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2021.03.28

頑固な攘夷家?徳川慶喜の父・水戸斉昭の実像とは。大河ドラマ『青天を衝け』が楽しくなる予備知識

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さて、ここで問題です。日本三名園に数えられる日本庭園といえば、岡山市の後楽園(こうらくえん)、金沢市の兼六園(けんろくえん)、もう一つはどこでしょうか?

正解は、茨城県水戸市の偕楽園(かいらくえん)。梅の名所としておなじみです。

続いて、次の問題。この偕楽園を作った水戸藩主とは、誰でしょうか?

え? 水戸黄門こと徳川光圀(みつくに)? 残念ながら違います。
正解は9代藩主の徳川斉昭(なりあき)。大河ドラマ『青天を衝け』で、竹中直人さんが演じている人物です。草彅剛さん演じる徳川慶喜(よしのぶ)の父親ですね。

偕楽園の偕楽とは、「民と偕(とも)に楽しむ」という儒教の『孟子(もうし)』の一節から採られています。その言葉通り、水戸藩では毎月決まった日に庭園を領民に開放していました。そんな民を大切にし、名君とも呼ばれる斉昭ですが、一方で「頑固な攘夷(じょうい)家」として幕末に登場し、必ずしも良い評判ばかりではありません。果たして、実際はどんな人物だったのでしょうか。その横顔をかいつまんで紹介してみましょう。

偕楽園(水戸市)

水戸黄門は7人いた? 天下の副将軍って何?

「この紋所が目に入らぬか! こちらにおわすお方をどなたと心得る。恐れ多くも前(さきの)副将軍、水戸光圀(みつくに)公なるぞ。頭(ず)が高い、控えおろう!」

テレビドラマの『水戸黄門』のクライマックスでおなじみのこの台詞(せりふ)、ご存じの方も多いでしょう。水戸黄門といえば一般的に、水戸徳川家の2代・徳川光圀のことを指します。黄門とは、中納言(ちゅうなごん)という官位の唐名(中国の呼び方)でした。水戸徳川家の当主が就(つ)くことのできる最も高い官位が、権(ごんの)中納言。というわけで、実は光圀以外にも水戸黄門と呼べる当主は存在します。徳川光圀から約100年後を生きた斉昭も権中納言ですから、水戸黄門でした。ちなみに光圀や斉昭の他、権中納言の官位をもつ水戸藩主は5人います。つまり水戸黄門は、7人存在したのです。

ところで台詞の中に「前(さきの)副将軍」という言葉が出てきます。『水戸黄門』の光圀は、藩主を引退したご隠居様なので「前(さきの)」となるわけですが、副将軍とは何でしょう? そんな役職が幕府にあったのでしょうか。

結論からいうと、副将軍という役職は江戸幕府にはありません。

ではなぜ、副将軍と呼ばれるのか。それは幕府が水戸藩に対し「定府制(じょうふせい)」という特別な制度を定めていたからでした。すなわち水戸藩主は原則として国許に帰らず、将軍お膝元の江戸屋敷(小石川藩邸)に常駐しなければならなかったのです。

水戸藩は尾張徳川家、紀伊徳川家と並ぶ徳川御三家の一つで、血筋的に将軍家に近い家柄です。が、定府であったのは御三家の中で水戸藩のみでした。その明確な理由は不明ですが、初代藩主頼房(よりふさ)の時より、常に江戸にあって将軍と親しく接しています。将軍に後継ぎがいない場合は、御三家の尾張、もしくは紀伊から後継者を出すことになっており、水戸は対象外でした。その代わり、水戸藩主は江戸に常駐し、必要があればいつでも将軍の相談に預かる立場ということで、「天下の副将軍」と呼ばれるようになったといわれます。

藩主が江戸に常駐するということは、参勤交代がない分、経済的にメリットがあったかと思いきや、江戸に1,000名以上の藩士とその家族が常住したことでむしろ支出が多く、江戸・水戸の二重構造は藩の財政を逼迫(ひっぱく)させることになりました。水戸藩35万石が、他の有力大名に比べて貧乏だったといわれるのはこのためです。そんな水戸藩の9代藩主が、斉昭でした。

水戸光圀像(水戸市)

部屋住みから一転、藩主の座へ

斉昭は寛政12年(1800)、水戸藩7代藩主治紀(はるとし)の3男として江戸で生まれます。幼い頃より聡明で、「水戸学」を代表する学者・会沢正志斎(あいざわせいしさい)の薫陶を受けて成長しました。

斉昭には兄が2人、弟が1人います。父の跡継ぎとなるのは、もちろん長兄の斉脩(なりのぶ)で、弟たちは他家の養子となるのが普通でした。斉昭の次兄と弟も、他家に養子に入ることが決まりますが、斉昭は30歳になるまで、なぜかどこからも養子に迎えられません。下手すれば一生部屋住みの生活を送らなければならず、心中鬱々(うつうつ)としたものがあったでしょう。この点、のちに対立することになる幕府大老(たいろう)井伊直弼(いいなおすけ)の若い頃と、境遇がよく似ていました。

しかし文政12年(1829)、8代藩主となっていた兄の斉脩が病に倒れます。この時、門閥の重臣らは斉脩の後継者に、弟の斉昭を差し置いて、将軍家斉(いえなり)の息子を迎えようとします。将軍の息子が藩主になれば、幕府より財政面での支援が期待できるからでした。この事態に、斉昭を支持する藩士40人が陳情のため、水戸から江戸に向かう騒ぎとなります。その中には先述の会沢正志斎のほか、藤田東湖(ふじたとうこ)、武田耕雲斎(たけだこううんさい)らがいました。のちに斉昭の腹心となる面々で、学者や軽輩が中心です。大河ドラマ『青天を衝け』では、藤田東湖を渡辺いっけいさん、武田耕雲斎を津田寛治さんが演じています。

40人が江戸に着いた直後、藩主斉脩が息を引き取りました。斉脩が家老に宛てた遺書には「自分の没後は弟の斉昭を養子として、藩政を譲りたい。そのように幕府に申し立てよ」と記されており、これにより斉昭は30歳にして、晴れて水戸藩9代藩主となるのです。部屋住みからの大逆転でした。

復元された水戸城大手門(水戸市)

「東の大関」と呼ばれた飢饉対策

藩主就任の翌日、斉昭は所信を表明します。内容は、これまでの藩政を改める意欲に満ちたもので、特に、財政が厳しいからと無理に年貢を取り立てることはやめ、庶民に報いる「愛民専一」という言葉を示した点が画期的でした。そして斉昭は翌天保(てんぽう)元年(1830)より、自らの理想に近づくための藩政改革を次々に実行していきます。水戸藩の「天保の改革」と呼ばれるものでした。幕府が行ったいわゆる天保の改革よりも10年以上早く、その模範になったといわれます。

斉昭は、まず政治上の意見のある者は、下級藩士でも藩主に意見書を出すことを許しました。下の者の実情を知り、藩政に反映させるねらいがあったとされます。またぜいたくや、三味線などの遊興を禁じました。斉昭自ら普段は質素な木綿の衣類を用い、食事も一汁一菜を基本としています。

さらに改革の推進力となる人材登用を行います。自分の藩主就任を支持した会沢正志斎、藤田東湖、武田耕雲斎、戸田忠敞(とだただあきら)、安島帯刀(あじまたてわき)、青山延于(あおやまのぶゆき)など、身分は低くても有能な藩士らを抜擢し、彼らは「改革派」と呼ばれました。ただしこれによって、旧来の門閥派(斉昭ではなく、将軍の息子を藩主に迎えようとした重臣一派)との軋轢(あつれき)が生まれ、それがのちに水戸藩内の派閥対立の火種となります。

それはともかく、斉昭は抜擢した改革派の面々を農村の支配にあたる「郡(こおり)奉行」に任じ、疲弊した農村の建て直しを図りました。農民から悪法と憎まれていた租税徴収法を改め、農民の暮らしが豊かになるよう努めます。また飢饉に備えて、稗(ひえ)をはじめとする雑穀を貯蔵するよう奨励しました。天保4年(1833)、斉昭は初めて江戸から水戸に帰国しますが、水戸に滞在した1年余りの間に何度も領内の農村を視察し、農民たちと親しく接しています。

そうした政策が実を結び、天保4年の台風と飢饉、また天保7年(1836)には全国的に大飢饉となりますが、水戸藩は他藩と異なり、領内から餓死者がほとんど出なかったといわれます。天保7年の飢饉後、江戸で刷られた「凶作救方(すくいかた)」の番付には、西の大関が伊勢(現、三重県)の藤堂(とうどう)氏、東の大関が水戸の徳川氏となっており、水戸藩の行き届いた飢饉対策が、全国的に評判になっていたことがわかります(なお、江戸時代の番付の最上は横綱ではなく大関でした)。

斉昭の改革の真のねらいとは

大飢饉の翌年の天保8年(1837)、斉昭は藩政改革の4大目標を次のように掲げました。

第一 経界之義(検地〈田畑の測量と収穫量調査〉を改めて行い、境界を正す)
第二 土着之義(藩士を城下から郡部に移し、土地を耕し武備を練る)
第三 学校之義(藩校弘道館〈こうどうかん〉創設と各地の郷校〈庶民教育機関〉の増設、偕楽園の造営)
第四 総交代之義(藩士の定府制廃止による財政再建)

この中でひときわ目をひくのが、藩士を城下から郡部に移し、土地を耕しつつ武備を練るという「土着の義」でしょう。戦国時代の末より、大名は家臣を城下に集めて職業軍人化し、軍事行動を起こす際、即時動員が可能な体制をつくりました。いわゆる「兵農分離」です。その体制は江戸時代にも引き継がれ、武士は支配階層として城下に暮らし、農民や町人とは明確に区別されていました。ところが斉昭は逆に、武士は農村にいて農作業をしつつ、武芸を練ることを課したのです。なぜ兵農分離を否定したのでしょうか。

実はここに、斉昭の目指す改革の本質がありました。当時、どの藩でも改革の主たる目的は、財政再建です。水戸藩でもむろん財政は重要であり、検地を行い、藩士の定府制を廃止するのも、財政再建のためでした。しかし、それが斉昭のゴールではないのです。斉昭のねらいは水戸藩が財政再建を果たすと同時に、城下暮らしで心身がなまってしまった藩士たちを農村で鍛え上げ、さらに藩士だけでなく農民も郷校で学問を学び、いま日本が直面している、外国による侵略への危機感を藩士と共有することにありました。そして藩士と農民を一致団結させて総合的な軍事力(藩士+農兵)を強化し、外国の脅威を防ぐことこそが、改革の目指すところであったのです。

その根底に流れているのは、斉昭が若い頃より学んできた水戸学の精神でした。水戸学はもともと水戸徳川家2代の光圀から始まります。天皇を尊ぶことを重んじ(尊王)、だからこそ天皇から政治を任されている将軍は敬うべき存在である、という考え方でした。

文政7年(1824)、水戸藩領の大津浜(現、北茨城市)に突然、イギリス人が上陸する事件が起こります。水戸藩の儒学者で、斉昭の師である会沢正志斎は事件に衝撃を受けました。長い海岸線を持つ水戸藩では、いつ外国の侵攻を受けるかもわからず、またそれは島国の日本全体も同じで、どこで侵攻が起きてもおかしくありません。そして翌文政8年(1825)、会沢は『新論』を著します。その中で会沢は「外国の侵略から日本を守るには、幕府を筆頭にすべての日本人が天皇の下で一致団結し(尊王)、異国(夷狄〈いてき〉)を打ち攘(はら)わなければならない(攘夷)」としたのです。それが尊王と攘夷が結びついた「尊王攘夷」という考え方でした。幼い頃より会沢の教えを受けてきた斉昭の理想とは、水戸藩が尊王攘夷を実行できるようにすることであった、といってよいでしょう。

なお斉昭が4大目標を掲げた天保8年、正室吉子(よしこ)との間に7男・七郎麿(しちろうまろ)が誕生しています。のちの慶喜(よしのぶ)です。

水戸弘道館内に掲げられる「尊攘」の書(水戸市)

幕府からにらまれる

しかし斉昭の行動は、水戸学をよく知る者ならばともかく、幕府高官をはじめとする多くの人にとって、その真意がわかりにくかったようです。

天保10年(1839)、斉昭は12代将軍家慶(いえよし)に対し、「戊戌封事(ぼじゅつふうじ)」と題する意見書を提出します。内容は11項目あり、悪化鋳造の禁止や大船建造の許可、蝦夷(えぞ)地(現、北海道)の開拓などでした。当時、大飢饉をきっかけに各地で一揆が頻発していたことや、迫りくる外国の脅威への危機感を背景として、早急な幕政改革を勧めるものだったといえます。

斉昭にすれば水戸藩のみが外国の脅威に備えても、局地的な備えでは意味がなく、幕府主導のもと、日本全体で改革を行わなければ日本は守れないと考えてのことでしょう。しかし、幕府政治の舵をとる老中(ろうじゅう)にとっては、意見内容よりも斉昭の口出しそのものが問題でした。水戸藩主が「副将軍」などと呼ばれるのは非公式な俗称であり、幕府が定めた役職ではありません。幕府政治はあくまで将軍を頂点に、老中らが取り仕切るものであり、御三家や御三卿(ごさんきょう、田安・一橋・清水家)は将軍の親族として重んじられはしても、幕府内での政治的実権はないのです。

実は斉昭は、過去にも老中らからにらまれたことがありました。5年前の天保5年(1834)、藩政改革を進める中で斉昭は、幕府に対して次の3つの要望を出しています。

・神武陵(じんむりょう)の修復
・蝦夷地開拓
・鹿島・行方(なめかた)両郡内で、12万石相当の土地の下賜

いずれも他藩の領地や管理下にあるものへの要望です。神武天皇陵の修復は尊王の念からでしょうが、蝦夷地開拓及び鹿島・行方下賜は、窮乏する水戸藩の石高を増やすためと、外国への防備を固めるためでした。幕府にすれば非常識、かつ身勝手な話であり、水戸の重臣らも幕府の心証を害する要望は控えるよう進言しますが、斉昭は耳を貸さず強行してしまったのです。斉昭は、自分が正しいと思うことは事前の根回しなどをせず、行動してしまう傾向がありました。もちろん要望はすべて却下されましたが、幕府内には斉昭に対して「うとましい」という印象が残ったでしょう。そこへまた今回の将軍への意見書提出があり、斉昭は幕府から一層にらまれることになりました。

江戸城

改革の仕上げと水戸ブーム

幕府からにらまれていることを斉昭が気づいていたのかは定かではありませんが、意見書提出の翌年、天保11年(1840)より、水戸藩の改革は仕上げの段階に入ります。

まず注目すべきは改革派の抜擢で、藤田東湖が側用人(そばようにん)に就任。側用人は権参政(ごんのさんせい)とも呼ばれ、参政の補佐役でした。水戸藩においては執政(しっせい)を筆頭に、参政、側用人がいわば行政の3役であったといわれます。また同じく改革派の戸田忠敞(ただあきら)、武田耕雲斎も前年に参政に昇進しており、戸田は8月にさらに執政となりました。従来、門閥派のみで占められていた行政の3役に、改革派が食い込んだかたちとなったのです。

また同年より全領において検地を開始、さらに軍事演習として「追鳥狩(おうとりがり)」を実施します。特に天保11年の第1回追鳥狩は、「騎士3,000、雑兵(ぞうひょう)2万」が動員される大規模なものでした。その後も追鳥狩は天保年間に4回、安政年間に4回と計9回行われています。斉昭による勇壮な追鳥狩の様子は、大河ドラマ『青天を衝け』の初回でも描かれました。

そして翌天保12年(1841)には、全国で最大規模の藩校・弘道館が開校、さらに翌年、藩士や領民の憩(いこ)いの場として、偕楽園も開園しました。こうした斉昭の改革の成果は全国的に注目され、家臣の藤田東湖、会沢正志斎、青山延于(のぶゆき)らの名も広く知られるようになります。水戸を訪れる人も増えて、いわば水戸ブームのような状況となり、水戸学と「尊王攘夷」の考え方も全国各地に広がっていきました。

弘道館(水戸市)

遺書と梅の花と暗転

そんな水戸が注目されている最中の天保12年、42歳の斉昭は突然、会沢や青山宛てに遺書をしたためます。弘道館の行く末を案じ、後事を託す内容でした。会沢も青山も斉昭より年上であり、そんな彼らに後事を託すのは、斉昭の体に重大な異変が起きていたからでしょう。遺書には「心通の症」と記されており、狭心症の発作ではなかったか、ともいわれます。

斉昭は梅の花を好み、弘道館にも偕楽園にも多くの梅の木を植えさせました。梅は花を愛でるだけでなく、有事の際に食用として役に立つという理由もありますが、雪の中に清らかな香りをただよわせ、春を呼ぶ梅に、斉昭は先駆ける姿を見ていたともいいます。あるいは自分の寿命が長くないことを悟り、残りの人生を、梅のように時代を先駆けることに費やしたいと願ったのかもしれません。

天保14年(1843)、斉昭は江戸城で将軍家慶から異例の表彰を受け、宝刀などを授けられました。藩政が行き届いているとして、水戸藩の改革を幕府が高く評価したのです。斉昭にすれば晴れがましく、誇らしいことであったでしょう。ところが……。

それからわずか1年後。突然、江戸出頭を命じられた斉昭は、隠居・謹慎を命じられます。理由は、「政治の仕方が近年気ままで驕(おご)り高ぶり、幕府の制度に触れることもあった。他家の範となるべき御三家にもかかわらず遠慮もなく、将軍は機嫌を損じられた」というもので、具体的には次の7つの項目が挙げられました。

1 鉄砲連発のこと
2 表向き財政困難を幕府に訴えているが、実際はそうではあるまい
3 松前(北海道)領有をいまだ希望していること
4 許可なく浪人どもを召し抱えたこと
5 御宮(東照宮)祭儀の方式を改めたこと
6 寺院を多く破却したこと
7 学校(弘道館)の土手を高く築いたこと

手のひらを返した幕府の態度に、斉昭は藩内の門閥派が幕府の要人と組んで、自分の失脚・追放を図ったと疑いました。が、藩内だけでなく、斉昭の存在をうとましく思う者は幕府内にも少なくなかったのでしょう。また寺院の破却のように、斉昭の改革に行き過ぎた部分があったことも事実です。

しかし何よりも斉昭を落胆させたのは、幕府は結局、斉昭が警鐘を鳴らしてきた外国の脅威を、何も理解していなかった、ということだったかもしれません。残りの人生を、外国への備えのために尽くそうとしていた斉昭でしたが、隠居・謹慎処分によってその望みは断たれ、長年精魂を傾けた藩政改革も、強制的に終了させられることとなったのです。

斉昭と老中阿部正弘

隠居した斉昭の代わりに10代藩主となったのは、長男の慶篤(よしあつ)でした。しかし藩政の実権を握ったのは門閥派で、斉昭が引き立てた改革派は次々と失脚することになります。そんな面白くない状況の中で唯一、斉昭が希望を抱いたのが、7男・七郎麿の成長でした。利発な七郎麿に斉昭は、「将来名将となるか、はたまた手に負えない存在となるか」と、期待を込めて評しています。

そのため弘化4年(1847)、11歳の七郎麿に一橋家への養子の話が来た際も、斉昭は乗り気ではありませんでした。斉昭はかつての自分のように、万一藩主に何かあった場合に備えて、水戸に残しておきたいと考えていたからです。とはいえ御三卿の一橋家を継げば、七郎麿が水戸徳川家の血筋としては初めての将軍となる可能性も生まれます。結局斉昭は養子を承諾し、七郎麿は一橋家に入りました。やがてそれが、幕府を揺るがす将軍継嗣問題へとつながります。

七郎麿が一橋家に入る1年前、斉昭は謹慎を解かれました。斉昭の無実を訴え、謹慎解除を求める水戸藩士や庶民の声が後押しになったといわれます。藩政への関与が許されたのは、それから3年後の嘉永2年(1849)、斉昭50歳のことでした。その背景には、斉昭の隠居・謹慎直後から8年にも及んだ、老中阿部正弘(あべまさひろ)との手紙での交流があります。

弘化3年(1846)、アメリカの東インド艦隊司令官ビッドルが浦賀(現、横須賀市)に来航し、通商を求めました。老中首座を務める阿部は、従来通りオランダ以外との通商は行わないと回答して、拒絶します。ビッドルが去ったのち、斉昭は阿部に次のような見解を伝えました。

「今後も外国使節はやってくるだろうが、その時にどう対処するかについては、多くの意見を聞く必要がある。御三家はもちろん、たとえ外様大名でも、有志の者へは内々に声をかけて、意見を質(ただ)してやるのがよい。そして有志の皆で考え、日本の御為(おんため)になり、また日本をはずかしめぬようにしたいものである」

外交の重要問題について、有志の者であれば、たとえ外様大名であってもその意見を聞くべきであるという斉昭のアドバイスに、阿部は目を見開かされたかもしれません。おそらくこの手紙が、阿部が斉昭や外様大名の薩摩藩主島津斉彬(しまづなりあきら)の意見を重んじるきっかけの一つになったのでしょう。そして阿部の引き立てにより、ほどなく斉昭は再び時代の表舞台に登場することになるのです。なお大河ドラマ『青天を衝け』では、阿部正弘を大谷亮平さんが演じています。

阿部正弘像(福山市)

黒船来航と海防参与

「泰平の 眠りを覚ます 上喜撰(じょうきせん) たった四杯で 夜も眠れず」

そんな狂歌が詠まれたアメリカの東インド艦隊司令官ペリーの浦賀来航は、嘉永6年(1853)のことでした。「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点がある」と考えるペリーの姿勢は高圧的で、幕府の抗議に聞く耳を持たず湾内の測量を行い、大統領の親書を手渡すと、開国の返事を聞くために来年再び来ると告げて去って行ったのです。これまでの帆船の異国船とは異なり、蒸気船の軍艦で来航し、また終始恫喝(どうかつ)するような態度であったことに、幕府はあわてました。

その直後、斉昭は幕府より「海防参与」という臨時の役職に任ぜられます。斉昭は水戸で鋳造(ちゅうぞう)させた75門の大砲のうち、1門を残してすべて幕府に献上し、江戸湾の防備にあてさせました。それらの大砲は水戸藩の改革の際に破却した、寺院の鐘などから造られたものです。そんな斉昭の登場は江戸の庶民にも大変な評判となり、三顧(さんこ)の礼で迎えられた『三国志演義』の諸葛孔明(しょかつこうめい)に斉昭を見立てた錦絵が売り出されるほどでした。

海防参与に就任した斉昭は、すぐに意見書『海防愚存(ぐぞん)』を阿部に提出します。内容は武威を背景に開国を迫る外国の要求を受け入れては、国家の根本を腐らせるとした上で、大船建造、大砲鋳造、鉄砲の訓練、農兵の整備などを説くものでした。外国を打ち払うための「攘夷」の方策です。しかし意見書には付箋(ふせん)が添付され、そこには意外な内容が書かれていました。

「私の策を採用いただけることになりましたならば、和を結ぶことについては発表せず、海防に関わることのみを諸藩に示すべきです。そのため意見書には、和について一切記しておりません」

これはどういう意味なのでしょうか。

描かれたポーハタン号(シカゴ美術館蔵)

「内戦外和の論」と斉昭の真意

世間では斉昭を、「攘夷」の急先鋒と見ていました。「尊王攘夷」という考え方を生んだ水戸を象徴する人物であり、実際、阿部に提出した『海防愚存』も、終始攘夷について述べられています。しかし、それが斉昭の真意ではありませんでした。実際は「アメリカの求めに応じ、開国和親もやむを得ない」と考えていたのです。斉昭は洋書にも接しており、欧米の軍事力、技術力が日本よりも優れている現実を知っていました。しかし、だからといって幕府が外国の武威に屈して開国すれば、幕府の威信は揺らぎ、国内は混乱するでしょう。そこで斉昭は「幕府はたとえ開国の方針を固めても発表はせず、あくまで攘夷の姿勢を示し、諸藩にも防戦の準備を命じなさい。すると諸藩は、それぞれの力では防戦できないことを幕府に訴えてくるであろう。幕府はそれを待って、諸藩が海防の準備をととのえるまでの暫定的措置であるとして、和親を結ぶことを発表すれば、幕府の体面が傷つかずに開国和親を行うことができる」と伝えたのです。それが付箋の内容でした。

この斉昭の考え方は、「内戦外和の論」と呼ばれます。幕府が威信を損なわずに、開国和親をせざるを得ない急場を切り抜ける策でした。では、斉昭にとって攘夷は方便で、実は開国論者であったのかといえば、それは違います。現状では勝ち目がないので、さしあたっての開国はやむを得ない。しかし武備を充実させ、やがて外国と互角以上に戦える状況となれば攘夷に転じる、そう考えていたのです。とはいえ、この斉昭の複雑なスタンスは理解されにくく、幕府内部でも「斉昭は頑固な攘夷家だ」と、表向きの主張を真に受けて誤解する者が少なくありませんでした。

斉昭の頭には、常に幕府の安泰があります。「天下の副将軍」を自認する斉昭にすれば、当然だったのかもしれません。しかし、武力によって諸藩の上に君臨する徳川幕府にとって、海防のためとはいえ、諸藩に武備の充実を命じることは極めて危険でもありました。その武備が諸刃(もろは)の剣となり、いつ幕府に向かってこないとも限らないからです。この難しい舵とりは、よほど優れたリーダーでなければ務まらないでしょう。

ペリー来航直後に12代将軍家慶は没し、跡を継いだのは病弱な13代将軍家定(いえさだ)です。難局の舵とり役として、どう見ても家定では役不足でした。斉昭にすれば、かつて藩政改革で成果を上げた時のように、自ら腕を振るいたかったのかもしれませんが、年齢的にも立場的にも無理な話です。そこで期待したのが、一橋家に養子に入った息子の慶喜でした。英明な慶喜であれば、徳川幕府を守りつつ、外国の脅威を退けることができるかもしれない。そのためにも慶喜には、家定の次の将軍になってほしい……。そう願ったのは斉昭だけでなく、老中首座の阿部正弘や越前藩主の松平慶永(まつだいらよしなが)、外様大名で薩摩藩主の島津斉彬らも同じでした。

一橋慶喜

安政の逆風

嘉永7年(1854)、予定よりも早く再来航したペリー艦隊の前に、幕府はなす術もなく開国に踏み切ります。斉昭の提案も実を結ばず、外国の脅しに屈したかたちでの和親条約締結でした。これを遺憾(いかん)とした斉昭は海防参与辞任を表明しますが、阿部正弘の熱心な説得もあり、翌安政2年(1855)に軍政参与として再び幕府政治に協力することになります。

しかし同年10月、江戸を大地震が襲いました。死者1万人にものぼった安政江戸大地震です。そしてこの震災で、斉昭を支える改革派の藤田東湖、戸田忠敞(ただあきら)の両名が小石川の藩邸で、建物の下敷きとなり圧死しました。斉昭は一夜にして、頼みとする重臣たちを失ってしまったのです。また地震の影響により、斉昭が幕府に働きかけ、阿部の主導で進んでいた軍事改革(大船建造の禁の緩和、諸藩の海防強化など)も、一時中断となりました。

さらに斉昭への逆風は続きます。大地震の混乱が収まらぬ中、幕閣の人事が改められ、信頼していた阿部正弘が老中首座を退き、代わって堀田正睦(ほったまさよし)が老中首座となりました。斉昭は堀田とはかねてより折り合いが悪く、斉昭にすれば大きな不安材料であったでしょう。翌安政3年(1856)にはアメリカの総領事としてハリスが伊豆の下田に駐在し、幕府内ではアメリカが求める通商条約締結もやむなし、という声が高まっていきました。斉昭が最も避けるべきと主張していた、なし崩し的に外国の要求を呑む方向へと幕府は向かっていったのです。

そして安政4年(1857)6月、幕府内で斉昭の最大にして唯一の理解者であった阿部正弘が急死。阿部がいなくなっては、もはや何を言っても幕府が自分の意見に耳を傾けることはない、と判断したのでしょう。翌月、斉昭は軍政参与を辞任しました。こうして斉昭は逆風が続く中、幕府の軍事改革の途上にして、自ら政治の舞台を去ったのです。

小石川後楽園(文京区)。水戸徳川家の江戸上屋敷の庭園であった

井伊直弼との対決

その後も、幕府の混乱は続きます。安政5年(1858)、アメリカ総領事のハリスが強硬に求める通商条約締結を、幕府は拒めなくなっていました。一方、同年に将軍家定が病に倒れます。これによって次期将軍をめぐる問題が急浮上し、英明と評判の高い一橋慶喜を推す一派(一橋派)と、幼少ながら血筋的に家定に近い紀伊徳川家の徳川慶福(よしとみ)を推す一派(南紀派)が対立しました。そんな中、老中首座の堀田は自ら京都に出向き、朝廷より通商条約締結の許可を得ようとします。しかし、朝廷は攘夷を主張し、堀田に条約の許可を与えず、さらに次期将軍には慶喜がふさわしいとほのめかしました。そこには一橋派による事前の朝廷工作があったといわれます。

なす術もなく堀田が江戸に戻ると、幕閣の人事が改められ、大老(たいろう、臨時に老中の上に置かれる最高職)に就任したのが井伊直弼(なおすけ)でした。井伊は持ち前の剛腕で、通商条約締結と、将軍継嗣問題に臨みます。なお『青天を衝け』では、井伊を岸谷五朗さんが演じています。

南紀派の井伊は、まず一橋派の幕臣を要職から一掃した上で、次期将軍を紀伊の慶福に内定(14代将軍家茂〈いえもち〉)します。この時点で、すでに一橋派は敗れたといっていいでしょう。

また通商条約締結は、朝廷の許可を得てからを基本方針としました。ところがハリスと交渉する現場の外交官より、万一即刻調印を求められた場合は調印してもよいかと尋ねられ、その場合は致し方ないと井伊が答えたところ、6月19日、現場の判断で日米修好通商条約が結ばれてしまいます。井伊の本意ではなかったとはいえ、朝廷の許可を得ていない「違勅調印」でした。

この事態に、斉昭が立ち上がります。水戸藩主である息子の慶篤と、同じく御三家の尾張藩主・徳川慶勝(よしかつ)とともに、6月24日、押しかけ登城を行いました。本来、各大名には登城日が決まっていますが、それを無視しての登城です。斉昭にすれば、「尊王攘夷」を全国に発信する水戸徳川家として、違勅調印は看過できず、またこの緊急の折に、登城日など無意味であると解釈したのでしょう。そして、できればこれをきっかけに一橋派の巻き返しを図ろうと考えていたはずです。

しかし前述のように、御三家や御三卿は将軍の親族として敬われますが、政治的発言権はありません。軍政参与時代であればまだしも、すでに辞職した斉昭の幕府内での扱いは、ただの「隠居」です。対面した井伊は「違勅調印」については朝廷に事後承諾を取るとし、将軍継嗣については、つけいる隙を全く与えませんでした。翌25日、幕府は将軍後継が慶福に決定したことを発表。一方の斉昭は、押しかけ登城を罰せられ、小石川屋敷での謹慎を命じられます。斉昭の完敗でした。

こののち朝廷から水戸藩に密勅が下り、深刻な事態に井伊が安政の大獄に踏み切って、やがて桜田門外で水戸浪士らに討たれることになりますが、それらに斉昭の直接的関与はありません。安政の大獄で斉昭は永蟄居(えいちっきょ、終身にわたる謹慎)に処され、政治生命は尽きていました。

ちなみに桜田門外の変を実行した水戸浪士らは、あくまで井伊大老個人を除き、それによって幕政を正常に戻すことが目的で、幕府そのものを否定したのではありません。しかし斉昭にすれば、将軍が任じた大老を「副将軍」たる水戸家の者が討つなど、絶対にあってはならないことでした。「尊王敬幕(天皇を尊崇し、幕府を敬う)」が水戸学の根幹であるからです。しかし時代は、水戸学の枠を超えて動き始めていました。斉昭はそれをどんな思いで見ていたのでしょうか。井伊大老が討たれてからおよそ半年後の万延元年(1860)8月15日、斉昭は水戸で没します。享年61。諡(おくりな)は烈公(れっこう)。

徳川斉昭像(水戸市)

一橋慶喜が指揮する幕府のもと、諸藩の軍備を強化して尊王攘夷を実現するという斉昭の理想は実現しませんでした。しかし、その存在が幕末に与えた影響は非常に大きなものがあります。大河ドラマ『青天を衝け』で竹中直人さんが斉昭をどう演じるのか、またその後、斉昭の理想と異なり、時代がどのように動いていくのかに注目するのも、ドラマの楽しみ方の一つになるかもしれませんね。

参考文献:瀬谷義彦『水戸の斉昭』(茨城新聞社)、長山靖生『天下の副将軍』(新潮選書)、家近良樹『人物叢書 徳川慶喜』(吉川弘文館)、大石慎三郎『水戸藩天保の検地とその意義』 他

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。