Culture
2021.05.07

実は旗本だった、柳亭種彦。江戸のベストセラー『偐紫田舎源氏』作者の生涯

この記事を書いた人

江戸時代は、出版文化が花開き、庶民向けの娯楽小説も多く出版されました。小説のストーリーはもちろん、葛飾北斎など、当時、人気の浮世絵師が描く迫力ある挿絵や口絵も読者の楽しみの一つでした。
江戸時代後期のベストセラー作家・柳亭種彦(りゅうてい たねひこ)の作品にも、北斎が挿絵を描いたものがあります。種彦と北斎とは22歳の年の差がありましたが(北斎が年上)、気が合い、親しく交流していたと言われています。

実は旗本だった柳亭種彦。作家活動は、副業?

柳亭種彦はペンネームです。本名は高屋知久(たかやともひさ)といい、天明3(1783)年5月12日に江戸で生まれました。父親は、小普請組(こぶしんぐみ)に属する200俵の旗本・高屋知義(ともよし)ですが、母親の詳細は不明です。

『戯作六家撰』(岩本佐七編『燕石十種 第1』 国書刊行会)より 国立国会図書館デジタルコレクション

14歳の時に父親が亡くなったため家督を継ぎ、23歳の頃、国学者・加藤宇万伎(かとううまき)の孫娘・勝子と結婚します。二人の間には、息子・甚之丞がいましたが、天保7(1836)年10月、種彦が54歳の時に20代半ばで早逝します。

真面目で、おっとりとして大人しい性格だった種彦。病弱で武芸は苦手でしたが、『古事記』『日本書紀』『万葉集』などの古典に基づいて古代日本の思想・文化を明らかにしようとした学問・国学のほか、狂歌、中国画なども学びました。歌舞伎好きで、役者のセリフの真似もうまかったそうです。

へぇ~! 芸達者だったんだなぁ。

種彦のペンネームの由来は、幼い頃に癇癪(かんしゃく)持ちだった種彦に父親が与えた教訓句「風に天窓はらせて睡(ねむ)る柳かな」とするものなど諸説あり、詳細は不明です。
種彦にとって、作家活動はあくまでも副業。本業の収入(=旗本の俸禄)があったからか、原稿料についても鷹揚だったと言われています。

現代じわじわ浸透しつつある副業。柳亭種彦はその先駆けだったのか!?

種彦と北斎の交流

創作に目覚めた種彦は、20代の頃から読本(よみほん/小説の一種)の作家として活動を始めます。
文化3(1806)年春、最初の作品『近世怪談霜夜星(きんせいかいだんしもよのほし)』を書き上げ(出版は文化5年)、翌文化4(1807)年には『阿波之鳴門(あわのなると)』を出版します。これらの種彦の初期作品の挿絵を担当したのが北斎だったのです!

柳亭種彦作、葛飾北斎画『総角物語 後編下巻』より 国立国会図書館デジタルコレクション

『総角物語(あげまきものがたり)』は、吉原の花魁・総角、総角の愛人の助六(実は、曽我五郎)、武士・髭の意休(ひげのいきゅう)が出演する歌舞伎の人気作品をもとに創作された物語です。前編が優遊斎桃川(ゆうゆうさいとうせん)画で文化5(1808)年、後編が北斎画で文化6(1809)年に刊行されました。北斎の挿絵は、劇画タッチで迫力満点。読者を物語の世界に引き込む役割を果たしていたことがわかります。

北斎が描いたのは浮世絵だけじゃないんだ!

種彦と北斎は、作家と挿絵画家という関係だけではなく、種彦が北斎宅に遊びに行くなどの交流があったことが種彦の日記にも記されています。種彦は、非常に個性の強い北斎の精力的な行動にいつも驚嘆し、敬服していたのです!

『北斎漫画 11編』には種彦が序文を書いており、北斎のことを次のように述べています。

画論に凝て筆のうこかさるは医案正しく匙のまハさるにひとし 古人の説を活動し疾を癒すそ 良医なるへき されは画人も亦然り 古法の縛縄をぬけいて花を画はうるハしく雪を画は寒く見ゆるを上手とこそはいふへけれ其人は誰独此翁にとゝめたり

出典:『北斎漫画 3』 葛飾北斎画 永田生慈監修・解説 岩崎美術社 1987年2月

「画論は立派でも、実践が伴わない人もいる。古い画法を抜け出て、物を生き生きと描ける人、ただ一人、北斎翁のみである」という記述からも、種彦が北斎の絵を評価していたことがわかります。
また、北斎の絵について、

真をはなれて真を写し実に一家の画道を開けり

出典:『北斎漫画 3』 葛飾北斎画 永田生慈監修・解説 岩崎美術社 1987年2月

と評しています。北斎の縦横無尽なイマジネーションは、時には「真から離れて」嘘を描くこともあります。しかし、それは、より真実に近づくための北斎独自のテクニックでもありました。種彦はそれを見抜き、理解していた一人であったといえるでしょう。

葛飾北斎画『北斎漫画 第11編』より メトロポリタン美術館

10編を刊行して完結したはずの『北斎漫画』ですが、人気が衰えないため、新たに10編追加して全20編にしようとする計画であることが種彦の序文に書かれています。
『北斎漫画 第11編』の序文に続く扉には、福禄寿(ふくろくじゅ)の大きな頭の上に唐風の衣装・髪形をした子どもが乗り、「新」という字を書いている様子を北斎が描いています。何となく、申し訳なさそうな顔をしている福禄寿の横には墨(すみ)・巻物(まきもの)・扇子(せんす)が置かれていますが、上の字をつなげると「すみません」と読むことができます。10編で終わるはずだったのに続きが出たことを詫びているのでしょうか? 北斎の遊び心が感じられる絵ですね。

歴史的な芸術家ってカタブツなイメージがあるけれど、ユーモア溢れる人物だったのですね!

大ヒット作『偐紫田舎源氏』は、天保の改革で絶版に!

読本の作家としてデビューした種彦ですが、成功には至らず、合巻(ごうかん)の作家に転向、人気作家となります。
文化年間(1804~1818年)以降、江戸では合巻と呼ばれるスタイルの読み物が流行。合巻は草双紙の一種で、絵の余白に文が自在に入りこむ、絵物語の形態が特徴の大衆向けの本です。

種彦が書いた作品の中でも、最大のベストセラーが『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』です。タイトルに「源氏」とあることからわかるように、平安時代に描かれた紫式部の『源氏物語』をもとにしながら、時代を室町時代に移し、さらには大奥の内実も描いたとされる作品で、女性たちの間で大人気となりました。

大奥の内実、確かに女性なら誰でも気になるっっ!!

柳亭種彦作、歌川国貞画『偐紫田舎源氏 四編上』より 国立国会図書館デジタルコレクション
絵の右側にいるのが、『偐紫田舎源氏』の主人公・足利光氏(あしかがみつうじ)です。

種彦にとっての幸運は、合巻で組んだ絵師が役者絵の巨匠・歌川国貞(うたがわくにさだ/後の三代目歌川豊国)だったことです。現在の劇画コミックともいえる合巻は、絵がとても重要。作者は簡単な下絵や絵の指示を描いて、本文を書き込みました。これを「稿本(こうほん)」と呼びます。絵師は、稿本にある作者の下絵や指示をもとに絵を描きます。国貞は種彦の制作意図を理解し、魅力的な絵を描きました。このコンビで大ヒットした合巻が、文政12(1829)年から刊行を開始した『偐紫田舎源氏』なのです! 種彦は、足かけ14年にわたり、38編152冊を執筆しました。

超ロングセラー!! 14年なんてすごい!!

しかし、天保13(1842)年、「天保の改革」により、『偐紫田舎源氏』は幕府から絶版・発禁処分を受けます。

病死、それとも自殺? 種彦の死のナゾ

天保8(1837)年4月、11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)は次男・家慶(いえよし)に将軍職を譲りましたが、幕政の実権は握り続けていました。
天保12(1841)年閏正月に家斉が没し、ようやく幕府の実権を握った12代将軍・徳川家慶のもとで、老中首座・水野忠邦(みずのただくに)が改革(天保の改革)に着手します。倹約令、風俗統制令を出し、物価を安定させる政策をとり、対外政策なども断行。とりわけ、歌舞伎と出版物は風俗を乱す大もとと見なされて、厳しく弾圧されました。

種彦の『偐紫田舎源氏』が処分を受けた理由は、華美禁止政策のなかで本が豪華すぎたこと、登場人物が将軍・徳川家斉と大奥をモデルにしているのではと疑いを掛けられたことによると考えられています。『偐紫田舎源氏』は、39編、40編の稿本が残されました。

種彦は、失意のまま、天保13(1842)年7月19日に亡くなります(60歳)。高島家は、息子・甚之丞が亡くなった後に養子とした弥十郎が継ぎました。
旗本であり、人気作家だった種彦の死因には、病死説、自殺説があり、詳細は謎に包まれています。

三代目歌川豊国「源氏五十四帖 夕顔 四」 国立国会図書館デジタルコレクション

嘉永5(1852)年、浮世絵「源氏五十四帖」シリーズが刊行されます。この作品は、弘化元(1844)年に師の号を継いで、豊国と名乗っていた国貞が、『偐紫田舎源氏』の構図をもとにカラー化して描いたものです。
種彦の死から10年を経てもなお『偐紫田舎源氏』の人気が衰えていなかったことがわかります。

参考文献

  • ・『国史大辞典』 吉川弘文館 「柳亭種彦」「偐紫田舎源氏」の項目ほか
  • ・『柳亭種彦(人物叢書 新装版)』 伊狩章著 吉川弘文館 1989年10月
  • ・『ビジュアル入門江戸時代の文化-江戸で花開いた化政文化-』 深光富士男著 河出書房新社 2020年4月

書いた人

秋田県大仙市出身。大学の実習をきっかけに、公共図書館に興味を持ち、図書館司書になる。元号が変わるのを機に、30年勤めた図書館を退職してフリーに。「日本のことを聞かれたら、『ニッポニカ』(=小学館の百科事典『日本大百科全書』)を調べるように。」という先輩職員の教えは、退職後も励行中。