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2021.04.29

14歳の少年の目に映った倒幕と攘夷。「禁門の変」で何が起きなかったかを考える

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世にいう「禁門の変」とは

文久3年の「八月十八日の政変」から、そろそろ1年たとうとする元治元年7月19日(1864年8月20日)のこと、長州藩兵が大挙して京に押し寄せ、御所を警固する諸藩の兵が迎え撃ちました。砲弾は御所にまで及び、皇族方が一時避難する場面もあったと伝えられています。

当時、満14歳だった西園寺公望は、公家の慣習に従って年齢は逆サバを読んでいて、若年ながら宮中に出仕しており、禁門の変を間近に見聞していました。

どうもその時の混雑は非常であつて、それから□主上の御在になる所に詰めて居ると、ドーンドーン砲火の音が聞える、そのうちに彼方此方から火の手が揚るといふやうなこと、その時に能く覚えて居るが、会津肥後守あれが京都の守護職で、大分兵隊を連れて居つた、私の家の前に、もと御花畑といつた広い空地であつて、そこが御馬場といふものになつて居たが、そこへ陣取つて居つた(西園寺公望【陶庵】著『陶庵随筆』p75より

註:引用文のなかの□は、天皇を意味する「主上」の前を一字空けて敬意を表していることを示しています。本来は1字分の空白です。

この時期、朝廷は前年の政変劇で京から長州へ脱走した公卿たちの処分に苦慮していましたが、なかなか結論を出せずにいました。

長州藩は嘆願書で、三條実美ら脱走した公卿たちと、藩主父子・毛利慶親、定広の冤罪を訴え、京に入ることを許可するよう求めました。

尊皇攘夷を唱える長州藩が、孝明天皇の怒りを買うわけがないと信じ込んでいた長州系の浪士らは、文久3年のクーデターは、孝明天皇の真意によることではなく、幕府の肩を持つ悪い廷臣たちの陰謀だと考えていたようです。

さて、押し寄せた長州勢は、なにを起こそうとしていたのかを考えてみます。

少年の目に映った倒幕と攘夷

そのころ「幕府を討つ」と息巻いていた人々が、公望少年の目にはどう映っていたかというと、こんな感じです。

それから討幕といふ中にも、一向当時の幕府が、何処まで腐敗して居るのであるか、如何なることが弊害であるかいふやうなことは、能くも研究せず、また如何なる手段を以てやれば、その目的を成し遂げるかといふやうな画策もなく、唯々慷慨心に駆られて頻りに騒いで居たのもあつたのです(西園寺公望【陶庵】著『陶庵随筆』p62より

いまでいうと中学生くらいの少年だった公望が、ずいぶん冷めた目で倒幕派を見ていたのです。攘夷に関しても、

夫れから攘夷、これは前にも申した如く、二三人を除けば、公卿を挙げて攘夷家ならざるはなかつたのです、宗教のやうなものでありました。(西園寺公望【陶庵】著『陶庵随筆』p62~63より

公望少年の目には「宗教のようなもの」と映っていたのでした。お公家さんから見たら「攘夷は理屈じゃない」ということなのでしょう。

日本の金銀交換比率は諸外国との差が大きく、貿易が始まってから外国商人は日本の金貨を上海で銀貨に両替することで、大きな利益を得ていました。日本の商人は海外渡航が禁止されていたので、同じ事ができません。それによって金貨が大量に流出し、銀貨が大量に流入して相場は大混乱しましたし、輸出品目は品薄のため値が上がり、庶民はインフレに苦しみました。ここに至って「攘夷」は財布に直結する切実な問題になっており、「神州を汚すな」というような観念論は過去のものとなっていました。

池田屋事件

もともと長州藩は文久元年(1861)頃に「航海遠略策」を提唱し、開国と貿易を容認して国力を養い、将来は欧米列強と対峙できる国を目指そうという大攘夷論を説いていました。しかし、威勢の良いことを言う方が支持を集めます。一時期は幕府も朝廷も「航海遠略策」を支持しましたが、やがて朝廷は外国勢力との戦争も辞さないという破約攘夷論に傾斜していきました。通商条約は不平等だから、いったん破棄して、改めて対等な条約を結ぼうという考え方を破約攘夷といいます。条約を破棄するために武力を用いてでも外国人を日本から排除しようというアブナイ意見でもありますが、貿易から生じた生活苦により冷静さを失った民衆にとって、破約攘夷論は痛快に思えたことでしょう。長州藩もまた「航海遠略策」を取り下げ、カルト的な破約攘夷論に染まっていったのでした。

禁門の変に先立つ元治元年6月5日(1864年7月8日)、肥後の松田重助、宮部鼎蔵、長州の吉田稔麿ら、破約攘夷派が京都三条小橋の旅亭・池田屋で会合を開き、それを察知した新選組が池田屋を襲いました。

この事件によって新選組の名は天下に轟くことになりましたが、名が知れることは遺恨を買いやすくなることでもあります。また、事件後には無関係な者までが捕らえられ、浪士らを援助したとして獄につながれています。小役人の点数稼ぎのため冤罪に苦しんだ人たちが少なからずいたことで、京都の民心は幕府から離れていきました。

池田屋事件で新選組は浪士らを捕らえて吟味する手順を踏まず、その場で斬殺するという厳しい姿勢を示しました。少数で踏み込まないで、応援の人数を呼んでいれば生け捕りにできたはずなのに、池田屋に居合わせた多数の攘夷派が斬殺されたのです。

攘夷運動の総本山だった長州藩は大打撃を受けました。凶報を受けた長州藩は進発論一色に染まり、大挙して京へ向かいました。すぐさま戦争を仕掛けるのではなく、まず武力を背景に談判を求め、要求に応じなければ戦争も辞さないことを、行動で示そうというのです。

長州勢、洛外に屯集

元治元年6月24日(1864年7月27日)、長州藩重臣の福原越後、国司信濃、益田右衛門らは、京都の南に位置する伏見や山崎、八幡などに数百名ずつ分屯しました。総兵力は「千数百名」といわれますが、周到に準備された動員ではないため、何人が従ったのか、はっきりとはわかりません。

迎える幕府側の兵数は、紙の上では長州藩の兵力の数倍に及びますが、応援の諸藩兵などは生命を賭してまで戦うかどうか、やってみるまでわからなかったのです。

長州勢は「哀訴状」を朝廷に奉り、藩主父子および三條実美らの罪を赦して、入京を許可するよう嘆願しました。

公卿や堂上(御殿にあがれる公家)の中には、長州に加担する者も少なからずいました。正親町三條實愛などは、毛利慶親父子に罪過はなく、家臣らが暴挙を謀ったせいで勅勘(天皇の勘気)を蒙つたのだから、父子の入京を許すのは当然で、三條実美らには脱走の罪があるので、いますぐ召還させられない旨を諭したならば、必ず平穏に帰すと、公卿たち三十余名が連署して奏請したので、27日の朝議で寛大な処置が申し渡されることに決まりかけました。

怪気炎をあげる慶喜

禁裏御守衛総督だった一橋慶喜は、寛大な処置を申し渡すと聞いて大いに驚き、すぐさま参内(宮中に参上すること)して公卿堂上らを説得します。長州は表向き哀訴歎願を装っているが、すでに兵を率い武器を携えているのは、朝廷を脅迫するのも同然だというのです。

この日、長州勢は山崎、天王山あたりに陣を布きはじめ、機を見て兵を動かす気配を示していたのです。

もし、このまま歎願を許したのでは、どうして朝廷の権威を維持できるでしょう、と、慶喜は熱弁を揮いました。哀訴状は受理されたのだから、いったん退却のうえ、あらためて沙汰を待つべきではないか、というのです。そのうえで朝命を奉じない=退却しないならば、追討すべきだと主張します。そして、朝議が、この意見を用いないなら、臣(慶喜)は京都守護職松平容保、京都所司代松平定敬と共に、職を辞して京師を去るほかはありません、と、一座を睥睨した態度は、実に堂々たるものだったそうです。

反論は一言もなく、朝議は慶喜の説に決しました。しかし、実のところ幕府側にはアテに出来る兵力は乏しいため、確たる勝算はありませんでした。

討伐令くだる

7月1日(新暦8月2日)、幕府の大目付、永井尚志と戸川安包とが伏見に赴き、福原越後に「兵を退け」との朝命を伝えましたが、越後は言を左右にして従いませんでした。

京都南郊に布陣した長州勢と、京都守護職の会津勢との対峙は半月あまりも続きました。その間には様々なデマが飛び交い、流言に踊らされた者が松代藩の佐久間象山を暗殺しています。

幕府側が討伐に踏み切れなかったのは、兵力不足が理由です。御所警備の一部を担っていた薩摩藩などは、もし戦争になっても長州と会津の私闘だから戦わないというのです。

その後も水面下での政争は続き、長州系の公卿たちは18日を期して朝議を一変させることを企てましたが、これを中川宮朝彦親王が探知し、機先を制して朝議が開かれ、いよいよ長州勢の討伐を決しました。朝議が討伐を決めたとあれば、もはや私闘ではありません。薩摩藩も参戦を決めました。

蛤門の攻防

言語を同じくする日本人同士の内戦なので、互いに情報はダダ漏れです。追討令が発せられたことを偵知した長州諸隊は、先制攻撃を企図して、19日の夜明け頃、伏見、山崎、天竜寺の三面から一斉に押寄せました。

福原越後は伏見街道から入京しようとして大垣藩兵に撃退され、あらためて竹田街道から進もうとして、彦根会津の兵に破られ、越後は傷いて遂に敗走しました。

山崎方面から押寄せた真木和泉の浪士隊および久坂玄瑞等の一隊は、堺町門まで進んで越前兵に拒がれ、道を転じて鷹司邸に潜入しましたが、兵火が四方に起こると鷹司邸にも火がおよび、久坂らは猛火の中に奮闘して自刃し、真木和泉は敗兵をまとめて重囲を脱し、辛くも天王山に引上げました。

天竜寺を出た国司信濃は、中立売門に進んで筑前兵を破り、勢に乗じて蛤門の会津兵と戦って圧倒し、公卿門に迫りました。

公卿門の中は御所の心臓部です。紫宸殿の庭上に長州兵の弾丸が頻りに落下し、公卿堂上は四方に逃げ惑い、いまや天皇を安全な場所に移そうとしたとき、乾門を固めていた薩摩藩兵は、急を聞いて公卿門に駆け付け、西郷隆盛の指揮の下に大砲四門で長州勢に横槍を入れ、公卿門の危機を救い、蛤門を奪回しました。

国司信濃は軍旗と鎧櫃を遺棄し、わずかに身を以て免れました。その鎧櫃の中には、毛利慶親父子黒印の軍令状があったので、京都への攻め入りは一部藩士の暴発ではなく、藩主の了解を得た計画的な軍事行動だったことが露見してしまいました。朝廷は毛利慶親父子の官位を剥奪し、また、長州派と看做された公卿堂上の参朝を停め、他人との面会を禁じ、23日には長州征討の勅命が下されました。

この日の戦いの焦点となったのは、禁門(開かずの門)だったことから口を閉ざしたハマグリに見立てて蛤門とも呼ばれる門の攻防だったので、「禁門の変」、あるいは「蛤門の変」とも呼ばれます。

この戦いで京の町は戦火に焼かれ、灰燼に帰しました。このことは、いまも「どんどん焼け」と呼ばれて京都に語り継がれています。

禁門の変で、なにが起きなかったか

朝廷に仕える公卿堂上たちも、尊皇一色ではありません。朝議も右へ左へ揺れ動きます。なぜ朝廷が尊皇一色じゃないのか、公望少年の見解を聞いてみましょう。

幕府が腐敗したとはいへ、要するに三百諸侯の上に立つて秩序を保つて居る、そこへ持つて来て、脱藩の青二才やら、有志家とかいふ乱暴ものやら、さういふ者が集まつて幕府を倒すといつた所が、それはなかなか行くものではない、一たびさういふことをして秩序を破つたならば、幕府だけは倒れるかも知れぬが、その幕府の倒れた後に朝廷の力を以て三百諸侯を駕御することは思ひも寄らぬ、たとひ一たび取つた所が、すぐまた頼朝とか家康とか来ればまだよいが、或はあとが天下の大乱になつて、人民長く塗炭の苦みを受るかも知れぬ、苟も国を憂ふるものゝ実に寒心すべきであると、かういふことを正直に考へて居た者もあつたのです(西園寺公望【陶庵】著『陶庵随筆』p59~61より

たとえ幕府を倒せても、朝廷には全国政権を担うだけの力がなく、乱世を招くことになるかもしれない、という冷静な視点を持っていた人たちもいたからです。

もし禁門の変で長州勢が勝利していたら起きたであろうことは、公望少年が危惧したとおりのことだったと思われます。長州勢に御所を占拠されたら、幕府の権威は地に墜ちます。しかし、そのあとの政権を誰が担うのでしょうか。

このあと8月5日には、英仏蘭米の四ヶ国連合艦隊が長州藩領の下関を襲った馬関戦争がありました。もし、長州勢が禁門の変で勝っていたとしても、下関での大敗は免れないところです。京都を占領して全国の諸藩を従わせようとしても、三日天下に終わったことでしょう。

アイキャッチ画像:西園寺公望(出典:国立国会図書館デジタルコレクション

書いた人

1960年東京生まれ。日本大学文理学部史学科から大学院に進むも修士までで挫折して、月給取りで生活しつつ歴史同人・日本史探偵団を立ち上げた。架空戦記作家の佐藤大輔(故人)の後押しを得て物書きに転身、歴史ライターとして現在に至る。得意分野は幕末維新史と明治史で、特に戊辰戦争には詳しい。靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修をつとめた。