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2021.03.21

渋沢栄一を見出した男「平岡円四郎」暗殺の理由とは。徳川慶喜を支えた側近の生涯

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現在放送中のNHK大河ドラマ『青天を衝け』で、徳川慶喜の側近として登場する、平岡円四郎(ひらおかえんしろう)。渋沢栄一を見出したキーパーソンとして、俳優の堤真一さんが演じています。今回は、平岡円四郎がどのような人物だったのか、また平岡円四郎が暗殺されたことで「なにが起きなかったか」を解説します。

※アイキャッチ画像出典:国立国会図書館デジタルコレクション

将軍・慶喜を支えた男、平岡円四郎

一橋慶喜を支えた両腕は、平岡円四郎と原市之進の二人です。

主君の慶喜は水戸斉昭の七男で、養子として徳川将軍家の親族に当たる一橋家を嗣ぎました。一橋家には幾つもの離ればなれの小さな領地があてがわれ、まとまった広さの領地はなく、居城もなく、屋敷が江戸城内にあったことも御三家とは異なっていました。いわばペーパーカンパニーなので、地縁血縁で強く結びついた家臣団もいません。幕臣として仕えていた旗本たちが一代かぎりの出向で一橋家に移籍するなどして入れ替わりが多かったのです。

徳川慶喜公肖像 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

平岡円四郎は、旗本の岡本近江守の四男です。父は勘定奉行配下の役人でしたが、優れた漢詩を詠むことで、岡本花亭という名でも知られた文化人でした。

養子として旗本の平岡家を継いだ円四郎は、幕臣の川路聖謨や、水戸藩の藤田東湖などの傑出した人物から才能を見いだされ、一橋慶喜の小姓に推薦されました。

慶喜は聡明で、側近に支えられないでも一人歩きが出来る人でした。それだけに働きがいがないと、円四郎は感じていたようです。しかし、慶喜の非凡さを悟ってからは、熱心に活動を下支えするようになりました。

次期将軍の座を巡る争い

円四郎は、維新史料綱要という幕末史の基礎的史料に何度か登場しています。初登場は安政五年(1858)三月のことです。慶喜が将軍家の養子となることを固辞していることについて、福井藩士の中根雪江、水戸藩士の安島帯刀が円四郎の屋敷に集い、密議したということが載っています。

維新史料綱要.巻2より 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

ゆくゆくは慶喜に将軍職を嗣がせる含みを持たせながら一橋家の養子とした12代将軍の家慶は、後継問題を曖昧にしたまま病没し、13代将軍の座についたのは家慶の実子の家定でした。家定は病弱なため実子をもうけることが期待できなかったので、つぎこそ慶喜を将軍の座につかせるチャンスでした。しかし、肝心な慶喜にその気がないのでは、どうしようもありません。その場でどんな密議がなされたかは解りませんが、ともあれ円四郎たちは一橋派として慶喜を次期将軍に推しはじめました。

ところが、この前年に安政の改革を主導した老中・阿部正弘が病没しており、守旧派の巻き返しが始っていました。中途で終わった安政の改革では、これまで発言の機会が与えられなかった外様の諸藩にまで意見の表明を求めるなど、老中による密室政治を打破しようとしていましたが、それに対する反発もあったのです。

彦根藩主の井伊直弼、会津藩主・松平容保らは親藩および譜代による権力独占への回帰を主張しており、まだ幼くて政治に口を出しそうにない紀州徳川家の慶福を将軍に据えようとする南紀派でした。

対する一橋派は、改革路線の継続を望んだ薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内豊信ら、外様大名が多数を占めていました。

こうした争いでは、誰を味方にするかが重要な意味を持ちます。暴挙を企てる者が味方にいたのでは、かえって窮地に陥ることになりかねません。

維新史料綱要には、安政五年六月に、時勢を慨嘆する水戸藩士らが幕府の要人に対して「除奸」を計画しているとの情報を、円四郎が中根雪江に伝えていることが記されています。

維新史料綱要.巻2より 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

除奸(奸を除く)の計画とは、平たく言えば要人を暗殺することで、まさに暴挙です。水戸藩といえば慶喜の実家でしたが、味方にはしたくない危険な存在になり果てていました。安政二年の大地震で藤田東湖という指導者を失ってから、水戸藩は迷走を始めていたのです。

やがて井伊直弼を幕府の大老に擁立した南紀派は将軍継嗣をめぐる争いに勝利し、一橋派に対する弾圧を始めました。安政六年九月には、一橋派に属した藩主たちが隠居・謹慎させられ、円四郎もまた罷免されたのち甲府勤番に左遷されています。

大老は殺されていない!

安政七年(1860)三月、桜田門外の変で井伊直弼が殺害されました。水戸藩から17名、薩摩藩から1名、いずれも脱藩した浪人たちの襲撃で、軍事政権たる幕府の大老ともあろう者が、あえなく首級を奪われてしまったのです。これでは武門の面目が立たないため、記録上で「直弼は急病により危篤状態に陥り、跡目相続の手続きをとったのち死亡した」ということになっています。

川瀬巴水「東京二十景 桜田門」出典:シカゴ美術館

暗殺という手段は、まぎれもない暴挙でした。それのみで政治が変わることはありません。変えてしまえば、テロに屈したことになるからです。政治を変えるためには、別の手段が必要でした。

文久二年(1862)、勅使として公卿の大原重徳が江戸へ向かうとき、島津久光が兵を率いて随行しました。久光は薩摩藩主の実父で、薩摩藩の実権を掌握していましたが、本来なら幕閣に意見を言える立場ではありません。しかし、勅使に随行してきたので、幕府としても無視するわけには行かなかったのです。久光は、幕府に対して政治改革を要求しました。

そこから旧一橋派の巻き返しが始りました。いまさら、将軍の座についた家茂を引きずり下ろすことは出来ませんが、安政の大獄で処分を受けた人々を復権させたうえ、慶喜を将軍後見職に、越前福井藩の前藩主・松平春嶽を政事総裁職に、それぞれ就任させました。

渋沢栄一が記した平岡円四郎の最期

円四郎もまた甲府から呼び戻され、一橋家に復帰しました。そのころ、攘夷派の志士として破壊活動を企てていた渋沢栄一を、一橋家に仕官させています。幕府に反抗していた活動家を改心させて、幕府の側に立たせているのですから、たいした度量です。慶喜や円四郎は、いますぐ外国人を日本から閉め出すことはしないでも、日本の自主独立を守るというカタチでの攘夷を考えており、それを渋沢は察したのでしょう。

しかし、すべての攘夷派が渋沢ほどの眼力を備えていたわけではありません。過激な攘夷派から見れば、外国人を襲おうとしたり、外国船を追い払おうとしない慶喜や円四郎の態度は「手緩い」としか思えないものでした。

尊皇攘夷という考え方の元祖である水戸藩に生まれた慶喜が、なかなか外国勢力と戦おうとしないのは、側近が悪い考え方を吹き込んでいるのに相違ない……と、勘繰られたことがきっかけで、円四郎は暗殺の凶刃に斃れました。

維新史料綱要には

水戸藩士林忠五郎「正義」・江幡貞七郎「定彦」等、一橋家側用人平岡方中「円四郎・近江守」を京都千本組屋敷外に要殺す
『維新史料綱要』巻5 p312 より

と、記載されています。まさしく「正史」に名を刻んだ生涯でした。

円四郎に見いだされたことで歴史上の人物となった渋沢栄一は、円四郎の最期について以下のように回顧しています。

平岡が水戸浪士の為に暗殺せられてしまうやうになつたのも、一を聞いて十を知る能力のあるにまかせ、余りに他人のさき廻りばかりした結果では無からうかとも思ふ
デジタル版「実験論語処世談」(18)/渋沢栄一

知恵が回りすぎて、そこまで知恵が回らない人々を置き去りにしてしまうタイプの人だったように思えます。主君であった慶喜も同じ秀才タイプの人でした。

平岡円四郎が暗殺されたことで「なにが起きなかったか」

さて、円四郎が暗殺されたことで、なにが起きなかったかを考えてみます。

慶喜の側近をつとめていた中根長十郎という人は、円四郎より先に暗殺されています。そして、もう一人のブレーンであった原市之進もまた円四郎が暗殺されたあと、やはり暗殺されています。これらの人々がソックリそのまま存命であったなら、将軍後見職としての慶喜は縦横に内政外交を取り仕切ったことでしょう。また、徳川家の勢力を保ちながら幕府を解体して新体制を築く、ソフトランディングに成功していたかもしれません。

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書いた人

1960年東京生まれ。日本大学文理学部史学科から大学院に進むも修士までで挫折して、月給取りで生活しつつ歴史同人・日本史探偵団を立ち上げた。架空戦記作家の佐藤大輔(故人)の後押しを得て物書きに転身、歴史ライターとして現在に至る。得意分野は幕末維新史と明治史で、特に戊辰戦争には詳しい。靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修をつとめた。