Culture
2021.02.16

文化人版「トキワ荘」には鬼が棲む?竹久夢二、谷崎潤一郎も愛した菊富士ホテル

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令和2(2020)年のキーワードの一つは“鬼”ではなかっただろうか。ご存じのように『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴作・画 集英社刊)に子どもから大人まで幅広い世代が夢中になり、一大ブームを巻き起こした。劇場版「鬼滅の刃」無限列車編は興行収入300億円を優に超え、国内興行収入のトップとなっている。

鬼滅の刃ブームは本当にすごい!

ところで、大正から昭和のはじめにかけて、東京の本郷菊坂に「鬼の栖(すみか)」と呼ばれたホテルがあったのをご存じだろうか。

聞いたことありませんでした。鬼……!?

鬼と言っても宿泊者たちはモンスターでもなければ幽霊でもない。れっきとした人間であった。ただし、その多くは歴史に名を残すような鬼才と呼ばれる文豪や画家、詩人、思想家たちだった。瀬戸内晴美(現・瀬戸内寂聴)はそのホテルを舞台に『鬼の栖』という小説を書いている。ホテルの名は「菊富士ホテル」といった。

あ、そっちの鬼か!

文化人版「トキワ荘」だった菊富士ホテル

当初は外国人向けのホテルとしてスタートした菊富士ホテルだったが、後に長期滞在客が止宿する高等下宿になった。下宿はアパートやマンションと異なり、基本的に大家さんも一緒の建物に住み、食事もまかない付きといって大家さんがつくってくれるし、風呂やトイレは共同。学生時代、青山学院大学に通っていた高校の同級生が、二子玉川の辺りの下宿屋にいて一度遊びに行ったことがあった。壁が薄くて隣の部屋の物音がまる聞こえ。時々男友達が訪ねてきて色っぽい声が聞こえて困ると、彼女は言っていた。

あ~……それは困りますね……。

同ホテルの開業は大正3(1914)年。煉瓦と御影石が彩るエキゾチックな雰囲気の漂う洋館で、屋根の真ん中にはイルミネーションが飾り付けられ、玄関にはフロント、帳場には電話交換台。浴室にはバスタブとシャワーが取り付けられ、高額で雇われた西洋料理のコックもいた。地下1F地上3F、総部屋数50室。南端の屋上には「塔の部屋」と呼ばれる部屋があり、その先端には避雷針がついていた。

おしゃれ!

宿賃は1泊2食付きで1円50銭。1カ月も宿泊すれば40円を超えてしまう。当時の中堅サラリーマンの月給が3、40円だったというからこれはけっこうな金額であった。昭和19(1944)年に終業。同20(1945)年の東京大空襲で焼失した。

残念。見てみたかったなあ。

歴史としてはわずか30年だが、この間、止宿した下宿人は思想家の大杉栄、伊藤野枝、画家の竹久夢二、文豪・谷崎潤一郎、石川淳、宇野千代、直木三十五、中条(宮本)百合子、坂口安吾、6年間居住した宇野浩二、10年居ついた広津和郎etc。俳優や政治家、外国人学者などもいて、よくもまあ、そんなにひとくせもふたくせもありそうな才人ばかり集まったものだと感心する。まるで文化人版「トキワ荘」だ。

と、とんでもないメンバーだ!

文京区本郷5丁目にある「菊富士ホテル跡碑」。長谷川徳三氏が発起人となり、昭和52(1977)年、同ホテルの3人の息子たち(羽根田冨士雄・孝夫・武夫)によって、主な止宿者の名が刻まれた碑が建てられた。「文京ふるさと歴史館」提供

菊富士ホテルの文化人たちのドラマやエピソードは『本郷菊富士ホテル』(近藤富枝著 中公文庫刊)や『鬼の宿帖』(羽根田武夫著 文化出版局)、そして先ほど挙げた『鬼の栖』(瀬戸内晴美著 角川文庫)に詳しい。近藤富枝の叔母は菊富士ホテルの長男・冨士雄と結婚しており、彼女は創業者一族とは縁戚関係にあった。元NHKのアナウンサーで文筆家。瀬戸内晴美とは友人だった。羽根田武夫は同ホテルの三男。カメラマンなどを経て実業家に転身。「石亭グループ」を創始した。

「菊富士ホテル」を彩った鬼才たち

ごく一部であるが、ここで、菊富士ホテルに止宿した鬼才たちを紹介しよう。

大杉栄(31歳)と伊藤野枝(いとう のえ)(21歳) 理想は“フリーラブ”

アナキスト(無政府主義者)の大立者であった大杉栄と女性運動家で婦人雑誌『青鞜(せいとう)』の編集者でもあった伊藤野枝は、宿賃不払いでそれまでいた下宿にいられなくなり、友人であった大石七分(おおいし しちぶん)の紹介で、大正5(1916)年の10月5日に菊富士ホテルにやってきた。大杉はたいへんな子ども好きで、ホテルの子どもたちとたちまち仲良しになってしまった。大杉を見張るためにやってきた刑事たちもまた、子どもたちやホテルの人間となじみになってしまったというから、それも菊富士ホテルの持つ不思議な魅力ゆえだろうか…

ぎすぎすしているはずの場所なのに、ほのぼのな光景になってしまった……!菊富士ホテル、恐るべし。

「日陰茶屋事件」が起きたのは、二人が菊富士ホテルに来て1カ月ほど経った頃だった。大杉が外出先の葉山で、恋愛関係にあった神近市子(かみちか いちこ)に刺されて大ケガをしたのである。当時、大杉には野枝と神近、そして妻の堀保子がいた。“フリーラブ”という自由恋愛主義を唱えていた大杉だったが、女性たちの心中は決して穏やかではなかったのである。

ともあれ、大杉は一命をとりとめた。退院して野枝の肩にすがりながら痛々しい姿で戻って来た彼を、ホテルの人々は総出で出迎えたという。経済的に困窮していた二人は宿賃を払うことができず、野枝は帯まで質に入れた。しかし、大杉の体を気遣って牛乳や牛肉を注文し、それらはすべてホテルの立替払いだった。この後二人は宿賃を払うことなく、別の下宿に移っていった。宿賃は後に二人を菊富士ホテルに紹介した友人の大石七分(おおいし しちぶん)が代わって支払った。

いったいどのくらいの金額になっていたのでしょうか……。

神近市子は東京日日新聞の記者。「日陰茶屋事件」で懲役2年の判決を受け、出所後は『女人芸術』『婦人文芸』の創刊に参加。戦後は衆議院議員となる 国立国会図書館デジタルコレクション 近代日本人の肖像

二人が菊富士ホテルを去って7年後の大正12(1923)年9月、関東大震災のどさくさに紛れて、二人は遊びに来ていた大杉の甥の橘宗一(6歳)とともに憲兵隊に拉致され、殺された。

夢二の名作『黒船屋』は菊富士ホテルで描かれた

竹久夢二が菊富士ホテルに入居したのは、大正7(1918)年11月。彼は7歳の次男不二彦を連れていた。当時、夢二は失意のどん底にあった。京都で一緒に暮らしていた恋人の笠井彦乃が旅先で喀血して入院。二人の恋愛に反対していた彦乃の父・宗重によって仲を引き裂かれ、心の傷が癒えぬまま、東京に戻ってきたのである。夢二が開いた絵草子屋「港屋」に足繁く通っていた彦乃は夢二に絵の指導を願い出、彼の勧めで女子美に編入。恋愛関係となる。彦乃は夢二にとって最愛の女性であり、創作意欲を掻き立てるすばらしいモデルでもあった。後に東京の順天堂医院に転院。大正9(1920)年、永眠する。

魂の抜け殻のようになっていた夢二だったが、菊富士ホテルに止宿してまもなくお葉と出会う。お葉―本名は永井兼代(佐々木カ子ヨ)。秋田出身で上京してからは東京美術学校でモデルをしていた。藤島武二の『芳蕙(ほうけい)』(現在所在不明)はお葉をモデルに描かれたものである。水を得た魚のように夢二は再び創作意欲を沸き立たせ、菊富士ホテルの40番の部屋で代表作『黒船屋』を描き上げた。

彦乃の面影とお葉の姿とオーバーラップした作品である。近藤富枝著『本郷菊富士ホテル』中公文庫

夢二は大正10(1921)年7月にホテルを出てお葉と所帯を持つが、結婚は長くは続かなかった。菊富士ホテルを出るとき、夢二はお葉をモデルにした油絵を残していったが、これは後に三男武夫の所有になった。夢二がホテルに残していった山のような下書きの絵は、すべて風呂の焚きつけになってしまったとのこと!

うわあああ、なんという……。

竹久夢二肖像写真(マンドリンを弾く夢二) 「竹久夢二美術館」提供

文京区にある「竹久夢二美術館」は夢二の作品および関連資料約3300点を所蔵し、年4回の企画展を開催している。また創設者の鹿野琢見(かの たくみ)は格別菊富士ホテルに思い入れがあり、建物は在りし日の菊富士ホテルをほうふつとさせる。

菊富士ホテルで原稿を執筆した文豪・谷崎潤一郎

処女作の戯曲『誕生』や小説『刺青』に始まり、『春琴抄』や『細雪(ささめゆき)』など生涯に多くの作品を残した文豪・谷崎潤一郎も菊富士ホテルに止宿し、原稿を執筆した一人である。大正8(1919)年頃のことだ。2月に父が亡くなって本郷曙町に移ったが、妻子のほかに弟妹も一緒に住んでいたため、家では落ち着いて原稿が書けず、何回か菊富士ホテルを利用した。12月に小田原に移ってからも、上京する時の宿にしていたという。竹久夢二がいた頃で、部屋も近かった。画家と小説家だったので交流はほとんどなかったかと思ったが、「竹久夢二美術館」学芸員の中川さんによれば、菊富士ホテル時代に谷崎と一緒に「カルタ遊びをしたことがあった」と夢二が書いた文章が残っているとのことだ。

本当に居心地が良かったんだろうなあ。

谷崎は当時33歳。すでに文壇デビューを果たし、佐藤春夫や芥川龍之介らと親交を深めていた。佐藤とは後に妻の千代をめぐる「細君譲渡事件」に発展するが、この頃すでに千代の妹・せい子と関係を持っていた。文豪・谷崎もまた、心中の鬼と闘っていた一人であった。

谷崎潤一郎  「芦屋市谷崎潤一郎記念館」提供

新時代の生き方を求めて岐阜から東京に出た羽根田夫妻

数々のドラマを秘めた菊富士ホテルは、誰によって建てられたのか。

創業者は現在の岐阜県大垣市出身の羽根田幸之助・菊江(きくえ)夫妻である。幸之助の出身地である同市平町(ひらまち)は大垣市の東端にあり、揖斐川を挟んで東西に分かれている。羽根田家は平村では百姓代(村方三役の一つで、名主の監視をする百姓)を務めるほどの名家(名主だったという説もあり)で、近年まで開業医であった。

幸之助は安政6(1859)年3月、羽根田家の次男坊として生まれた。37歳で上京するまで次々に仕事を変え、焼物の卸をしていたと思ったら名古屋の料理屋の帳場にちゃっかりと座っていたり、とにかく腰が落ち着かなくて多分にヤマッ気の多い男だったが、従来の慣習にとらわれることなく、チャレンジ精神旺盛だった。

「なにしろ俺は新時代の生き方を求めて、百姓仕事なんか見向きもしなかったからな。本当は東京へ出て、学校で法律を学びたかったんじゃ。」(『鬼の宿帖』羽根田武夫 文化出版局)

と幸之助が口癖のように言っていたのを、武夫たちは聞いている。そんな幸之助が身を固めたのは明治24(1891)年の秋。32歳で18歳の山田菊江と結婚した。菊江は大垣の西の端にある綾里地区の出身。ところが双方の親に反対され、幸之助は日本刀を持って山田家に乗り込み、「結婚させてくれなければ心中する」と脅したのだった。

怖い!けど、そこまで深く想っていたんだなあ。

そんな二人が長女のしずを連れ、夜逃げ同然に東京に向かったのは明治28(1895)年。幸之助はただただ窮屈な家を出て東京で一旗揚げたいという一心で、なんのあてもなかったようだ。妻の菊江は後年、次のように言ったという。

お父さんの胸には、若いときから、りんりんといつも鳴り止まぬ鈴があったんよ。(『鬼の宿帖』羽根田武夫 文化出版局)

この鈴は幸之助の胸の中で一生鳴り続けていたらしい。

本郷で開いた下宿屋「菊富士楼」が大当たり! 

当時の日本は日清戦争が終わったばかりで、東京は勝利の余韻に浸っていた。3人が降り立った新橋駅のプラットフォームは、凱旋兵士を出迎えるための万歳の声で沸き立っていたという。

上京はしたものの懐具合も乏しく、行くあてもなく、途方に暮れていた羽根田夫妻だったが、泊めてもらった家の女主人のアドバイスもあり、帝国大学(現・東京大学)近くの本郷弓町(現・本郷1丁目)で下宿屋を開業。翌年には二度の引っ越しを経て、さらに帝大に近い長泉寺の敷地内に日本間26室2F建ての下宿屋「菊富士楼」を建てた。これが菊富士ホテルの前身だ。“菊”は地名・菊坂と妻・菊江の名にちなんだもの。また当時、晴れた日には窓から富士山がくっきりと見えたことに由来するという。

妻の名前と宿からの景色が名前に!

当時、帝大の近くには「女子美術学校(現「女子美大」)」やその付属校にあたる「佐藤高女(現「女子美大付属高等学校・中学校)」があった。菊富士楼の経営が軌道に乗り始めると、二人を頼って故郷岐阜から次々と上京する者が現れた。幸之助は面倒みよく彼らの世話をし、本郷周辺には岐阜県出身者による一大旅館・下宿街ができた。戦後、かなり後まで岐阜県(特に西濃地域)からの修学旅行生の受け入れは本郷の旅館が行っていたと思われる。私の中学の修学旅行の宿泊先も本郷の旅館だった。

故郷の人たちから慕われていたんですね!

彼らは後に「懇話会」という互助組合をつくり、経営資金の調達を扶助し合った。後に菊富士ホテルを建てる際の資金も、幸之助はAから借金してBに返し、さらにCから借りるというような綱渡り的な借財で乗り切った。それでも返済が間に合わず、大勢の借金取りが押し寄せてきたこともあるようだ。

口癖は「まあええわいな」 神対応の肝っ玉かあさん・菊江

幸之助と菊江の間には9人の子どもが生まれた。長女しず・次女伸子・三女八重子・長男冨士雄・次男孝夫・四女房江・三男武夫・五女友江・六女芳江である。若ハゲで金縁眼鏡にドジョウひげを生やした幸之助は例によって発展家だったので、下宿屋の切り盛りは女主人である菊江に任された。長年にわたって妊娠、出産を繰り返した菊江は流産も経験しており、その間、下宿人の世話もしながら子育てをしていたわけだからゆっくりと体を休める暇もなかっただろう。

菊江さん、大変だったんですね……。

しかし、彼女はいつもおっとりと優しくて、子どもたちは母の怒った顔を見たことがなかったという。しかも女相撲と冷やかされるほど体格が良く、色白できめ細かい肌の持ち主だった。米俵一俵を軽々と持ち上げることができたというエピソードも残っている。幸之助はいつも子どもたちを呼び捨てにしたが、菊江は名前に「ちゃん」や「さん」などをつけ、年齢にふさわしい呼び方をしたという。

気は優しくて力持ち!頼もしいなあ。

そんな彼女だから下宿人や雇人たちにもおうようで優しかった。特に収入がなくて宿代の払えない下宿人にとっては“神さま”のような存在だった。口癖は「まあ、ええわいな」。刑務所を出たり入ったりしていた雇人もいたようだが、ホテルに迷惑をかけるわけではないのでクビにすることもなかった。相手がだれであろうと去る者は追わず、来る人は誰でもウエルカムだった。もちろん、下宿人たちのイデオロギーがなんであろうと、問題視することはなかったのである。菊富士ホテルが文士たちのたまり場になったのは、こうした女主人の人柄と年頃の美しい娘たちが交替でフロントに立っていたこと、そしてなんといってもツケや立替払いがきいて、門限や食事の時間など一切規則らしきものがないという自由度が大きかった。幸之助は短気で癇癪持ちだったが、下宿代の催促は苦手だったようだ。

ものすごい懐の深さ!私も泊まってみたかったなあ。

「菊富士楼」から「菊富士ホテル」へ 大正博覧会に押し寄せた外国人旅行者たち

明治40(1907)年、菊富士楼の隣の敷地に20室3F建ての別館が建て増しされた。そして大正3(1914)年に東京で開催が予定されていた大正博覧会の外国人客をあて込み、幸之助は菊富士楼の本館を売って別館と地続きの土地に「菊富士ホテル」を建てたのである。

菊富士ホテルを新築する際にも菊江は陰の力となって活躍した。幸之助が連れてきた大工では信用できないと思い、身辺調査をしたところ、案の定イカサマ師であることがわかったので、本所の大辰という正直者で腕の良い大工を自分で見つけてきた。幸之助は菊富士ホテルの開業届けを出しに地元の警察に行ったが、なかなか許可が下りない。「ホテルなどと名がつくと、外国人客がやってきて取締がめんどうになる」というのが係の言い分だった。菊富士ホテルは明治6(1873)年に建った「東京ホテル」、同23(1890)年に建った「帝国ホテル」に次いで三つ目の外国人向けのホテルであり、博覧会を前に幸之助はホテルの必要性を訴えたが、らちが明かない。そこで岐阜県選出の代議士に口をきいてもらって、ようやく許可を取り付けたという。

大正博覧会は大正3(1914)年3月20日から7月31日まで、上野公園・不忍池畔・青山練兵場・芝浦を会場として行われ、4カ月間で延べ746万3400人が来場する大規模なイベントとなった。幸之助の目論見通り菊富士ホテルは連日満室で、外国人旅行者を乗せた人力車の列が菊坂の下まで続いたという。長女のしずは父と一緒に新橋駅に出かけ、外国人をキャッチしてはホテルに案内した。当初はロシア人、中国人、インド人が多かったそうだ。

千客万来ですね!

外国人向けのホテルから長期滞在客のための高等下宿へ

博覧会が終わりに近づくと、幸之助は「今後は外国人客はあてにできないから高等下宿にしよう」と言い出し、路線を変更。修学旅行などの団体客にも目を付け、宣伝パンフレットを全国の中学校や高校に送るなど誘客に精を出した。その結果菊富士ホテルは本郷で最初の団体客旅館になり、長期滞在客のための高等下宿として定着した。

時流を読むのがものすごく上手だったのかな。先を見通して大成功を重ねたんですね!

第一次世界大戦の好景気も手伝ってホテルの営業は順風満帆。幸之助は外車のフォードを運転手付きで乗り回す羽振りの良さで、大正6(1917)年には文京区議会議員に当選し、4年間の任期を勤めている。これに先立ち、明治43(1910)年には不忍池のほとりに日本初の賃貸アパート「上野倶楽部」を建設するなど、その発展家ぶりはとどまるところを知らなかった。こうした幸之助の並々ならぬキャッチ―なビジネスセンスも、独特な嗅覚を持つ鬼才たちを引き付ける要素になったことだろう。

菊富士ホテルの終焉

菊富士ホテルは大正12(1923)年の関東大震災にも持ちこたえた。大正末期から昭和初期にかけて尾崎士郎や宇野千代、高田保、宇野浩二、石川淳、直木三十五、広津和郎、坂口安吾らの作家に加え、歌舞伎役者や左翼運動家らが入れ替わり立ち替りホテルに出入りした。長期滞在者の宇野浩二や広津和郎はホテルの主(ぬし)のようであり、著作の中でそれぞれ菊富士ホテルについて語っている。

この家の特徴は、それよりも、すぼらで混沌としてゐるところである。-中略―少数の肌の合ふ者はずゐぶん長く勤めてゐた。この事は、少し違ふが、客の場合にも当て嵌まった。(宇野浩二『文学の三十年』)

宿屋の者が、何かの思想を持っているわけではない。実は何も持たないから何もこわがらないと云った感じなのである。何か日本ばなれのした不思議な包容力であった。(広津和郎『年月のあしあと』)

広津和郎は三男武夫の披露宴にも出席しており、菊富士ホテルを出た後も親交があったようだ。経営者一族とは家族のような付き合いをしていたらしい。広津和郎の指摘する“不思議な包容力”こそが、鬼才たちをひきつけてやまない大きな魅力だったのだろう。

きっと菊富士ホテルは、いい空気で満たされていたんだろうなあ。

昭和7年の菊富士ホテルの宿帳。広津(廣津)と書かれているのは広津和郎のことだろうか。亀山浩子さん所蔵

創業者の幸之助は昭和7(1932)年、妻のきくえは同16(1941)年に亡くなった。その後ホテルの経営は未亡人となっていた長女のしずに委ねられたが、日本が第二次世界大戦に突入し、食糧が配給制になったこともあって経営困難となり、昭和19年に「旭電化(現・ADEKA)」の社員寮として売却された。そして、昭和20(1945)年、東京大空襲によって炎上し、灰燼に帰したことは前に述べたとおりである。。

菊富士ホテルの子どもたち その後

羽根田家の息子たち―長男の冨士雄と次男の孝夫―はそれぞれ群馬県の水上温泉、神奈川県の湯河原に「菊富士ホテル」を開業し、三男武夫もカメラマンとして独立した後に「石亭グループ」を創業した。次女の信子は下宿人から求婚された。相手はニコライ・コンラドというロシア人の東洋学者である。後に『源氏物語』をはじめとする日本文学をロシア語に翻訳するなど、ロシアにおける日本文化研究の先駆者となった。背が高くてたいへんなハンサムだったらしい。しかし、信子は体が弱く、コンラドが外国人だったこともあり、幸之助はうんと言わなかった。

三女・八重子とその夫・亀山一二

三女の八重子は「東京外国語学校(後身は東京外語大学)」のロシア語学科を卒業し、外交官となった亀山一二(かめやま かずじ)と結婚した。彼も下宿人の一人で、幸之助と同じく岐阜県の出身だった。外国人客の多かったホテルの通訳としても頼りにされた。亀山は日米開戦時、外務省の電信課長を務めており、駐ソビエト連邦日本大使館参事となって終戦を迎える。後に故郷の関市に戻り、初代市長を務めた。清廉潔白で知られた硬骨漢だった。

今回、岐阜で菊富士ホテルの創業者一族についての資料を探すうち、幸運にも亀山夫妻の孫にあたる田中裕美さんとおかあさんの亀山浩子さんの消息がわかり、お話を聞くことができた。

わあ!ご子孫のかたがた!

また菊富士ホテルの台帳と羽根田兄弟姉妹の貴重なお写真も提供していただいた。どういう経緯か不明だが、1冊だけ亀山家の所有物となっていた台帳があったのである。

(左から)田中裕美さんと母の亀山浩子さん

「おばあちゃんは私が大学3年の時に亡くなりました。おじいちゃんが市長をやっていたので、おばあちゃんは婦人会活動などをしながら内助の功でおじいちゃんを助けていたようです。とても優しくて、しっかり者のおばあちゃんでした。おじさんたちがホテルを経営していたので、熱海や湯河原に家族で遊びに行ったこともありました」裕美さんは祖母の形見の指輪を今も大切にしている。

海外生活の長かった亀山一二は、都市における上下水道の大切さを熟知していた。そこで全国に先駆けて、関市に上下水道を引くことに尽力した。裕美さんがよく覚えているのは、学校の社会科で学んだ第二次世界大戦における日米開戦時の話をした時の祖父の言葉である。当時裕美さんは小学生で、祖父が日米開戦時に外務省の電信課長という地位にあったことは知らなかった。「学校の授業で日本からアメリカへの事前通告はなく、真珠湾の奇襲攻撃で戦争が始まったと習ったよと、祖父に話したのです。そうしたら、『おじいちゃんは開戦前に日本大使館に電報を打ったが、暗号解読に時間がかかってアメリカに伝えるのが遅れたんだ』と話してくれました」この件について亀山は東京裁判でも証言をしている。菊富士ホテルの不思議な縁なのか、亀山はまさに「その時、時代が動いた」の生き証人となったのである。

羽根田兄弟姉妹。前列左から長女・しず、六女・芳江、次女・伸子、四女・房江、三女・八重子、五女・友江、三男・武夫、後列左から次男・孝夫、長男・冨士雄、八重子の夫・亀山一二 亀山浩子さん所蔵

独特の劇画タッチで“昭和の絵師”と称され、『同棲時代』などを代表作とする漫画家の上村一夫は、三女八重子をヒロインに菊富士ホテルをモデルにした『菊坂ホテル』(笠倉漫画文庫)という漫画を描いている。多くの文化人に愛された菊富士ホテルのことを、記憶の片隅にでもとどめていただければ幸いである。

〔取材〕
亀山浩子様
田中裕美様

〔写真提供〕
・亀山浩子様
・「文京ふるさと歴史館」 東京都文京区本郷4-9-29 TEL/03-3818-7221 https://www.city.bunkyo.lg.jp/rekishikan/
・「竹久夢二美術館」 東京都文京区弥生2-4-2 TEL/03-5689-0462 http://www.yayoi-yumeji-museum.jp/
・「芦屋市谷崎潤一郎記念館」 兵庫県芦屋市伊勢町12-15 TEL/0797-23-5852 https://www.tanizakikan.com/

〔参考文献〕
・近藤富枝著『本郷菊富士ホテル』(中公文庫)
・羽根田武夫著『鬼の宿帖』(文化出版局)
・瀬戸内晴美『鬼の栖』(角川文庫)
・上村一夫著『菊坂ホテル』(笠倉漫画文庫)
・山田賢二著『歴史芸能回り舞台』(まつお出版)
・『西美濃わが街」(西美濃わが街社)
・編集委員・土屋康夫『岐阜新聞 20世紀岐阜の顔』 1999年11月7日
・道下淳著『岐阜日日新聞 文化 菊富士ホテルと女主人』 昭和58(1983)年12月9日
・鈴木隆雄著『美濃の文化 本郷旅館街を形成した人たち』 平成22年9月29日
・『大垣市史 資料編』

〔協力〕
岐阜県図書館
大垣市立図書館

書いた人

岐阜県出身岐阜県在住。岐阜愛強し。熱しやすく冷めやすい、いて座のB型。夢は車で日本一周すること。最近はまっているものは熱帯魚のベタの飼育。胸鰭をプルプル震わせてこちらをじっと見つめるつぶらな瞳にKO

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。