幻の徳川新政権
大政奉還のあと、幕府にかわる新政権を築く構想が練られ始めました。幕府の洋学教育研究機関である開成所の教授、西周は、『議題草案』と題して、議会を基にした政権構想を示しています。
「議題草案」は、幕府開成所教授職を務めた西周が、徳川慶喜の側近であった平山敬忠に提出した意見書である。公議政体の樹立が求められる中、大政奉還(慶応3(1867)年10月)に引き続き幕府が取り組む政策として、会議制度の創設を提案している。
これまでの幕府は、老中による密室の合議で政策を決定していました。「議題草案」は公然の会議で政策を決める新政権構想の理念で、それを具体化したのが「別紙 議題草案」です。
「別紙 議題草案」は、上記に基づき作成された、徳川家中心の政体案である。西洋の官制に倣う三権分立を取り入れ、行政権を将軍が、司法権を便宜上各藩が、立法権を各藩大名および藩士により構成される議政院がもつこととしており、天皇は象徴的地位に置かれている。同年12月、王政復古の大号令により朝廷を中心とする明治新政府の成立が宣言されたため、この草案に基づく政治体制が実現することはなかった。
さて、なにが起きなかったかといえば、この幻となった徳川新政権の樹立です。なぜ実現できなかったかを考えてみます。
王政復古クーデターのあらまし
慶応3年12月9日(1868年1月3日)の朝、辰の刻というから午前8時頃でしょう、前夜から徹夜で朝議(朝廷の会議)に臨んでいた摂政、議奏、国事御用掛など、重立つ公卿たちが退出しました。
前大納言で明治天皇を養育した中山忠能、前大納言正親町三條実愛、正三位長谷信篤と、武家では前福井藩主の松平春嶽、前尾張藩主の徳川慶勝、芸州藩世子の浅野長勲らが御所に居残っていました。
そして、薩摩・土佐・芸州、尾張、越前(福井)の5藩が兵を繰り出し、御所を封鎖しました。それまで御所の警備に任じていた会津藩兵は、突然のことに驚いたのか、持ち場を明け渡しています。
反対しそうな者を排除し、意見を同じくする者だけで国家の命運を左右するほど重大なことを決定しようというわけで、いわゆるクーデターに該当します。穏健な松平春嶽や徳川慶勝までが兵を出して実力行使に加担しているのは意外に思えます。また、大政奉還の前に薩土芸の3藩で交わした密約が解消されるなど、行き違いがあったにも関わらず薩土芸3藩が相乗りするなど、一心同体とはいえない面もありました。そのことは、蹶起した公卿たちと5藩に、「共通の敵」がいたことを示しています。
藩主が集まらない
大政奉還があった10月14日から、当面は旧幕府による統治を続けていましたが、きたるべき新政権をどうするかが検討されはじめる一方、幕府の権力を回復させるべきだとする意見もありました。
朝廷は諸藩に対し、11月中に藩主を上京させるよう通達しました。朝廷を中心とする新政権樹立の基となる「公議」を形成しようとしたのですが、病気を理由に辞退する藩が続出、ろくろく集まりません。
来ないと言えば、大政奉還の趣旨説明があった席上で、隠れたファインプレーをした薩摩藩の小松帯刀も、いったん帰国したあと病気になり、京都へ出て来られません。その帯刀の考えは
一日モ早ク御上京之名侯丈ケ御会議相始リ、至公至中之大本相立候ヘハ、其上誰彼物数奇立テノ出来候モノニモ無之、
一日も早く、上京した諸侯だけで会議を始めてください。妥当な線で骨組みをつくってしまえば、あとからツベコベいわれたりしないでしょう……
おおよそ、そんなことをいっていたと、京都政局の中心にいた春嶽は伝え聞いていました。
そうはいっても在京の藩主はあまりに少なく、とてもではないけれど、朝廷が「公議」を形成したとは言い難い状況でした。大政奉還の趣旨に賛成しない藩主も少なからずいたからです。幕藩体制が存続したら老中になれるかもしれない譜代藩の多くがそうでした。
11月5日、江戸では親藩と譜代の藩士らが集まって、徳川家への忠義を貫き、幕府を支え続けることについて論議しました。
○徳川茂承ノ家臣、江戸ニ在ル者(榊原耿之介、竹内孫助謀主ト為ルト云)、幕府ノ親戚譜第、及ヒ諸藩士ヲ其邸ニ会シ、徳川氏ト君臣ノ義ヲ全フシ、幕府ヲ扶持センコトヲ勧喩シ、且其意見ヲ問フ。
このとき論じられた内容を知らされた水戸藩主の徳川慶篤(慶喜の実兄)は、以下のような賛同の意を表しています。
方今之形勢ニテハ、億兆之民殆水火之中ニ陥リ候哉モ難計候間、機会不相失、列藩麾下ヲ及糾合、幕府之御威権ヲ奉恢復、厚ク敬上推戴之道ヲ尽シ、王室ヲ泰山ノ安ニ奉置候様仕度、是則、 幕府ハ申迄モ無之、御親藩中同心協カ、皇国へ奉報候大義ト奉存候事。
このままでは(戦乱が起きて)国民が苦しむ事態になりかねず、この機会に(守旧派の)諸藩と旗本を糾合して、幕府の権威を恢復させるべきではないか。その方が皇室も(急進派に頼るより)安泰だ、というのです。
11月26日には越後高田藩主の榊原政敬が召命辞退を幕府に願い出たうえ、辞退が許可されない場合は官位を返上し(朝廷から見て)陪臣の列につくことを申し入れました。陪臣の列につくとは「朝廷の臣下にはなりません、あくまで徳川家の臣下として扱ってください」という意味です。朝廷→徳川家→榊原、という段階を踏んで欲しい、要するに朝廷から直接命令を受ける立場にはなりたくないことを表明したのです。
こうした動きを見ながら、それでも京都へ行こうとする藩主は、ほんの一握りにすぎません。朝廷のもとで「公議」を形成することに失敗したのは、守旧派の巻き返しがあったからでした。なにせ「公議」を形成できないのでは、議題も草案もあったものではない。せっかく西周が策定した新政権構想は、日の目を見ませんでした。皮肉なことに、慶喜を首班とする新政権構想は、本来なら徳川家を支えなければならないはずの親藩・譜代諸藩によって潰されたのでした。
クーデター前日
会議に出て意見を表明するのはイヤだけど、出席した人だけで決めたことには従いたくない。そういう人、現代にもいっぱいいますよね。大政奉還についても、慶喜が直々に趣旨を説明し、「意見があるなら聞こう」といって、その機会を設けましたのは、【大政奉還の回】で述べたとおりです。その機会に面と向かって異論は出さず、あとになってから反対した守旧派は、現代の国会に喩えるなら、審議拒否→議論が尽くされていないのに採決を強行したといって抗議する、そんな構図に近いといえるでしょう。
禁門の変で朝敵になった長州藩を赦免することは重要なので衆議を尽くさねばならず、欠席戦術を駆使する諸藩を無理にでも出席させることが必要でした。
12月8日、朝廷は長州藩赦免に関する件および英国公使パークスの兵庫近辺を非武装化する要請に関し、「意見あらば書面で差し出せ」と命じました。ことに長州赦免問題については赦宥書案を提示したうえで、当日中にその可否を即答せよと迫りました。ボイコット戦術を封じるため、強制的に「衆議」を尽くそうとしたわけです。
その場には徳川慶喜、松平容保、松平定敬の一会桑トリオも呼ばれていましたが、三人とも病気を理由に欠席です。一会桑については【大政奉還の回】を御参照ねがいます。
諸藩からの回答書は、その多くが「容易ならざる事なので、お答えいたしかねます」というものでしたが、少なくとも異論は一つも出ていません。長州藩との因縁がある会津・桑名両藩は欠席で、回答書も出していませんが、ともあれ「衆議を尽くした」体裁は整ったので、西宮に滞在中の長州藩一行に赦宥書が届けられました。
クーデターは秒読みへ
長州藩赦免を決めた朝議が散会したあと、薩摩・土佐・芸州、尾張、越前の5藩の兵が御所を封鎖する手筈でした。そのとき御所にいた芸州藩世子の浅野長勲は、以下のように回想しています。
予て長防処分は追て天下の侯伯を召されて議せらるゝ旨仰出されたるに基き、即ち本日二條関白より侯伯を宮中へ徴集せられ、余も夕刻より参朝したれども、既に明日は復古の大改革を行ふ决心なる故、此会議も全く不得要領にて散会と相成りました。尤同志の諸侯は何か打合せ等にて夜更るまで居残りたりしに、二條関白は大に之れを怪みて、退朝なかりしかば、同志の者強ひて関白を退朝せしめ、是より一先づ旅館へ引取りたる向もありしが、余は此儘朝廷にて夜を明かしました。
長州藩赦免という大きな目的が果たされた会議の様子を「まったく要領を得ず」というのは、よほど以後のクーデター決行に気を取られていたのでしょうね。
時間の感覚もズレているようで、実際には徹夜で朝議が続いていたので「朝廷にて夜を明かし」ではなく、すでに夜は明けていました。
居残り組を怪しんだ「二條関白」は、孝明天皇に関白として仕えたあと、明治天皇の摂政となった二條斉敬のことです。おそらくクーデターの情報は漏れ伝わっていたでしょうが、もはや食い止める手段がなかったといったところでしょうか。
同じ頃、松平春嶽は衣冠のまま、二條城に入りました。明治以前は、訪問先に合わせた礼装を着るのが基本的なマナーでした。衣冠は御所に参内するときに着るもので、武家社会である二條城へは肩衣を着て行くべきです。このとき春嶽は着替える余裕がなかったのでしょうが、守旧派の目には「もはや武家社会を見限って朝廷の側に立った」と見えたようです。春嶽は朝議の様子を老中まで内々に伝えましたが、そのとき城内は殺気立っていて、
実に今考へても、戦々兢々可畏、毛髪竦然肌生粟候
「戦々兢々」も「竦然」も、ひどく恐れる様子を表す言葉です。鳥肌が立つほど春嶽は恐怖を感じていたのでした。
将軍家の御家門である越前松平家の春嶽のことですから、城中には顔なじみが大勢いて、それでいながら裏切り者扱いとは、ずいぶんと哀しかったことでしょう。
クーデター第一段階
いよいよ当日、薩摩・土佐・芸州、尾張、越前5藩が兵を繰り出し、御所を封鎖しました。それまで御所の警備に任じていた会津藩兵は、無抵抗で持ち場を明け渡しました。これは前夜から御所に居残っていた正親町三條実愛、長谷信篤、徳川慶勝、浅野茂勲(のち長勲と改名)、松平慶永らの手配りによることです。
その後、熾仁親王(太宰帥○有栖川宮)、晃親王(常陸大守○山階宮)、入道純仁親王(御室宮)、中山忠能、中御門経之、岩倉具視、大原重徳(宰相)、万里小路博房(右大弁宰相)、橋本実梁(少将○実麗の子)が参内して朝議を開き、保留されていた征夷大将軍の辞職願を許可します。
○徳川慶喜へ達書
辞将軍職之事、被聞召候事(春嶽私記)
大政奉還以後、暫定的に慶喜への政権委任を継続させてきましたが、それを終わらせることを意味します。もはや征夷大将軍は存在しません。そして、摂政の二條斉敬に対しては、摂政職の廃止を申し渡しました。
○二條斉敬へ達書
王政復古ニ付、摂政職被廃候事、
王政復古ニ付、御沙汰有之候迄、参 朝被止候事、
摂政、関白、内覧等、自今被廃候事、
勅問御人数被止候事、
門流被廃候事。
(二條斉敬家記)
ここで「王政復古」という言葉が出て来ました。平安時代に藤原基経が関白となって以来、およそ1000年も続いてきた摂関制度をも廃止し、それ以前に戻すのが「復古」だというのです。そして摂関制度に代わって、総裁・議定・参与の三職を設けるというのが王政復古の第一に掲げられた施策でした。
さらに、京都守護職と京都所司代をも廃止のうえ、松平容保と松平定敬に帰国を命じます。
○松平容保、松平定敬へ達書
思食有之候間、早々帰国、可待 御沙汰候事。
但、禁門始メ固之儀被免候間、早々人数可引取候、且 王政復古ニ付(守護職、所司代役)、自今被廃候事。(嵯峨実愛手記)
このあと、「会藩ハ兵ヲ率ヰ、御門外マテ来候故、直様御門ヲ鎖候処、空シク引去候」(『復古記』第一冊p228)というような一触即発の危機もありました。
クーデター第二段階
ともあれ御所は5藩の兵に固められ、守旧派を閉め出したうえで、夕刻には公卿・堂上のほか在京の諸侯とその重臣らを加えて小御所で会議が開かれました。小御所会議に臨席した浅野長勲は、以下のように回想しています。
予の一生中、慶応三年十二月九日、王政復古の大号令を発せられた小御所の会議ほど感銘の深いものはなかつた。御前会議の有様を御咄すると、先づ正面には高御座に、孝明天皇出御あらせられ、親王及び公卿の役員(有栖川宮、山階宮、仁和寺宮、中山前大納言、正親町三条前大納言、中御門中納言等)は二の間、右側西向に衣冠にて正列し、武家の役員(尾張前大納言、越前宰相、島津少将、土佐前少将、安芸新少将等)は、左側東向に、これ亦た衣冠にて列を正す。三の間には、諸藩の重臣、肩衣にて之に列した。
安藤徳器 編『維新外史』所収(「浅野長勲侯の懐旧談」p198~199より)
親王や公卿は無論のこと、大名も衣冠を着て参内していますが、山内容堂は旅装のままだったといわれ、明治天皇に献上された聖徳記念絵画館壁画「王政復古」(島田墨仙画)では、居並ぶ諸侯のなかで、天皇の御前であるにもかかわらず、容堂だけが肩衣を着て臨席している様子が描かれています。容堂は酒気を帯びていた、あるいは泥酔していたともいわれますが、服装からして正気の沙汰とは思えません。
稍々あつて山内豊信進み出で、此の会議には徳川内府(慶喜)も之に列せしむべしと述べた。大原三位、異議を唱へ、徳川内府の真意解し難きに依つて、出席は宜しからずと述べたのである。山内容堂は、前説を固く執つて激論に及び、陛下に対して不敬の言もあつたから岩倉具視卿、大喝一声、其の不敬を叱責し、山内もそれを謝した。
安藤徳器 編『維新外史』所収
(「浅野長勲侯の懐旧談」p199より)
沈黙を破ったのは豊信=容堂でした。この会議に徳川慶喜を加えるべきだと主張し、公卿の大原重徳は「慶喜の真意がわからない」として反駁、つい先刻復権したばかりの岩倉具視も慶喜の参加を拒んで容堂と激論に及びました。
容堂の不敬の言とは「幼冲の天子」と思わず口から出してしまったことを指しているのでしょう。「幼い君主を傀儡にするつもりか」と言いたかったのだろうと察しますが、近年に満12歳で将軍職を継いだ徳川家茂の例がありながら、そのとき満15歳だった明治天皇を「幼冲の天子」と呼ぶのは、たしかに無理筋です。
ほかにも容堂の暴言は数々ありますが、一つ挙げると、王政復古クーデターを「暴挙」と呼んだのは身も蓋もない話です。なにせ容堂自身がクーデター計画に相乗りして兵隊まで出しているのですから「いまさら何をいいやがる」と、同席した一同は思ったことでしょう。
容堂が様々な暴言を吐いたことは各種史料に共通して現れるので間違いないのですが、その失言をとらえて議事進行の流れを変えたのが岩倉具視であったとするのは根拠となる史料が乏しいのでアヤシイです。ここではひとまず「浅野長勲侯の懐旧談」に従います。
そこで岩倉卿が自説を開陳し、予は島津少将と共に、其の説に賛同して論争した。各重臣は各々其の主人を援けて甲論乙駁、深更に及ぶも何時止むとも思へなかつた。で、中山大納言、一先づ休憩を命ぜられ、夫々引取つた
安藤徳器 編『維新外史』所収
(「浅野長勲侯の懐旧談」p199より)
容堂の失言を咎めた具視は攻勢に転じましたが、容堂は一歩も退きません。容堂の奮闘は、酔った勢いもありそうに思えますが、宮中での御前会議は当然ながら禁酒ですから、やがてガソリンは切れます。休憩が宣言されたことによる時間の経過は容堂の勢いを削ぎました。
此の時西郷隆盛は軍隊の任に当つて席には居らなかつた。が、薩土の激論を聞いて、唯だ之れあるのみと短刀を示したさうだ。予は休憩所ヘ退る時、岩倉卿に一室へ導かれ、薩土の軋轢から維新の盛業も水泡に帰せんことを恐れ、後藤象二郎を説諭せよ、と依頼された。
予は之を承諾し、其の旨を辻将曹に申聞け、直ちに後藤の休憩所に参つて説諭したが、容易に聞き入れず、漸く会議の席上に於ては自説を述べぬと答へたから、豊信へも此の事を通ぜられん旨を約して復命し、再び御前会議を開き夫々議題を議了して首尾よく閉会した。
安藤徳器 編『維新外史』所収
(「浅野長勲侯の懐旧談」p199~200より)
豊信は容堂の実名です。具視の根回しは後藤象二郎に対してでした。再開後の会議では長勲に説得された象二郎が沈黙し、容堂は勢いを失っていました。
西郷隆盛の短刀云々は、実をいえば確たる史料に記されたことではありません。長勲の回想にしても、「短刀を示したさうだ」ということを伝え聞いたのであって、直接見聞きしたのではありません。ガス欠か、短刀か、どちらが容堂を鎮静させたのかは、あえて「歴史の謎」としておきますが、短刀ごときでビビる容堂ではないと思いますよ。
当日臨席していた春嶽は、違う様相を伝えています。失言で紛糾したことよりも、よほど重要なことがあったのです。
徳川内府公御辞官、並御領地御献納可有之儀ニ御僉議有之、結局、尾、越両老侯御引受ニテ、明日条城へ御出御、辞職被聞召旨ハ、公ヨリ御伝達、御官禄之御両条ハ二候御含ニテ、徳川内府公ヨリ御内願之筋ニ相成候様、御周旋可有之トノ御決議ナリ
徳川内府とは慶喜のことで、征夷大将軍の辞職が認められたので内大臣=内府と呼んでいます。その内大臣を辞したうえ、徳川家の領地も献納しなさい、という御無体な要求です。それを尾、越両老侯(徳川慶勝、松平春嶽)から慶喜に伝えることを決議しました。この議題こそ根幹であって、失言云々は枝葉です。むしろ、この議決を阻止すべく、容堂は暴言連発で会議を紛糾させたのかと勘繰りたくなります。
土佐藩の事情
慶喜に大政奉還を建白したのは、ほかならぬ土佐藩でしたが、その土佐藩にも大政奉還に否定的だった守旧派が少なからずいました。
時局は恰も懸崖の瀑布の如く、咄嗟に急転直下せり、此年十月十八日、藩士望月清平帰国して、大政返上の建白、全く其の目的を達せし事実を報告し、且つ朝廷より侯を召すの勅命を伝えぬ、是に於て上士中の大半を占めたる、守旧派の者共は大に驚き、忽ち蹶起して同志を募り、多人数連署して藩庁に迫り、侯の旨に反抗するに至る、
このとおり、土佐藩とて一枚岩ではなく、分裂抗争に及びかねない危険をはらんでいたのでした。土佐の守旧派が槍玉にあげたのは、急進派の乾退助(のち板垣と改姓)でした。
彼等は乾の江戸に在りて、浪士を築地の藩邸に囲ひ置きたるのみならず、他日之を討幕の先鋒たらしめんとせりとて、現に浪士に与へたる一通の書翰を獲て之を証拠とし、乾に割腹申付らるベしと、藩庁に迫ること甚だ急なり、当時侯の左右に、西野彦四郎なる者あり、窃に乾の許に来りて其の実否を問ふ、乾初て口を開き曰く、我曾て帰国の際、京都にて老公に其の儀を申せしに、之を鎮撫し置く様にとの、内旨を受け居れりと、西野為めに之を侯に言上しければ、侯忽ちうなづかれ、其の一言は余も記臆せり、彼は粗暴の挙動、尠なからぬ男なれど、正直にして少しも私心なし、余は决して彼を殺さしめずと、抑も侯の士を愛するの深き、亦其の己と意見を異にせるや否を問はれざるなり、
退助が築地の藩邸に囲っていた浪士とは、のちに薩摩藩邸へ拠点を移して暗躍する、相楽総三ら関東の志士たちでした。ああいう危険な活動家を囲っておくのは、容堂の意に沿わないことだったでしょうが、「余は决して彼を殺さしめず」と言い切っているのは良い殿様ぶりです。退助は失脚しましたが、切腹までには至りませんでした。
こうした御家の事情があって、容堂は守旧派も納得出来るような決着を望んだがゆえに小御所会議で奮闘したのでしょうね。
辞官納地とは
結局のところ、小御所会議で新政府から慶喜に対して「辞官納地」が要求されることが決まりました。辞官は、慶喜の内大臣の官位を返上すること、納地は徳川家の領土を朝廷に返還することです。
古代には「王土王民」で、土地も人民も全部が朝廷の財産でした。その大原則に立ち返るのが「王政復古」だとすれば、将軍も大名も土地と人民を朝廷に返還するのが理屈ではありますが、それを慶喜にだけ要求するのか、という問題もありました。三百諸侯の領地を削って朝廷に献納するとなると、発足したばかりの新政権には受け皿がありません。
このあと、辞官納地の条件闘争に移行していくのですが、新政府と慶喜との交渉に、脇から痛烈な野次を飛ばす守旧派こそが油断ならぬ存在です。新政府側にも守旧派にも頭に血がのぼった人たちが多くいて、なかなか簡単には収まりそうもない形勢だったのです。
そのころ二条城では
二条城に詰めていた高家旗本の大沢基寿は、城内の緊迫した様子を「談話」として伝えています。
十二月九日に御所の九門は薩長に渡し、京都の見廻りなどは愈々始まったと申していますと、会桑の藩士などは小具足で抜身の槍を持ち二条の御城へ参りました。日没になってから高家だけは御所へ参ることも差支えがあるまいと申して参りましたが通しません。勅使が来ると申しますから、迎えに参らなければならんと申しますと、板倉さんが勅使は勅使だが尾州公だから関係せんでもよろしいと言いながら、手箱の中から白木綿の二尺ばかりあるのをくれまして、尾州公とは本末の間なれど、次第によれば斬るかも知れない、夜分ゆえ白の鉢巻とせよと言われました。
(柴田宵曲 編『幕末武家の回想録』角川ソフィア文庫158 令和2年 所収「高家の話」p159より)
見廻組は「いよいよ始まった」と言い、会津・桑名の藩士らは武装して二条城に入ったとのことで、すでに臨戦態勢です。
高家は諸礼式を司る家柄でした。幕臣のなかでは最も深く朝廷と関わりますので、勅使が来るとなれば出番のはずでしたが、勅使といっても(将軍家とは親戚の)尾張の徳川慶勝だから出ないでも良いとのことでした。「次第によれば斬るかもしれない」といった板倉は、老中の板倉伊賀守(勝静)です。慶勝は勅使として、小御所会議で議決されたことを明日には伝えると予告しに来たようです。(『復古記』によると「辞官納地」の要求は10日に伝えられています)「次第によれば斬る」つもりとあっては、さぞや殺気が横溢していたことでしょう。
それから方々を気をつけますと、衝立の蔭も縁の下も人が大勢隠れていました。しかし尾州公は穏かに御談話にてお帰りになり、何事もございませんでしたが、その前後の軍評定と申すものは実に盛んなことで、大久保主膳正(忠恕)、高力直三郎、近藤勇などは激論を致し、松平隠岐守(勝茂)の嫡子の伊予守(定昭)などは主戦論で戦うべし、しかし一方の口を開けば天子様はお避けになる故、薩長はやってしまえと申され、慶喜公の御寝所へ参りお起し申し、御出座がなければ本末の関係も今日限りとまで論じられましたが、慶喜公には少しもお聞き入れがございませんでした。
(柴田宵曲 編『幕末武家の回想録』角川ソフィア文庫158 令和2年 所収「高家の話」p159より)
二条城の守旧派は、ほとんど爆発寸前だったのです。「御所を攻めるのに、一方を開けておけば天皇は脱出するだろうから、やってしまおう」という粗雑な計画では、長州が踏んだ禁門の変の二の舞です。御所に向けて発砲したら、朝敵の汚名は避けられませんからね。そういう強硬論に慶喜は少しも耳を貸さずにいました。
長い一日の終わりに
なんとか辞官納地を決議して、小御所会議は閉会しましたが、薩摩と土佐との間に生じた軋轢をどうするか、また、無茶な要求をつきつけられた慶喜がどう出るか、問題山積しています。長かった一日が終わろうとするとき、具視は長勲を呼び留めました。
岩倉卿は又た予を別室に招かれて申さるゝには、会議も滞りなく済みたれど、薩土の軋轢に就て将来甚だ憂慮に堪へず、他の役員は皆な退出したけれども、予は差向ひで、終夜酒を汲み文はして互に前途の事を協議致した。其の時の食器たるや、田夫野人の用ゐる所の粗末な陶器で、其の肴は田作り、焼豆腐位に過ぎなかつた。酒も宮中に於ては用ゆることが出来ぬ事になつて居たので、吸物椀に入れ幾度も代へて飲んだ。当時、如何に朝廷の衰微して居たかと云ふことは、之れでも解つた。後年、岩倉卿は右大臣となられ、往時を忘れぬため余に同様な食器を贈られたので、今に大切に保存して居る。
禁酒が建前の御所のなかで、コッソリ酌み交わした酒は、大名の目からすると粗末な酒肴だったようですが、歴史的大事業に参画した一人となった感慨を抱いて飲む酒は、格別な味わいだったことでしょう。
後年になってからですが、長勲は当時の慶喜の胸中を窺い知る機会がありました。
其後内府の心事に感ずることあり爰に聊か附言致します。夫れは二条城退去の前日尾張前大納言、越前宰相が内使として入城したる際、内府が両卿に語られたるには、城兵共動もすると城塀の矢玉口を開き、大砲を皇居へ向けるに付、時々見廻り幾度となく之を制し、矢玉口を塞ぐと雖も、最早制すこと叶はず、若し皇居へ発砲するが如きことあらば、実以て相済まず、仮令不忠なり朝敵なりと言はるゝとも、此城を退去すべしと、両眼に悲涙を流されたる由、尾越両卿より窃かに漏れ聞きましたが、之れに依て推思するに、内府か此際の行為は全く幕府内の一致せざるより本志に非ざる困難の事情もありしならん乎、
慶喜には朝廷に弓引くつもりは全くなかった。けれども、それを臣下に納得させることが出来ず不本意な結果を招いた、という真相を長勲は漏れ聞きました。幕府権力の恢復に固執した守旧派は、徳川新政権構想を潰しただけでなく、なお慶喜に苦難をもたらし続けていたのです。
不本意といえば長勲もです。ここまで新政府発足に貢献したのに、維新後は薩長土肥の後塵を拝することになりました。芸州が勝ち組から脱落した事情については、「鳥羽伏見の戦い」で御案内します。