかけに知った人が大半のようです。いってしまえば小説やドラマは「つくり話」なので、本当の人物像は違うのになぁ、と、思わせられることも多々あります。

かく申すワタクシは、大山巌の曾孫でありまして、また、30年近く歴史雑誌に記事を書いてメシを喰っておりまして、キチンと調べて歴史を書くことをモットーとしております。webメディアで仕事をした経験はございませんが、縁あってコチラ様に書かせていただくことになりました。いろいろ勝手が違うところもございましょうが、キチンと調べて書くという基本線は踏襲して参ります。

それはさておき、今回は大山巌についてのウソ・ホントを、キチンと調べて書いていきます。

アイキャッチ画像:近世名士写真.其1「大山巌」出典 国立国会図書館

西郷隆盛と従兄弟だった

ホントです。

大山巌の父である大山綱昌は西郷家から迎えた養子で、西郷隆盛の叔父にあたります。お互いの家はすぐ近所で、鹿児島城下の下加治屋方限という下級武士たちが住む区域で生まれ育ちました。当時の鹿児島城下では「郷中」と呼ばれる、ボーイスカウトに類似した一種の社会教育の仕組みがありました。大山巌の伝記である『元帥公爵大山巌』(大山元帥伝刊行会編)によると、

「相共に文武を励み、士道を磨き、以て有事の日に備へた」

とのことで、大山巌の幼少期には西郷隆盛が下加治屋方限の郷中頭として地域の少年らを指導していました。そしてそのなかから西郷従道、東郷平八郎、黒木為禎といった、大物軍人を何人も輩出しています。

近世名士写真.其1「西郷隆盛」出典 国立国会図書館

不幸にして、明治10年の西南戦争では、かつて下加治屋方限の郷中で少年時代を共にした同士が敵味方に分かれてしまいました。薩軍を率いる西郷隆盛に対し、大山巌は政府側の軍人として戦場に臨みます。死闘のすえに薩軍は敗れ去り、西郷隆盛は自決。大山巌は生き残りましたが、そのあと公務以外で鹿児島を訪れたことはありません。肉親や親友をも敵に回して戦ったことで、心に深い傷を負ったからでした。青年時代の大山巌は、西郷隆盛という血縁を持つ指導者とともに故郷をも失ったのでした。

ボンヤリした軍司令官だった

ウソとも言い切れないが、ホントではありません。

若い頃に大砲を開発する技術者を目指していたくらいで、もともと大山巌は数学や物理学を得意とする、どちらかといえば細かい人だったようです。国立国会図書館の憲政資料室には、大山巌の日記やノート、メモ帳などが保管されていて、一部はインターネットで公開されています。

大山巌「従軍日記」出典元:国立国会図書館

日々の報告にも使う日記はともかくとして、ノートやメモ帳は、書きかけて止めてしまった跡が窺われるものが多いです。私が想像するところでは、自分のやることに対して完璧主義が行き過ぎていて、なにか小さな躓きで心が折れてしまうからかと思います。曾孫である私のなかにも、そういう部分がありますからね。

自分に対して厳しいのは、行き過ぎでなければ悪いことでもないでしょうが、大山巌の場合は、大砲を開発するという初心を貫けなかったところを見ると、行き過ぎだったように思います。技術者としての実績は既にある大砲を改良しただけで、新規の開発設計には至りませんでした。

世間から「茫洋たる大器」などと評されたのは、日露戦争で総司令官という地位にあったときです。その頃は60代で、年齢相応に鷹揚な人柄を演じるだけの腹芸を身につけていたのです。

軍隊の指揮官は部下から上がってくる正規の報告以外に情報源を確保していることが多いです。総司令官だった大山巌も、総参謀長の児玉源太郎から正規の報告を受けるほかに、総司令部の諜報担当だった福島安正から、正式な手順を踏まずコッソリと高度な機密情報を得ていた様子が、当時の日記から窺えます。そこからすると、作戦会議の席上「きょうは何処で戦がごわすか」と、冗談をいってみせたのも、本音は「俺のところに報告がこないぞ」と、部下たちに警句を発したのではないでしょうか。きっと、その場に乾いた笑い声が響いていたことと思います。そして、身に覚えのある面々は、背筋を凍らせていたことでしょう。

司令官ともなると、そういう場面で部下を叱責したり面罵する人もいますが、諧謔を含めつつ部下を圧迫するのが大山流だったようです。私の祖父である大山巌の息子が「戦争中、総司令官として一番苦しかったことは何ですか」と尋ねると、大山巌は「知っちょっても知らぬふりすることよ」と答えています。二重三重に情報を得ていたけれど、正規の報告があがってくるまでは知らないふりをしていたことがわかります。

大山巌の銅像は敗戦後も撤去されなかった

大ウソです。

もともと大山巌の銅像は、三宅坂交叉点に近いところに設置されていましたが、戦時中だった昭和18年、金属供出令によって撤去されています。明治時代には現在の国会前庭地区に陸軍参謀本部がありましたので、三宅坂は大山巌にとってゆかりの地でした。銅像が設置されていたもとの場所は、現在の国会前庭地区に接する首都高速道路上で、工事で地盤が深く削り取られていて、空中になっています。

撤去された銅像は、どういう事情があったかは存じませんが、戦後になってから上野の東京芸術大学の構内で横倒しになっているのが発見されました。美術品としては著名な彫刻家である新海竹太郎の傑作ですから、溶かすのはもったいないと思われていたのでしょう。放置されていた銅像が九段坂に再建されたのが昭和39年頃でした。私がごく幼いときでしたが、除幕式に列席させられたことは記憶しています。

再建には、多くの人の様々な御協力があったと聞いています。九段の大山巌像は再設置ですから、占領軍のマッカーサー元帥が撤去をやめさせたという俗説は事実無根のことです。マッカーサーが連合国軍最高司令官として日本に乗り込んできたとき、すでに銅像は金属供出令によって撤去されていましたからね。マッカーサーが大山巌を尊敬していたということについては、まるで根拠が無いわけでもない。あるときマッカーサーは祖父に電話をかけてきて「大山巌を軍人として尊敬している」と告げたと、大山家に伝わっています。ですが、これも絶対にホントだとは言い切れません。祖父はドイツ語が得意で英語はダメでした。電話は途中からドイツ語を話せる女性秘書にかわってもらったとのことで、マッカーサーが直々にいったことを聞いたのではありません。だとすると、秘書が気を利かせてリップサービスしたのかもしれませんからね。

君が代を国歌として制定した

ウソです。

ときに明治3年9月8日(まだ旧暦でした)のこと、東京は越中島で、暴風雨のなか御親兵の操練を明治天皇さまが御覧になる閲兵がおこなわれました。あいにく暴風雨が東京を襲いましたけれども、軍隊は悪天候を理由に行事を中止したりはしません。なにしろ戦場では「暴風雨になったから休戦しましょう」とはいえませんから。でも、このときは事前にとりやめてもおかしくなかったのです。どんな暴風雨かというと、家屋が潰れるほどでした。そんななかで天皇さまも御乗馬で、ずぶ濡れになりながらの御臨席でしたし、やむなく行事を中断して還幸あそばされる際には、潰れた家屋の下敷きになるのを間一髪で免れました。

その行幸に際して、国歌「君が代」がはじめて演奏されています。それまで日本には国歌がなく、急遽制定されたのでした。国歌制定に関する、大山巌の談話筆記によると

頃は明治三年の末、もしくは四年の始めなりしならん。薩長其他より御親兵を出した後、未だ久しからざる時であつた。自分は薩藩から出た砲兵の隊長を勤めて居た時分の時の事である。外国の陸海軍には各々軍楽隊と云ふものがあるに我国は此頃まで、まだ、其れが無かつたから、新たに之を置かねばならぬと云ふので、年齢十六七歳ばかりの青年二三十名を選んで横浜に遣り、同時在留の英国軍楽隊に就き練習せしめた。

其時、英国の楽長某(姓名を記憶せず)が、「欧米各国には皆国々に国歌と云ふものが有つて総ての儀式の時に其楽を奏するが、貴国にも有るか」と、我が一青年に問ふた。青年が是に答へて、「無い」と云ふたれば楽長の曰く、「其れは貴国に取りて甚だ欠点である、足下宜しく先輩に就いて国歌ともなるべき歌を作製することを依頼すべし、然らば予は之に作譜し然る後其歌より教授を始むべし」と。

此の談示を受けた青年は、薩藩より出た江川与五郎と云ふ軍楽練習生で在つたが、早速自分の許に来て此話を伝へた。

当時御親兵の大隊長は野津鎮雄で、薩藩より東上して居た少参事に大迫某と云ふ人が居たが、此江川与五郎の来た時、適々野津大迫両人が来合はして居て、共に其話を聴き、成る程我国にはまだ国歌と云ふものが無い、遺憾な事だが、是れは新たに作るよりも古歌から択らび出す可きであると云つた。英国の国歌「神よ我君を護れ」と云ふ歌がある。我国の国歌としては宜しく宝祚の隆昌天壌無窮ならむことを祈り奉れる歌を撰むべきであると云ひて平素愛誦する「君か代」の歌を提出した。之を聞いた野津
も大迫も、実に然りと早速同意したから、之を江川に授けて、其師事する所の英国の楽長に示した。

自分の記憶する所の事実は右の通りである。其後如何なる手続を経て国歌を御制定に為りしか、其辺の事は承知して居らぬ。
『元帥大山巌:日露戦役二十五年記念』p42-44

つまり、国歌の候補として「君が代」を推した人たちが何人かいるなかの一人が大山巌だったということなのです。その時期は普仏戦争観戦の辞令が出たあたりで、日記によると明治3年8月26日に横浜で野津鎮雄、大迫貞清と同宿しています。その際に軍楽練習生たちから相談が持ち込まれたのでしょう。そして、その足で大山巌はフランスまで行ってしまうので「其後如何なる手続を経て国歌を御制定に為りしか、其辺の事は承知して居らぬ」というのは当然のことなのです。

もし、大山巌が「自分こそが国歌を制定したのだ」と自認していたなら、自慢話のひとつくらい家に伝わっていても良さそうなのに、なにも伝わっておりません。

後編「大反対をよそに恋愛結婚。陸軍大将・大山巌の結婚生活は幸福だったか?」はこちらから

書いた人

1960年東京生まれ。日本大学文理学部史学科から大学院に進むも修士までで挫折して、月給取りで生活しつつ歴史同人・日本史探偵団を立ち上げた。架空戦記作家の佐藤大輔(故人)の後押しを得て物書きに転身、歴史ライターとして現在に至る。得意分野は幕末維新史と明治史で、特に戊辰戦争には詳しい。靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修をつとめた。