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Culture
2021.08.05

国民に銃を向ける軍隊はなぜ必要だった?明治新政府による「徴兵令」で何が起きなかったか

この記事を書いた人

はじめに

かつて日本は強大な軍事力を保有していました。日本が強国であることは東洋の安定に繋がり、ひいては世界平和にも貢献できると、日本人が本気で信じていた時期もありました。明治新政府が徴兵令を施行して「皇軍」を創始してから第二次大戦に敗れるまで、旧日本軍が存在したのは僅かに70有余年のことに過ぎませんが、その爪痕は現在なお大きく残っています。その旧軍が、どのように生まれたかを辿ってみましょう。

国民国家と軍隊と

明治維新の20年前、欧州では1848年革命=「諸国民の春」によってウィーン体制が崩壊し、続々と国民国家が生まれました。スペインやオスマン帝国の支配から脱した諸国民が主権国家を築いたのと同時に、(日本における幕藩体制のように)小国が分立していたドイツやイタリアでは統一国家が生まれました。それら国民国家は、当然のこととして、自衛のために軍隊を保有します。

江戸時代の日本には、幕府による通貨や度量衡の統一こそありましたが、人の行き来が制限されていたため民俗や文化には統一性が乏しく、また、多様な方言がコミュニケーションの妨げになり、狭い日本列島でありながら、他の地方に住む人に対して「同じ日本人」という意識を持つことは稀でした。ところが、幕末の攘夷運動によって「異人」を強く意識するようになると、自分たちが「日本人」であるという、いわば民族のアイデンティティーのようなものが生まれます。そして『一君万民』=一人の天皇を君主と仰ぎ、その他は公家も武家もすべて「万民」だとして、擬似的な平等主義を掲げる尊皇思想が起こり、それが明治維新の原動力となりました。幕末の時点で「すでに天皇は国民統合の象徴であった」という観点から、明治以降の日本は国民国家だったと主張する人もいます。しかし、軍隊の成り立ちを見るかぎり、いわゆる国民国家とはだいぶ様相が異なるのであります。

国民国家の軍隊とは

国民国家の軍隊には、志願制を採る場合と、徴兵制を採る場合があります。フランス革命以後、「国家は主権者たる国民のもの」という建前になりました。国土もまた国民のものであり、その国土を護るため、国民全員に兵役義務を負わせる……というところに徴兵制の理念があります。一方で、ナポレオン・ボナパルトは志願制の軍隊を率いて縦横に活躍しました。強制的に徴兵された兵に比べると、戦う覚悟を決めて志願した兵は格段に士気が高いのです。志願制か徴兵制かを問わず、国民国家の軍隊に共通している点は、建前上は軍隊が国民のために存在することです。まやかしかもしれませんが「皇帝や王をはじめとする特権階級の権益のために存在するのではない」という前提のもとに「国軍」がありました。その点、日本の軍隊は大違いなのです。

なぜ軍隊が必要だったのか

日本では江戸時代まで武家政権のもとでの封建的な兵制が行われていました。島原の乱を最後に、大塩平八郎の乱まで、およそ200年ほど戦争らしい戦争がなかったにも関わらず、依然として幕府は軍事政権であり続けました。諸大名の参勤も将軍の居城である江戸城を護るための兵力を供出する、徳川将軍家に対する軍役奉仕という建前でした。そうした封建制度の下に、各藩は兵力を養っていました。そして、朝廷には直轄の軍隊がなく、軍事力が必要になる場面では、幕府や諸藩に兵力を供出させるほかなかったのでした。

和樂web向けの記事で、繰り返し何度も論じてきたことですが……「政権」とは、人々を従わせる存在のことです。人々を納得させて従わせることが望ましいけれど、納得しようがしまいが、無理にも従わせることが必要な場面もあります。たとえば、明治初年に学制が布かれ、初等教育が義務化されたとき、人々は一揆を起こして抵抗しました。「子どもに学問は要らぬ」と、役所を襲撃したのです。長い目で見れば、初等教育は必ず国民の利益になるということが、当時の人々は容易に理解できませんでした。

字が読めない人々に、新しい政策について話し言葉で耳から耳へ伝えていく間に伝言ゲームになり、様々なデマも混じって誤解され、ついに民意は「学校は要らない」という方へ傾いたのでした。まことに理不尽ながら歴史的事実です。

ならば、どうすれば良いのでしょう。人々が暴力によらず、言論で闘うようになれば良いのですけれども……国民の識字率を上げないことには新聞が育ちません。そして新聞が育たなければ世論が形成できません。世論が形成されなければ議会制民主主義が実現できません。つまり、初等教育を義務化しないかぎり、人々は竹槍を手に携え、世論とは呼べないようなエゴイズムを剥き出しにしながら暴徒と化すのです。

政府は民意を踏みにじって、初等教育の義務化を強行しました。小学校が焼き討ちされるなどしましたが、けして抵抗に屈しませんでした。

それから20年とは経たないうちに憲法が制定され、国会が開設されましたが、それが実現した背景には、近代的な軍隊の力を誇示することで、人々を無理に従わせたという事情があります。

近代国家らしい民主主義を実現するために、民意を力でねじ伏せる……その矛盾こそ近代国家建設を目指す「政権」の実状であり、つまりは「国民に銃を向ける」軍隊が、明治新政府には是非とも必要だったのです。

そういうわけで「国民の権益を守る」という建前で軍隊を保有していた国民国家とは、最初から軍隊のあり方が異なっていました。

徴兵の原点

明治新政府が直轄の軍事力を保有しようとしたのは、戊辰戦争の時期からでした。明治元年閏4月に陸軍編制が定められ、石高1万石につき10人(当初は3人)の割合で供出させた兵で、その名も「徴兵○○番隊」が編成されていて、記録上では数千名の兵力が存在したことになっております。しかし、戦闘を報告した史料に現れるのは5番隊と12番隊の数百名だけです。

各藩ごとに兵制はバラバラでしたから、諸藩の兵を集めると、使用する弾薬も各藩ごとに異なりました。調練の方式が異なるので号令も藩ごとに違います。つまり、隣に並んだ兵から弾を分けて貰うことも出来ないし、号令は「一斉撃ち方はじめ」なのか、「大釣瓶撃たっしゃれ」なのか、統一するために調練のやり直しが必要であり、ようやく実戦に堪えるまで粒を揃えることができたのが2つの部隊だけだったのでしょう。残りは前線に投入されず、後方地域の警備など案山子に等しい使われ方だったろうとワタクシは想像しています。最初の徴兵は、国家の命運を懸けた内戦の最中でありながら”要らない子”のように扱われたのでした。

明治2年に版籍奉還がありましたが、諸藩が保有した軍事力は、依然として諸藩の管理下に置かれました。そのままでは、寄せ集めたところで、戊辰戦争の場合と同様、不統一に苦しむのは目に見えています。そこで、明治3年11月、徴兵規則が太政官(明治初年の政府中枢)から全国の府、藩、県に発布されました。

兵制之儀、先般先ヅ石高ニ応ジ、定員被仰出候処、兵事ハ護国之急務、皇威ヲ発輝スル之基礎ニ付、宇内古今ノ沿革得失ヲ御洞察被為在、前途兵制一変、全国募兵之御目的ニ候処、即今先ヅ左之規則ヲ以テ徴兵被仰出候間、来ル未ノ正月ヨリ順次ヲ以テ、各道藩県士族・卒・庶人ヲ不拘、身体強壮ニシテ兵卒ノ任ニ堪ヘキ者ヲ撰ミ、一万石ニ五人ヅツ、大阪出張兵部省ヘ可差出候事
 但従来之常備ハ勿論、各地方緩急応変之守備ト可相心得事(以下略)

内閣官報局『法令全書 明治3年』p504

府藩県三治制【廃藩置県の回参照】のもと、石高1万石につき5人、年齢は20歳から30歳まで、身長5尺(約151.5cm)以上の身体強壮にして兵卒の任に堪える者を選抜して供出させようという施策でした。その際、出身を問わず士族、卒族、平民いずれでもかまわないこととされました。それによってバラバラだった兵制の統一を図ったのです。

この徴兵規則は明治4年から施行される予定でしたが、薩摩、長州、土佐の3藩から供出された兵力で御親兵が編成されたため、施行は見送られましたが、士族に限らず兵士を募る方針は、この時点から現れています。

全国徴兵の詔

廃藩置県と府県統合は明治9年まで続き、統合が行き過ぎた県を分立させたり、境界を変更するなどして、概ね現在の都道府県のカタチが整うのは明治20年頃でした。

脱線しますが……いまなお感情的に尾を曳いているとされる町田市帰属問題に関しては、明治26年(1893年)4月1日、神奈川県のうち武蔵国南多摩郡・北多摩郡・西多摩郡が、東京府に移管されたことによります。ゆえに2次に亘る府県統合が完了したあとで生じた問題です。各県の財務状況により、道路の整備などに違いが現れるのは今日でもそうですが明治初年も同様でした。甲州街道は世田谷を過ぎて多摩地方に入ると神奈川県の管轄で、砂利舗装がデコボコになって、天皇の馬車が通行できないので乗馬なさるといった具合でした。天皇でさえ、そんな思いをしたわけで、県境で隣り合う地域の住民が不満を持たないわけがないのであります。この時期の民衆は、言論での闘い方を知りません。抗議といえば竹槍を手にして一揆です。その抑止力として切実に軍隊が必要だったのです。しかし、政府として、そういう本音をいってはイケナイわけでして、建前は別です。

明治9年まで、士族は政府から支払われる俸禄を受けていました。その根拠は「有事の際に武士として戦うから」という理屈でした。徴兵制が布かれたら、もはや戦うのは士族ばかりではないわけで、士族に俸禄を支払う理由がなくなります。そんな重大な意味を込め、明治5年11月28日(1872年12月28日)に『全国徴兵の詔』が発せられました。

朕惟ルニ古昔郡県ノ制全国ノ丁壮ヲ募リ軍団ヲ設ケ以テ国家ヲ保護ス固ヨリ兵農ノ分ナシ中世以降兵権武門ニ帰シ兵農始テ分レ遂ニ封建ノ治ヲ成ス戊辰ノ一新ハ実ニ千有余年来ノ一大変革ナリ此際ニ当リ海陸兵制モ亦時ニ従ヒ宜ヲ制セサルヘカラス今本邦古昔ノ制ニ基キ海外各国ノ式ヲ斟酌シ全国募兵ノ法ヲ設ケ国家保護ノ基ヲ立ント欲ス汝百官有司厚ク朕カ意ヲ体シ普ク之ヲ全国ニ告諭セヨ
明治五年壬申十一月廿八日

陸軍省官版『徴兵令』1丁目

荘園制が浸透するまでは郡県制に基づいて軍団が設置されていました。その頃には兵と農の境目はなかったのに、武家政権になってから兵と農とが分かれて封建制になった……いや、ツッコミどころはあるでしょうが「明治初年の為政者の歴史認識はこうだったのか」と思いながら読んでください。で、武家政権ではない新政権を立てたのだから、古代の軍団のような「今本邦古昔ノ制ニ基キ」と”復古”を唱えつつ、「海外各国ノ式ヲ斟酌」して”明治維新”に相応しい新しい徴兵制を布くのだということです。

血税の意味するところ

太政官は徴兵の詔に基づいて、徴兵告諭を布告します。

そもそも徴兵制を採用すべきだと最初に主張したのは大村益二郎でしたが、明治2年に暗殺されてしまいました。そのあと、山県有朋、西郷従道らが欧州諸国の兵制を視察して、将来多数の兵を養うには、とうてい士族に限って志願させるようではイケナイと悟り、徴兵制を推しました。

志願制が忌避された理由の一つは、末端の兵士にいたるまで定年退職後に恩給を支払うことになるので「徴兵制の方が安上がりだ」という身も蓋もないことでした。

そうした事情もあって明治5年、兵部省を陸軍省と海軍省に分けるとともに、徴兵令が布告されました。

徴兵告諭

朝上古ノ制海内挙テ兵ナラサルハナシ有事ノ日
天子之カ元帥トナリ丁壮兵役ニ堪ユル者ヲ募リ以テ不服ヲ征ス役ヲ解キ家ニ帰レハ農タリ工タリ又商売タリ固ヨリ後世ノ双刀ヲ帯ヒ武士ト称シ抗顔坐食シ甚シキニ至テハ人ヲ殺シ官其罪ヲ問ハサル者ノ如キニ非ス抑
神武天皇珍彦ヲ以テ葛城ノ国造トナセシヨリ爾後軍団ヲ設ケ衛士防人ノ制ヲ定メ神亀天平ノ際ニ至リ六府二鎮ノ設ケ始テ備ル保元平治以後朝綱頽弛兵権終ニ武門ノ手ニ墜チ国ハ封建ノ勢ヲ為シ人ハ兵農ノ別ヲ為ス降テ後世ニ至リ名分全ク泯没シ其弊勝テ言フ可カラス然ルニ太政維新列藩版図ヲ奉還シ辛未ノ歳ニ及ヒ遠ク郡県ノ古ニ復ス世襲坐食ノ士ハ其禄ヲ減シ刀剣ヲ脱スルヲ許シ四民漸ク自由ノ権ヲ得セシメントス是レ上下ヲ平均シ人権ヲ斉一ニスル道ニシテ則チ兵農ヲ合一ニスル基ナリ是ニ於テ士ハ従前ノ士ニ非ス民ハ従前ノ民ニアラス均シク 皇国一般ノ民ニシテ国ニ報スルノ道モ固ヨリ其別ナカルヘシ凡ソ天地ノ間一事一物トシテ税アラサルハナシ以テ国用ニ充ツ然ラハ則チ人タルモノ固ヨリ心力ヲ尽シ国ニ報セサルヘカラス西人之ヲ称シテ血税ト云フ其生血ヲ以テ国ニ報スルノ謂ナリ且ツ国家ニ災害アレハ人々其災害ノ一分ヲ受サルヲ得ス是故ニ人々心力ヲ尽シ国家ノ災害ヲ防クハ則チ自己ノ災害ヲ防クノ基タルヲ知ルヘシ苟モ国アレハ則チ兵備アリ兵備アレハ則チ人々其役ニ就カサルヲ得ス是ニ由テ之ヲ観レハ民兵ノ法タル固ヨリ天然ノ理ニシテ偶然作意ノ法ニ非ス然而シテ其制ノ如キハ古今ヲ斟酌シ時ト宜ヲ制セサルヘカラス西洋諸国数百年来研究実践以テ兵制ヲ定ム故ヲ以テ其法極メテ精密ナリ然レトモ政体地理ノ異ナル悉ク之ヲ用フ可カラス故ニ今其長スル所ヲ取リ古昔ノ軍制ヲ補ヒ海陸二軍ヲ備ヘ全国四民男児二十歳ニ至ル者ハ尽ク兵籍ニ編入シ以テ緩急ノ用ニ備フヘシ郷長里正厚ク此 御趣意ヲ奉シ徴兵令ニ依リ民庶ヲ説諭シ国家保護ノ大本ヲ知ラシムヘキモノ也
明治五年壬申十一月廿八日 太政官

陸軍省官版『徴兵令』2丁目

大意
古代の日本では、国民すべてが兵であって、その総司令官は天皇であった。保元平治の乱を経て武家政権が成立、封建制に移り変わったら兵と農とが別になった。ところが、大政一新して郡県制度を復活させたので、士族も平民も従前とは違って、ひとしく「皇国の民」である。国に報いる道もまた別々ではない。心力を尽くして国に報いるのは、国民の本分である。西洋人はこれを「血税」と呼ぶ。国家に災害が及べば、これを防ぐのは、つまり自分の災害を防ぐのと同じだ。だから国民が兵役に就くのは「自然の理」であり、「偶然作意の法」ではない。(以下略)

ことに肝心なのは「世襲坐食ノ士ハ其禄ヲ減シ刀剣ヲ脱スルヲ許シ四民漸ク自由ノ権ヲ得セシメントス」という部分です。武士と称する特権階級を廃止して「四民平等」を謳う以上、国民すべて平等の義務を負うのは、理屈のうえで当然のことです。兵役の義務もまた平等に負わせよう、というのが徴兵令の骨子であります。

まあ、こんな風に格調高い「告諭」をつくったけれども、それがどう伝わったかというと。末端に伝わる頃には、ずいぶん捻じ曲げられていたのであります。

血税騒動

明治初年、政府からの布告は、まず高札に掲げられます。それを名主クラスの中間支配層が『御用留』という帳面に書き写して持ち帰ります。その帳面を見ながら、字が読めない村人たちに話し言葉で内容を伝えます。最終的には又聞きしたことを更に又聞きというようになりますよね。なんでまた、そんなことをしたのか?

まだインターネットがなく、テレビ・ラジオもなく、新聞すら大都市でしか発行されていません。なおかつ、当時の新聞はデマばかりでした。たとえば……

其の多くは見て来たやうな虚構ばかりを吐いて、会津や脱走が勝つたと書ねば売れぬと云ふので、其の記事には、奥羽軍は連戦連勝、今にも江戸へ繰り込むやうな事のみ書いてゐた。現に尤も失笑すべきは。九月の廿四日には会津は既に落城してゐる。其れを何雑誌だか名は忘れたが、其の前後の発行のものに、「会兵既に日光を占領して宇都宮に及び、其の先鋒は近日長駆して草加越ヶ谷まで来ると云ふ、既に其の先触もあつた。」と云ふやうな事が載せてあつたのを覚えて居る。

塚原渋柿園 著『奥羽の戦争』p26~27

政府は『太政官日誌』ほか、事実報道に徹した刷り物を発行して書店で頒布し、報道機関の理念を弁えていなかった新聞各紙に対抗していたくらいです。

そんなわけで、当時の新聞には事実を報道することを期待できませんから、大事な布告は高札に掲げたり、太政官日誌に載せたりしましたが、最終的に字が読めない人にまで伝えるから、どうしても伝言ゲームになってしまいます。

で、「血税」などという格調高い表現をしちゃったものだから、それが伝言ゲームのネタにならないわけがないんですよ。

通俗的な読み物ではありますが、『絵本明治太平記』によると

翌六年一月に至り東京先代名古屋大阪広島熊本等へ鎮台を置き又別に血税云々の布告ありて凡国民たるものハ粉骨砕身して国に報ゐるの義務ある旨趣なれども山村僻地の頑愚蒙昧の民往々之を誤解して己が生血を絞り取らるゝ抔といひ一見虚に吠れハ万犬実を伝ふの謂れにて処々に群集し或ハ県庁に強訴するあり竹槍鉄砲を以て区戸長に暴動するありて諸道騒然たりしが 明政の下争暴民暴徒の轍を踏む者あらん一時にして終に鎮静に及びたり

福井淳 編『絵本明治太平記』p108

まあ、この「生血を絞り取らるゝ」パターンなら後世に伝わる「誤解」の典型例ではありますが、あまりに捻りがなさすぎて事実かどうか、すんなりとは信用できません。そこで、山梨県の権令の布告のなかに伝わっている、もう一つの「誤解」を見てみましょう。

処女ヲ撰ミ兵隊ニ組入ラレ、或ハ女ノ膏ヲ取リ外国ニ遣ハサルル抔、昨今頻リニ流言シ、是ガ為俄ニ婚姻ヲ結ビ、或ハ他方ニ身ヲ隠ス抔間々狼狽ノ所業有之趣相聞言語道断惑ヒノ甚シキモノト謂フベシ、試ニ考究セヨ、女ヲ兵ニナシ何ノ用ヲナスヤ、又人民保護ノ政府トシテ人ノ膏ヲトル抔苛酷ノ事ヲ為スノ理有ンヤ、又人ノ膏何ノ用ニ供スルヤ、右等ハ畢竟事ヲ好ムノ奸民斯ル妄言浮説ヲ唱ヘ人ヲ誑惑スルノ所為に有之候条必ズ是等ニ惑ハサレ見トメモナキ婚姻等取結ヒ生涯ヲ誤ラシムル勿レ、若猥ニ無謂義申触スモノ有之候ハハ早速可申出候、此段戸長共ヨリ一統ヘ無洩可申諭事、右之趣管内無洩相達スルモノ也

明治六年三月十一日 山梨権令 藤村紫朗

中富町誌編纂委員会『中富町誌』p478

処女の生き血を搾るとか、人のアブラを採るとか、様々なバリエーションに富んだ流言飛語があったというけれど、ホントかよって思いません? でも、この禁令は予防的に発せられたものではありません。実際に馬鹿げた流言がまことしやかに広まったため対処したのであります。

いや、まさか、そんな馬鹿げたことを言い触らすヤツがいるということを、事前に想定なんか出来るわけがないですしね。

流言のバリエーションは、探せばまだまだみつかりそうですが、けして「伝説」の類いでは無く実際にあったことだと察せられたので、ひとまずヨシとしましょう。

現代でさえ、ワクチンの副反応でBluetoothに接続できる身体になるとか、突拍子も無いことをネタにしている人がいるものなぁ。

徴兵制で、なにが起きなかったか

さて、徴兵制が施行されたことで、なにが起きなかったのかを考えて見ましょう。日本の徴兵制は、国民国家の徴兵制とは成り立ちが違うのはこの記事の前半で述べたとおりです。

国民国家では、国土を防衛したり国家に権益をもたらすために戦うことは、国民自身の利益になることだ、という建前です。

日本の場合、少なくとも初期の段階においては、国民に銃を向けて威圧するための軍隊でした。威圧にとどまらず、暴徒に対して実力を行使した例すらありました。なにをどう誤解したのか身分差別の撤廃に反対したあげく、意見を違えた集落を焼き討ちする暴動が起きました。これら数百名の暴徒に対し、出動した鎮台兵が容赦なく銃撃した実例があるのです。

国民国家の軍隊だったら、たとえ暴徒が相手であっても、同胞に発砲するのは躊躇する場面ではないでしょうか。

日本には国民軍が存在したことがありません。こののち制定された憲法でも、天皇は陸海軍を統率すると規定されており、軍隊は天皇のものであり、「皇軍」と呼ばれたりもしました。日本における徴兵制の生い立ちが違っていれば、いずれ「国民軍」と呼ばれるような軍隊になっていたかもしれませんね。

おわりに

初等教育が義務化されていない国で大きな変革を試みると様々な問題が生じます。だから、どうしても小学校を各村につくらせたい。けれども、竹槍で一揆を起こして反対する。このうえは軍隊で脅して黙らせよう……というキモチはわかりますよね? で、軍隊をつくるために徴兵令を発したら、このザマですよ。ちゃんとした軍隊をつくるために、なけなしの軍隊を動員するという明治初年の日本は、まぎれもない発展途上国だったのであります。そこから30年くらいで、大国ロシアと戦争するほど強い国になるわけで、これがファンタジー小説で語られる異世界のことだったら誰もがリアリティーに欠けると思うでしょう。なんとも明治史とは無茶な設定のシナリオです。そんな信じがたい歴史のヒトコマを、いまワタクシは綴っておるのであります。

アイキャッチ画像:東京風景 陸軍観兵式(出典 国立国会図書館デジタルコレクション

書いた人

1960年東京生まれ。日本大学文理学部史学科から大学院に進むも修士までで挫折して、月給取りで生活しつつ歴史同人・日本史探偵団を立ち上げた。架空戦記作家の佐藤大輔(故人)の後押しを得て物書きに転身、歴史ライターとして現在に至る。得意分野は幕末維新史と明治史で、特に戊辰戦争には詳しい。靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修をつとめた。