ふと、考えた。
どうして戦国時代は、こんなにも人を魅了するのだろうか。
ドラマでいうなら、来週の展開が待ち遠しい、早くその続きを見てみたいという感じ。戦国時代には、そんなワクワクする「期待感」があるのに。ほんの少し先の江戸時代では、不思議と、それが幻のように消えてしまう。徳川家康には大変失礼な話なのだが。江戸時代には、胸躍る高揚感がまるでない。
なぜなのか、その理由を挙げてみる。
まずは、戦国時代という特殊な環境に1点。「下剋上」と聞こえはいいが、実際は戦乱続きの混沌とした世の中。徳川一強の出来レースが通じる江戸時代とはワケが違うのだ。だからこそ、誰もが忠義と裏切りに胸を震わす。それは、後世の我らとて同じコト。
加えて、戦国の世に必死で生きた武将の彼らにも1点。
天下取りの野望に振り回されるあたりが、なんとも妙に親近感が湧く。目立つ濃いキャラも、陰気臭い影キャラも全てひっくるめて。彼らの多様性がパズルのピースのようにハマるから面白い。その泥臭い人間模様がたまらないのである。
さて、そんな戦国武将たちの不思議な人間関係に焦点を当てるのが、この企画。
今回選んだのは、大物2人。
1人は、かつての主君の死で掴んだ「運」とズバ抜けた「行動力」で、天下をまんまと手中に収めた男。まさに、下剋上を体現した天下人である「豊臣秀吉」。
そして、もう1人はというと。
そんな秀吉と切っても切れない、もう1人の天下人。
江戸幕府の礎を築き、秀吉とはまた違う結末を迎えた「徳川家康」である。
彼ら大物同士のやり取りは、意外にも、数多く残されているのだが。
その中から、今回は、豊臣秀吉が語る徳川家康の人物像について。その驚きの内容をお伝えする。
天下人は、もう1人の天下人を、どのように評価したのだろうか。
それでは、早速、ご紹介していこう。
昔の秀吉は、家康をなめていた?
豊臣秀吉と徳川家康。
この2人のやり取りは、これまでにも数多く取り上げてきた。歴史を振り返れば、基本的には、互いを尊重しているような複雑な関係といえなくもない。それぞれ勢力を削り合っている間に、漁夫の利の如く、横から天下をかっさらわれる。そんな事態だけは避けたいとの思惑が共に働いたとも。
ただ、最初からそうかというと。
一度は両者が真正面から対峙して、相手の実力を十分に見極めたからこそ。
それが、天正12(1584)年3月から始まった「小牧・長久手の戦い」。
2人といっても。正確にいえば、豊臣秀吉(当時は「羽柴秀吉」)に対して、徳川家康は織田信長の次男である「信雄(のぶかつ)」との連合軍なのだが。
このような構造になったのも致し方ない。
というのも、秀吉、家康、共に戦いの目的が異なっていたからだ。
事の発端は、天下取りまであと一歩のところで、「本能寺の変」により自刃した織田信長の存在にある。主君亡きあと、秀吉は、この信長の次期ポストへと積極的に手を伸ばす。信長の宿老であった柴田勝家を「賤ケ岳(しずがたけ)の戦い」で制し、その勢いに乗って、信長の次男である「信雄」も退けたいところ。
一方で、家康からしてみれば。
ようやく今川氏から独立し、多くの犠牲を払って織田信長との関係もここまで維持してきたのである。その甲斐あって、領土も少しずつ拡大し、武田家滅亡で再チャンス到来。そんな矢先に、信長自刃。ここは、なんとしても広げた自領を守りたい。秀吉の三河(愛知県)進入を、是が非でも食い止めたいところ。
こうして、両軍は、ぶつかり合う。
全体的にみれば、兵力差では秀吉軍が優勢であったのだが。戦いを1つ1つみていけば、「長久手の戦い」では、秀吉側の池田恒興(つねおき)や森長可(ながよし)などの名将らが討ち取られ、徳川軍が大勝利。
ここで、家康は深追いせずに兵を引き、両者は膠着状態に。
結果的には、秀吉と連合軍の1人である信雄とが和睦。家康も、これを受け入れざるを得ない結末となった。
さて、そんな「小牧・長久手の戦い」でのこと。
『徳川実紀』によれば、ちょうど、家康が小牧山に本陣を構えたところで。秀吉側の動きが見えたという。どうやら、相手方は堀を掘って柵を作っている様子。
はて。
堀と柵……。
家康には、何やら引っ掛かるものがあった。まさしく、デジャヴ。どこぞで見た光景なのかと、記憶の糸を手繰り寄せると。
織田信長と共に、武田勝頼(かつより)率いる武田勢と戦った「長篠の戦い」の場面が甦ってきたのである。堀と柵の作戦は、こちらが立てたもの。もちろん、勝頼の性格を予め知ってのコト。そうと分かれば、秀吉側の考えがはっきりと読める。一体、何を思って堀と柵を用意しているのか。
自然と笑みがこぼれる家康。
といっても、愉快というよりは、自虐的な笑いなのだが。こうして、家康は、秀吉をこのように評したという。
「『勝頼はむこうみずな若者であったため陣列を崩して攻めかかり、こちらは用意して待ち受けていたことなので思い通りに引き付け、鉄砲を盛んに撃って動けないようにし、苦労せずに勝利した。今、秀吉はその古い知恵を用いて柵などを作っているのだと思われる。したがって貴殿(信雄)と私たちを、勝頼と同じ程度の相手と考えているのだろう』」
(大石学ら編『現代語訳徳川実紀 家康公伝3』より一部抜粋)
あまりにも、我らをなめすぎている。
そんな思いが家康にはあったのか。
家康は、秀吉を笑ったという。
「生き大黒天」と評したその理由とは?
さて、笑われた秀吉はというと。
どちらかといえば、一貫して、徳川家康に一目置くような感じ。
ただ、これが事実かどうかは難しいところ。だって、江戸時代を築いたあの徳川家である。歴史的な資料の中に、彼らに対する悪し様な言葉など、果たして後世にそのまま残すだろうか。当然ながらある種の検閲がなされていれば、残された資料から、秀吉の本音はなかなか導き出せないかもしれない。
もちろん、彼らのやり取りは、そのままでも十分に面白い。いわゆる「大人の事情」が絡み、たとえ互いの立場から修正が入っていたとしても、後世では1つの読み物として楽しめるのである。
今回、ご紹介するのは、秀吉が家康について語った内容について。
出典は、『徳川実紀』より。
ここでは、秀吉が家康に直接語るのではなく、又聞きしたような形になっている。
カギとなる人物は、豊臣秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)である「曽呂利伴内(そろりばんない、新左衛門とも)」。
御伽衆とは、簡単にいえば、特殊な経験や知識を持って、主君の雑談の相手をする者たちだ。噺(はなし)上手な者も召し抱えられていたというが、この曽呂利伴内もその1人。一説には実在しないとも。それほどまで、キャラクター的に人為めいた部分があるのだろう。
そもそも、伴内は秀吉の御伽衆なのだが。
徳川家康の屋敷にも出入りすることがあったようだ。家康にも、どうやらご自慢の話芸を披露していたという。
そんなある日のこと。
伴内は家康に「大黒天」の話をする。
大黒天といえば、七福神の1人というイメージが一般的。もともとは天台宗の祖である「最澄」により、日本にもたらされたのだとか。当初は台所の守護神という存在であったが、いつしか「福の神」として祀られることに。そのトレードマークは、頭巾(ずきん)、そして、左肩には大袋、右手には小槌(こづち)、足元には米俵というもの。
具体的な話の内容は、この大黒天のスタイルについて。
伴内曰く、生きていく上で、人間に欠かせないモノが食物。だから、大黒天は「米俵」を踏んでいる。けれども、食物のみならず財だって必要。だから「大袋」を持ち、無用の事には費やさないぞと、袋の口を手でくくっているのである。一方で、財を出さねばならない場合もある。そこで「小槌」を持ち、時には惜しげもなく財を打ち出すのだと。
そして、重要なのは、大黒天の「頭巾」。
伴内の言葉はこうだ。
夏冬変わらずに、大黒天が「頭巾」を被っているのは、己の身分を忘れて上をみてはいけないという「戒め」のため。つまり、このような心構えを持てば、誰しもが福禄を長らく保つことができる。だから大黒天は「福の神」といわれるのだと。
これに対して、家康の返した言葉は。
「『お前が言うことは、確かに意を得ている。しかし、大黒の極意というものを、まだわかっていない。聞かせてやろう。(大黒は)いつも頭巾を被っているけれど、ここで頭巾を脱がなくてはならない時であると思えば、その頭巾を投げ捨てる。上下四方から目を配り、少しでも邪魔なものをなくすために、いつもは被っているのである。これが大黒の極意である』」
(同上より一部抜粋)
この言葉に、伴内も納得。
ふむふむと、このやり取りを頭の中でメモって。早速、秀吉に披露したという。
すると、また憎いことに。
今度は、秀吉が伴内にこのような言葉を返したという。
「太閤(秀吉)が、『今の世にも生身の生き大黒がいるのを知っているか』と尋ねられた。伴内が知らないというと、太閤(秀吉)は、『生き大黒とは徳川のことよ。お前たちの思惟の及ぶところではない』と言われた」
(同上より一部抜粋)
いいねえ。
秀吉が、家康を認めるなんてあたりが。たまらなくいい。
それにしても、伴内の話の中で。
「大袋」の口を左手でぎゅっと持っている部分。一瞬、吝嗇家として有名な家康を皮肉っているのかとも思ってしまったが。そうではないようだ。
ここで重要なのは「頭巾」について。
家康からは、無言の圧力が感じられる。
俺だって、やられっぱなしじゃあないぜ。上を狙う気がないワケじゃねえ。いつだって、必要なら頭巾は脱ぎ捨てちまう覚悟があるってもんよ的な。
その真意を分かっている。
だからこそ、秀吉は家康を「生き大黒天」と評したのかもしれない。
最後に。
「生き大黒天」といわれた家康だが。
事実、彼は、来るべき時に。
躊躇なく「頭巾」をさっと脱いで。
思いっきり、天に向かって投げ捨てた。
もちろん、それはずっとずっと、後の話。
秀吉の死後。
「賽」のみならず、「頭巾」も投げられたのである。
参考文献
『現代語訳徳川実紀 家康公伝3』 大石学ら編 株式会社吉川弘文館
『戦国合戦地図集』 佐藤香澄編 学習研究社 2008年9月
『家康の家臣団 天下を取った戦国最強軍団』 山下昌也著 学研プラス 2011年8月