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2021.06.30

リアリズムで読み解く東北・北越戦争。列藩同盟は誰のために何を目指して戦ったのか

この記事を書いた人

はじめに

戊辰戦争は戦国乱世の支配地域の奪い合いとは異なり、次代を担う政権のあり方を巡る戦争ですから、政治思想をぬきには語れません。

戊辰戦争の第二幕にあたる東北・北越戦争を、学界は軍事をさておいてイデオロギー面から論じてきました。たとえば石井孝(故人・東北大教授)は先進的な西国諸藩が天皇を核とする絶対主義政権を築こうとしたのに対し、おくれた東北諸藩がルーズな連合体を形成して対抗したという学説を唱えました。

しかし、実際に諸藩の動向を左右したのは軍事的リアリズムです。先進あるいは保守といった観念論は、むしろオマケだったとワタクシは考えています。この記事では両陣営による軍事的リアリズムが、どれほど諸藩を動かしたかについて御披露します。

なお、慶応4年=明治元年は閏年です。旧暦の閏年は 19年間に7回あり、その年は13ヶ月になります。慶応4年の場合は4月と5月の間に閏4月があります。よくある「きょうは何の日」とかでガン無視されていたりしますが、慶応4年(明治元年)閏4月には超重要なイベントもあるので、くれぐれもお忘れ無きよう。

会津死謝の方針は誰が定めたか

慶応4年2月9日(1868年3月2日)、新政府は熾仁親王をトップとする東征大総督府を設置しました。

総裁熾仁親王ヲ拝シテ、東征大総督ト為シ「総裁故ノ如シ」、参与正親町公董、西四辻公業、広沢真臣ヲ以テ参謀ト為シ、河鰭実文「大夫」、穂波経度ヲ錦旗奉行ト為シ、沢為量ヲ奥羽鎮撫総督ト為シ、醍醐忠敬「少将」之ニ副ス、並ニ本月十五日ヲ以テ啓行セシム、又議定嘉言親王ヲ海軍総督ト為シ「議定故ノ如シ」、庭田重胤ヲ参謀ト為ス。

『復古記』第2冊 p237

すでに設置されていた東海、東山、北陸の三道の鎮撫使を先鋒総督兼鎮撫使と改めたうえ、江戸に向けて兵を進めさせるとともに、あらたに奥羽鎮撫総督府を設置して会津藩および庄内藩の討伐を担当させることとし、これら四つの総督府(方面軍司令部)を東征大総督府の指揮下としました。

大総督の熾仁親王は、徳川慶喜と血縁を持ち、平和裏に徳川氏を恭順へ導くことを暗に期待されていて、4月に江戸開城を実現させました。しかし、会津・庄内両藩(会庄)は、武力で圧倒しています。なぜそうなったかが問題です。

2月15日、奥羽鎮撫総督に任じられた沢為量は京から奥羽方面へ向けて出発しました。その翌日、大総督府に会庄(会津と庄内)の処分方針を問い合わせたところ、17日に大総督府から回答がありました。

奥羽鎮撫総督、書ヲ大総督府二致シ、松平容保、酒井忠篤ノ処分ヲ稟問ス、是日、大総督府、答書シテ、容保ハ罪死ニ当ル、忠篤ハ宜シク松山、高松ニ准擬スヘキヲ報ス。(東海道戦記)

『復古記』第9冊 p209

庄内藩は鳥羽・伏見の戦いに先んじて薩摩藩邸焼き討ち事件の主体となり、会津藩と桑名藩は鳥羽・伏見の戦いで旧幕府方のなかで強硬論を唱えて開戦の要因を生みました。このうち桑名藩は早々に恭順(抗戦派は脱藩)したため、残る会庄両藩が討伐の対象となりました。そして、会津藩主の松平容保は死罪、庄内藩主の酒井忠篤は松山藩、高松藩の例に準ずる(降伏開城のうえ藩主は謹慎)という方針が示されたというわけです。

ここで御記憶いただきたいことは、世良修蔵の名前が出て来ないことです。通説では会津藩に対する討伐を主導したと目されている修蔵が、奥羽鎮撫総督府の下参謀に就任する前、すでに「会津死謝」の方針は、上級司令部である大総督府によって定められていたのです。この方針がのちのち悪影響を及ぼしていくのです。

このことは、学界ではかなり前から指摘されていました。ワタクシの祖父である大山柏も『戊辰役戦史』(1968)で指摘しておりますし、軍事史以外では佐々木克(故人・京都大学名誉教授)も以下のように述べています。

会津藩の厳罰処分も、その命令が出された経緯に問題がある。二月一六日沢総督、醍醐副総督の名で、岩倉具視宛に、会津藩松平容保、庄内藩酒井忠篤から助命の歎願があった場合、どう処置するか、その伺いが出された。岩倉は大総督有栖川宮熾仁親王に伺うべしと答え、その結果、翌日大総督から、容保は「死謝」、酒井は「松山(伊予)高松(讃岐)同様」の取計いと沙汰があった。

会津藩に対する具体的な処分方針の正式表明である。だがこの決定は、どうやら大総督府参謀林通顕の、ほとんど独断でなされたふしがある。有栖川宮ら公卿は単なる飾りにすぎないし、もう一人の大総督府付の実力者参謀西郷隆盛は、薩藩兵を率いて、すでに京都をたち関東に向かっていた。岩倉やその他政府首脳の意見を反映しているとは考えられるものの、最終意志の決定は、林通顕によってなされたと判断せざるを得ない。

佐々木克 著『戊辰戦争-敗者の明治維新』p73 
中公新書455 中央公論社 1993 (1977初版)

この主張に異論を差し挟む余地はないと思いますが、いかがでしょうか。

鎮撫総督、奥羽へ

この頃、西日本の諸藩は、鳥羽伏見の戦いで示された新政府の軍事力を懼れ、ほとんど無抵抗で新政府に恭順していきました。

東北諸藩のなかでは、京に人員を派遣して情勢を探っていた仙台藩が、1月下旬に新政府への帰順を申し入れました。新政府は仙台藩を会津征討の主力に位置づけようと考えます。

ここで、鳥羽伏見の戦い以前には平和的解決を目指していた尾張藩と、徳川慶喜に同情的だった土佐藩の動向を見ておきましょう。

尾張藩では1月20日から25日にかけて藩内の佐幕派を粛清した「青松葉事件」を断行、周辺諸藩に新政府への帰順を促すなど、佐幕派との対決姿勢を明確にしました。このことで新政府軍は東海道通行の安全を確保しました。

土佐藩も徳川氏への同情的姿勢を翻して新政府軍の一翼を担い、四国の高松藩、松山藩の占領は土佐藩が担当、高松藩、松山藩のいずれも兵力を背景に屈服させています。もはや時局は大義名分を論ずることよりも、リアリズムが物を言う段階となっていました。

会津討伐の具体案は、西園寺公望による山陰道鎮撫【鳥羽伏見の回参照】の場合と同様に、少数の薩長兵を伴った総督兼鎮撫使が仙台に赴き、周辺諸藩を恭順させながら会津討伐の軍勢を増やしていくという方針でした。しかし、当初の兵力があまりに微弱であるとして、参謀の黒田了介(薩摩)、品川弥二郎(長州)が辞職してしまい、2月26日に大山綱良(薩摩)、世良修蔵(長州)が後任となりました。

二十六日、九條道孝「左大臣」ヲ以テ奥羽鎮撫総督ト為シ、総督沢為量ヲ副総督ト為シ、副総督醍醐忠敬及ヒ黒田清隆「了介○薩摩藩士」ヲ参謀ト為シ、期ヲ刻シテ進征セシム、軍防総督嘉彰親王、乃チ軍令及ヒ陸軍諸条規ヲ道孝ニ授ク、尋テ清隆及ヒ参謀品川日孜ヲ罷メ、大山綱良「格之助○薩摩藩士」、世良砥徳「修蔵○長門藩士」ヲ以テ之ニ代フ。(奥羽戦記)

『復古記』第12冊 p193

またまたしつこく言いますけども、「会津死謝」の方針が定まったあと、26日に九條道孝が奥羽鎮撫総督に、世良修蔵がその参謀に就任しています。この時点で会津藩への厳罰は既定の方針だったのです。

3月10日、奥羽鎮撫総督一行は大坂から海路仙台に向かいました。随伴兵力は薩長が各一中隊でおよそ200名、筑前兵が158名、仙台兵が100名程度でした。

23日、仙台に到着した九條総督は、ただちに仙台、米沢、守山、天童の各藩から重臣を呼び寄せ、会津討伐の軍議を開くとともに、二本松、福島、平、相馬中村の各藩にも援軍の派出を命じました。これら東北諸藩の寝返りがないように薩長兵200が居るわけですが、あまりに少ないと思います。これっぽっちの兵力では東北諸藩に軍事的圧力は及びません。

仙台藩では新政府との窓口の任にあたっていた三好監物が失脚、新政府に対する協力姿勢が次第に消極的になっていきました。奥羽諸藩は軍議の結果、4月7日に会津討伐を開始すると決めたものの、戦力の中核となるべき仙台藩では監物の失脚に伴って新政府支持派が勢いを失っており、討伐への動きは緩慢でした。

恭順とはいうけれど

新政府のなかで徳川慶喜に同情的で、かつては戦争回避に奔走していた松平春嶽は、2月19日に慶喜から朝廷へ服罪の意志を認めた奏聞状を受け取りました。その際、会津藩から「容保老臣哀請書」も併せて受け取っています。

慶喜の奏聞は「慶喜が服罪するので徳川家の家名は残して欲しい。また、臣下を罰するのも勘弁してやってください」と訴えるものでしたが、会津藩からの「容保老臣哀請書」は、文久三年に孝明天皇が容保に与えた宸翰(天皇自筆の書簡)の写しを添えたうえ、鳥羽伏見の開戦責任を問われるのは冤罪であると訴えるものでした。

徳川内府上洛、先供一同登京之途中発砲被致、武門之習、不得止、応兵及一戦候儀ニテ、敢テ 闕下ヲ犯候儀毛頭無之候ハ、万人所共知ニ御座候

『復古記』第2冊 p425

会津側の言い分では、「発砲されて応戦するのは武門の習い。ゆえに無罪」だと主張しているわけです。

しかし、新政府側としては「軽装」での上京を求めた慶喜の先供と称して、帰国を命じておいた会津藩兵が武装して上京するということが許しがたいわけであります。

また、添付された宸翰の写しは「堂上以下、暴論ヲ疎(つら)ネ、不正ノ処置、増長ニ付……」という、ドラマでは大正時代まで秘蔵されていたことになっている、例のアレです。

会津藩としては大事に隠し持っていた切り札だと思っていたのでしょうが、それを見た春嶽は、どう思ったでしょう。宸翰は容保に与えられたものですから、朝廷に差し出しても慶喜の立場を良くするものにはなりえません。立場が良くなるとすれば、その対象は容保だけなのです。

封建社会では「臣子の過ちは君父の罪」だといいます。慶喜が臣下の過ちを自分の罪として一身に引き受ける態度を示したのに対して、臣下である容保が慶喜の罪を自分の過ちとして引き受ける態度を示していたなら美談になったところでしょうが、そうではなかったのです。「会津死謝」という方針が容易に緩和されなかったのは、そんな事情からかとワタクシは想像します。

軍事的リアリズムの方角から新政府と会庄とを観察すると、奥羽方面は新政府側の劣勢です。江戸開城に前後する時期、新政府には会津藩、庄内藩の敵対行為に対処する余力はありませんでした。

3月下旬に会津藩が一部部隊を宇都宮藩領まで越境させたことで、宇都宮藩から新政府に救援が要請されましたが、新政府には救援要請に応じられるだけの手駒がありませんでした。

4月2日、庄内藩は近隣の旧幕府直轄領から年貢米を運び出す「柴橋事件」を起こしています。このとき既に新政府は旧幕府領の接収を宣言していました。

そして、4月10日には会庄両藩が同盟を結びました。会津藩も庄内藩も表向きは「恭順」を表明していましたが、その一方で不穏な行動をとっていたのです。

4月11日、江戸城は新政府側に明け渡されましたが、同時に旧幕府陸軍の集団脱走があり、武装解除は失敗しています。

徳川家は無抵抗を決めましたが、旧幕府陸軍のなかに武装解除を嫌がる人々も多く居て、それらの人々は武器を携えて脱走、主家の意向に従わず、戦争継続を希望します。

あまりに長くなるので引用しませんが、山川健次郎編『会津戊辰戦史』昭和16年版 p181によると、秋月登之助=江上太郎、渡辺綱之介=小池周吾など、幾人もの会津藩士が変名を用いて江戸開城を契機とする脱走に参加していることがわかります。しかも「藩庁の諒解を得て脱藩の形式をとり」と、藩ぐるみで大脱走に荷担していたことを示唆する記述もあります。原文が気になる方はコチラをどうぞ

つまり、会津藩は表向きに武備恭順を表明しながら、その一方で徳川家の家臣団も巻き込んだうえで、戦争継続を画策していたのです。このしたたかなリアリズムには目を瞠るばかりです。

白石会盟と世良修蔵暗殺

4月17日、奥羽鎮撫総督府は、仙台藩兵を会津討伐に送り出しますが……

仙台藩兵会津諸口ニ次シ、逗撓シテ進マス、是ニ於テ参謀醍醐忠敬出テ福島ニ陣シ、参謀世良砥徳ト倶ニ、藩兵ヲ促シテ土湯口ヲ進撃セシメ、中村某「小次郎」、高津某「慎一○二人並ニ長門藩士」ヲシテ之ヲ監セシム、又丹羽長国ニ令シテ、速ニ討会応援ノ兵ヲ嶽湯、土湯二口ニ出サシム、是日、伊達慶邦桑折駅ニ至リテ藩兵ヲ奨励ス、既ニシテ白石ニ還ル。(奥羽戦記)

『復古記』第12冊 p266

逗撓(トウドウ)は、敵を恐れて進まない様子を表す言葉で、仙台藩兵の戦意は乏しく、また、藩兵の指揮を執る藩主の伊逹慶邦は、桑折まで来て藩兵を奨励したけれども、すぐに白石の本営に還ってしまったとのことです。東北地方最大の勢力を誇る仙台藩は、新政府に対して協力的とはいえない姿勢を示したのです。

その頃、集団脱走した旧幕府陸軍の大鳥圭介らは、宇都宮へ向かっていました。その途中、大鳥軍は遭遇した新政府軍部隊を何度も撃退して北上を続け、4月19日には宇都宮城を攻め落としています。

こうなってくると、新政府側に帰順した諸藩が抵抗勢力の軍事的圧迫を受ける状況になってきました。ここで新政府が企図した奥羽鎮撫計画は、いったん破綻したといえるでしょう。

大鳥軍の宇都宮占領は一時的なことでしたが、帰順した宇都宮藩を保護できなかった新政府は信用を大きく低下させました。また、24日には、庄内討伐に向かった沢為量副総督、大山綱良参謀が率いる新政府軍が庄内藩の反撃を受けて敗退し、庄内藩は余勢を駆って新政府方の天童藩を攻撃占領、新政府の面目はまったく失われました。

25日、奥羽鎮撫総督府は会津藩に対し「悔悟伏罪すれば寛大な処置もあり得る」と、処分条件を緩めたうえで恭順を求めましたが、いわれた会津藩からすれば「なにをいまさら」といったところでしょう。

会津藩は仙台、米沢藩に対して「謝罪の意志」を伝えながらも、正式な返答は保留されました。いまや東北地方のパワーバランスは、抵抗勢力の側に大きく傾いていましたからね。

閏4月11日、仙台藩は米沢藩とともに東北諸藩の代表を白石に呼び寄せ、会庄両藩が謝罪の意志を示した以上、討伐する必要はないとして、両藩の赦免を諸藩連名で鎮撫総督に願い出ることを決めました。(白石会議)

しかし、15日には保留されていた会津藩からの回答があり、「徳川の家名のなりゆきを見届けないかぎり謝罪しない」と伝えてきました。

奥羽鎮撫総督府、前会津藩主松平容保に諭して、罪を謝し、降を請はしむ。尋で「閏四月十五日」容保、書を上り、徳川氏の処分未だ定まらざるを以て、其命に従ふこと能はざるを禀す。

『維新史料綱要』8巻 p503

官立組織が刊行した『維新史料綱要』は、いわゆる「勝者の歴史」として、内容を信じない人も多いので、会津側の視点から綴られた『会津戊辰戦争』で裏付けをとります。

松平肥後守追々暴動に及候趣に候得共、罪魁の義一等を被宥候上は、悔悟伏罪御仁慈を仰ぎ候に就ては、寛典に可被処候間、心得違無之旨御沙汰候事。

閏四月二十五日 総督府

然るに容保断然決する所ありて左の届出をなせり

御沙汰ノ趣難有拝承仕候得共徳川家名成行不見届内ハ謝罪仕間敷覚悟ニ御座候間可然御沙汰奉願上候以上

閏四月 陪臣松平肥後守

平石弁蔵 著『会津戊辰戦争』p80

前掲の『維新史料綱要』と比べると日付の異同こそありますが、会津藩が「無条件では謝罪しない」と回答したことについては一致します。要は「敗者の歴史」でも、会津藩が無条件降伏を拒絶したことを隠蔽していないということです。

前後の事象から考えると、会津藩の回答は閏4月15日にあったとするのが妥当と思われます。

仙台藩は19日に奥羽鎮撫総督府参謀である修蔵を暗殺、20日には会津藩と旧幕府軍が新政府直轄領の白河を攻撃占領しました。このいずれも新政府への対決姿勢を明確にした行動ですから、15日に会津藩の回答によって事実上の宣戦布告がなされたと解釈したいところです。そうでないと、先にぶん殴ってから絶交を申し入れたカタチになり、ずいぶんと会津藩の行動が不体裁になってしまいますからね。

このことは会津藩を説得して平和裏に謝罪させる工作が完全に失敗したことを意味します。しかし、依然として総督の身柄および錦旗は仙台藩が確保しており、いわば「東の官軍」として、西の官軍たる薩長土肥に対抗する姿勢を示したことになります。

こうした事態を招いたのは、誰の目から見ても、新政府が最初に東北へ送った兵力が過小であったせいです。

奥羽越列藩同盟の形成

東北諸藩にとって、白石会議は会庄の処分を平和的に解決するためのものでしたが、仙台藩は修蔵の暗殺と白河占領という既成事実を盾に、東北諸藩に軍事同盟の結成を迫りました。東北諸藩にとっては寝耳に水のことながら、仙台藩の軍事的圧力には抗えません。そして、総督の身柄と錦旗を抱え込む形で、薩長に対抗する「東の官軍」として奥羽列藩同盟が形成されました。鎮撫総督は公卿ですから、よもや腹を切ったりはしないでしょう。生かしたまま身柄を抑えておくのは造作も無いのです。

この状況から考えれば、総督を抱き込むうえで邪魔になる修蔵を襲ったのは、計画的な行動としか思えません。携帯電話がない時代に、ほぼ同時に白河への進撃が始まっているのは、事前に打ち合わせがあった疑いが濃厚です。

北越では新潟港の確保を目指す新政府軍が小千谷に達したとき、長岡藩の河井継之助が新政府軍に中立を申し入れました。それは心底から「中立」を唱えたのでしょうか?

佐々木克によれば……

説得工作から列藩同盟結成にいたる経緯を河井が知らなかったはずがないのだ。そして現実に同盟は反政府的立場を明らかにし政府軍の進攻をくいとめようと派兵しているのである。現実の問題として会津や同盟諸藩を説得して、彼らの武器を収めさせることなどは至難のわざであることは、だれの目にも明らかであろう。それが可能であると考えるほど、河井は楽天家であったろうか。そしてまた河井はなぜこのおしつまった段階まで動こうとしなかったのか。会津藩を説得する機会など、これまでいくらでもあったのであるから。

河井の「中立」策は、政府と会津藩らから等距離に位置してのものではないのである。むしろ会津側に立っている。そして長岡藩だけが戦争を回避するために中立を維持しようとしていたのではなかったのだ。先に庄内、会津、桑名、長岡の譜代雄藩間に提携があったのではないかと推測したが、長岡藩の行動は、少なくとも桑名、会津との結びつきを背景にして考えた方がより理解しやすい。

佐々木克 著『戊辰戦争-敗者の明治維新』p174~175 
中公新書455 中央公論社 1993 (1977初版)

河井継之助の中立論をリアリズムで読み解くと、こうなります。なにせ戦争ですから、綺麗事ではない、現実の利害を省みれば、おのずと違う様相が見えてくるのです。

すでに越後には会津藩、桑名脱藩の軍勢が駐留しており、長岡藩の中立を認めることは開港を目前に控えた新潟港を同盟側に譲り渡すのも同然でした。

新政府軍が長岡藩の中立の申し入れを拒絶したのは、深い考えがあってのことでもなかったようですが、深く考えれば、ますます受け入れることは出来なかったろうと思います。

そして、長岡藩を含めた越後の諸藩が同盟に加わり、奥羽越列藩同盟となりました。

戦局の推移と同盟の崩壊

修蔵を排除したのち、同盟側は九條総督を擁する「東の官軍」として、白河から関東平野へ進出、薩長との決戦に臨む構想がありました。朝廷への反逆ではなく、あくまで敵対するのは薩長のみだという理屈です。

しかし、5月1日には、土佐藩兵を含む新政府東山道軍の精鋭部隊700が白河を奪回しました。同盟側の「薩長のみを敵とする」という目論見は崩れました。また、白河で同盟軍は2500の兵力を有しながら、戦死700という惨敗を喫したことで、決戦構想も破綻してしまいました。

北越では一進一退の攻防が続くなか、白河の新政府軍は次々と周辺諸藩を攻め落としました。すると秋田(久保田)藩、三春藩などが同盟から離反し、九月には同盟の一角を担っていた米沢藩までが新政府側に寝返って会津攻略に加わっています。その間、東名浜に奇襲上陸した新政府軍が九條総督を救出した影響も大きかったでしょう。

大義名分を失った同盟は輪王寺宮の亡命を受け入れ、宮を東武皇帝とする新政権を構想しましたが、もとより画に描いた餅でしかありません。諸藩の関心は「どちらが強いか」にあり、「いずれが正義か」ではなかったからです。

東北北越戦争で何が起きなかったか

さて、東北北越戦争の戦況を追うよりも重要なことがあります。国際法のうえで、戊辰戦争をどう位置づけるかです。

戊辰戦争当時、日本と国交を結んでいたなかで、主要6ヶ国が局外中立を宣言しました。旧幕府と新政府、いずれか戦争に勝った側を政権として認めるから、どちらの味方もしない、ということです。まだ政権として認められていない両陣営は国際的には「交戦団体」として扱われます。

ついこの間まで日本を代表する政権として位置づけられていた旧幕府からすれば、交戦団体への格下げですし、新政府からすれば、諸外国に政権として承認される条件付けが確定したことになります。

その中立宣言は、徳川家が恭順した江戸開城ののちも解除されませんでした。まだ戦争は終結していないじゃないか、というわけです。交戦団体としての資格を奥羽列藩同盟が引き継いだカタチです。同盟の側も、シッカリ手を打っていることが、『復古記』第12冊の7月2日の部分に記載されています。

是ヨリ先、入道公現親王「輪王寺宮」江戸ヲ去リテ会津ニ奔ル、是ニ至リ仙台ニ赴キ、伊達慶邦、上杉斉憲ニ令シ、奥、羽、越諸藩ヲ督シテ、薩摩藩兵ヲ撃タシム、諸藩乃チ相謀リ、親王ヲ推シテ軍事総督ト為シ、公議府ヲ白石ニ設ク、板倉勝静「伊賀○旧備中松山藩主、旧幕府老中、時ニ姓名ヲ変シテ徳山四郎左衛門、又安井八郎ト称ス」、小笠原長行「壱岐○唐津藩主長国ノ子、旧幕府老中、時ニ山中静翁、又三好寛介、津毛魯輔ト称ス」、阿部正備「葆真ト号ス○棚倉藩主正静ノ高祖父」等モ亦来会ス、諸藩又書ヲ横浜駐剳各国公使領事ニ贈リテ、聯合ノ事ヲ告ク。(奥羽戦記)

『復古記』第12冊 p487

どうやって横浜まで連絡をつけたかはわかりませんが、各国の公使館と書面を交わしたりもしているわけです。

局外中立が解除されたのは、会庄両藩が降伏したのちのことでした。

米・英・仏・蘭・独・伊六ヶ国公使、局外中立解除を宣言す。

『維新史料綱要』巻9 p671

この宣言の日付は12月28日ですから、庄内藩が降伏した9月26日から、だいぶ日が過ぎています。同盟諸藩すべてを降伏恭順させたとはいえ、まだ榎本艦隊をはじめとする抵抗勢力が残っていたからです。

もし、このタイミングで局外中立解除がなされなかったら、箱館戦争は諸外国から戊辰戦争の延長戦だと看做されたことでしょうが、そうはなりませんでした。

そもそも榎本らの要求するところは「蝦夷地の借用」であり、日本政府から分離独立しようとしたわけではありません。ましてや、新政府を打倒して、政権を奪おうなどとは考えてもいません。だから、箱館戦争は戊辰戦争とは戦争目的が全然違いますし、国際法のうえでも、榎本軍は交戦団体ではない(たとえ勝っても政権として承認される保証がない)のです。

逆に言うと、奥羽越列藩同盟軍には、戦争に勝てば日本の政権として国際社会に承認されるチャンスが充分にあったということです。

戊辰戦争の局外中立は、かなり重要な意味を持つことです。詳しく知りたい方にオススメしたいのは大塚武松 編『明治戊辰局外中立顛末』です。

(オマケとして)上野戦争と東北北越戦争の関わり

今回の記事では、各方面の戦況を追うことが出来なかったので、チョットだけ触れます。

東北・北越戦争が本格化したころ、江戸には旧幕臣を中心とする3000の兵力を有した彰義隊があり、品川と板橋とに駐留する新政府軍と対峙する状況にありました。新政府にとって、江戸市中に戦火を及ぼしては無血開城の意味を失うため、交戦地域を上野山に限定することと、短期決戦による早期決着を目指し、5月15日に彰義隊を総攻撃します。江戸市街に火災が及ばないよう雨季の到来を待って攻撃日を定めたのです。そして、江戸市中に高札を立てて攻撃予定を告知しています。また、攻撃正面を限定して彰義隊の退路を開放する布陣を立案、その退路が江戸市街の中心部からそれるよう考慮されていました。

攻撃を予告された彰義隊では密かに上野から逃れる者も多く、3000の人員を擁した陣容も当日には1000ほどに減っていました。

新政府軍は上野広小路から攻める黒門口を主攻正面とし、背面に当たる団子坂を助攻正面として、不忍池を挟んだ対岸からアームストロング砲をふくむ砲列を布いて火力支援させました。新政府軍は午前中の攻撃を火力制圧にとどめ、彰義隊の組織が混乱を来した午後から強攻に切り替え、夕刻までに上野山を占領確保しています。敗れた彰義隊は大村の用意した退路を辿って逃走しましたが、主要な街路は新政府軍によって警戒されており、多くが捕らえられています。

上野戦争の勝利によって兵力の余裕を得た新政府軍は、白河口に増援を送るとともに、別働隊を平潟に上陸させました。それ以後、白河で防勢に甘んじていた新政府軍が攻勢を開始、中通り地方の諸藩を次々と降伏・恭順させました。平潟口の別働隊は浜通り地方を北上、平藩や相馬中村藩を降伏させ、駒ヶ嶺と旗巻峠を破って仙台に迫ります。八月下旬には伊地知隊が母成峠を突破して会津若松を急襲、以後、会津藩は一ヶ月に及んで籠城しましたが、ついに降伏しました。その間に米沢藩が新政府側に鞍替えし、仙台藩が降伏しており、一時は優勢を誇っていた庄内藩も孤立して、降伏のやむなきに至りました。

アイキャッチ画像:河井継之助(出典 国立国会図書館デジタルコレクション

書いた人

1960年東京生まれ。日本大学文理学部史学科から大学院に進むも修士までで挫折して、月給取りで生活しつつ歴史同人・日本史探偵団を立ち上げた。架空戦記作家の佐藤大輔(故人)の後押しを得て物書きに転身、歴史ライターとして現在に至る。得意分野は幕末維新史と明治史で、特に戊辰戦争には詳しい。靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修をつとめた。