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2021.08.27

血と涙を流し歩んだ20余年。「明治憲法制定」と「統帥権独立」で何が起きなかったか

この記事を書いた人

はじめに

明治元年3月、まだ江戸開城交渉が妥結していなかったとき、明治天皇は

「広く会議を興し、万機公論に決すべし」

と、天地神明に誓いました。このとき撒いた種が芽生え、育ち、花開き、実を結ぶまで20年以上をかけて数々の段階を踏んできました。

それが現実のものとなったのが、明治憲法の制定と国会の開設です。

多くの血と涙を流しながら歩んできた20年余の足取りを、たどってみましょう。

やっと「公議」が実現したけれど

まず明治新政府は明治元年閏4月21日(1868年6月11日)に政体書を公布、「天下ノ権力総テコレヲ太政官ニ帰ス」ことを宣言しました。今後は政令すべて太政官(ダジョウカン)から発せられるということです。そして、太政官制の下で立法、行政、司法の三権を分立すべきことを政体書に盛り込んでいました。このとき江戸開城で戊辰戦争は終結すると期待していたんじゃないかと思われますけれど、東北・北越戦争によって継続してしまいました。

政体書はコチラをどうぞ

戊辰戦争が終結したあと箱館戦争が勃発しましたが、榎本軍は政権を奪取するつもりはなく、分離独立を目指してもおらず、諸外国から交戦団体として承認されることもありませんでした。というわけで、戊辰戦争は終わって、箱館戦争という叛乱(内戦ではない)が起きたけれども、国の内外から孤立した榎本軍の降伏は時間の問題ですから、太政官は次のステップに移りました。

明治元年11月19日(1869年1月1日)、立法機関として公議所を開設することが決定され、明治2年3月7日(1869年4月18日)に第一回の会議が開催されました。

公議所は各藩の代表を1名ずつ、227人を公務人(のち公議人と改称)とし、それまで藩ごとにマチマチだった各種制度や法令を統一すべく、活動をはじめました。公議所では6月までに22回の会議が持たれ、切腹の廃止、帯刀の制限、人身売買の禁止などが議題に上りました。ところが、公議所内部で急進派と保守派の対立があったため、国家的大目標だった文明開化路線に相応しい建設的な議論に進まないことが多く、また、ようやく可決された議案が公布されることがないまま、7月には権限を縮小して集議院に改組されました。やがて廃藩置県が進むと藩の代表を議員とする議会の存在意義が失われ、明治4年以降は会議が開催されなくなり、明治6年には、なし崩しに廃止となりました。

幕末から唱えられていた列藩代表による「公議政体」が、ようやく実現したわけですが、その「はじめの一歩」は、思い描いていた理想とは異なっていたようで、選挙による議会に進むまでは、まだまだ遠い道のりがありました。

太政官制の発展

廃藩置県によって集議院の存在意義が薄れたあと、明治4年7月29日(1871年9月13日)には太政官の下に、国家の意思決定機関である正院、立法機関として左院、各省の卿(のちの大臣に相当)・大輔(次官)などで構成される右院が設置されました。これを太政官三院制と呼び、太政大臣の三條実美、右大臣の岩倉具視による二頭体制となりました。

この時期には大名だった松平春嶽や山内容堂が政界から引退し、かつて彼ら殿様の口を借りなければ意見も出せなかった西郷隆盛や木戸孝允など元藩士らが、政治の表舞台に立って活躍しはじめます。

正院 太政大臣ほか参議
右院 大蔵卿、外務卿、兵部卿ほか各省長官
左院 官選の議員

本来は、このように行政機関と立法機関を分離させる意味で三院制が布かれましたが、明治6年政変(あとで説明します)のあとは各省の卿が参議を兼ねることが多くなり、立法と行政の分離は曖昧になりました。

留守政府のもとで

明治4年11月から、政府要人の半分が米欧12ヶ国を巡る岩倉使節団として外遊に出ました。日本に残った三條実美、西郷隆盛、大隈重信、板垣退助らによる「留守政府」は、廃藩置県をはじめ重要な改革を断行していきました。

明治6年には征韓論争が起きて、留守政府と外遊組とが対立、論争に敗れた征韓派が政府を去ってしまいました。(明治6年政変)

米欧先進国との格差を痛感した外遊組は、日本を文明国として諸外国に認めさせるためには立憲体制を構築することが必要だと考えていました。しっかりとした憲法のもとで、各種の法律を整備しなければ、文明国として認めては貰えないのです。憲法制定と、選挙制の議会の設置とが、是非とも必要でした。

明治7年頃になると、征韓論争に敗れて下野した板垣退助や江藤新平が、早期に国会を開設すべきことを主張しはじめました。しかし、識字率が低いと新聞が普及せず、新聞が普及しなければ世論形成が難しいです。識字率をあげるためには、まず小学校を各村に設置しなければなりませんし、小学校で学んだ子らがオトナになるのを待たねばなりませんから、まだまだ時期尚早でした。

世論形成が出来ないと、言論によらず暴力で意見を主張することにも繋がります。小学校焼き討ちのような民意の暴走に対して、本来ならば「司法」で対応すべきことですが、明治初年には警察組織も各種の法律も未整備でしたから、軍隊で鎮圧するほかありませんでした。また、秩禄処分や廃刀令に反対して叛乱を起こした士族らも、あいついで軍隊によって鎮圧されています。

自由民権運動へ

士族の叛乱=武装蜂起に並行して、言論による闘争も始まりました。板垣退助、後藤象二郎ら、明治6年政変で政府から去った人々が、当時の政権のあり方を一握りのエリートが支配する「有司専制」であるとして批判し、明治7年1月に愛国公党を結成します。

有司専制とは、少数の者が権力を握る体制によって、実質的な政治権力が天皇になく、また、国民一般にもない状態になっている、という事に対する批判です。

愛国公党は、民撰議院設立建白書を提出し、士族のほか平民にも言論活動が可能な豪農・豪商らには参政権を与え、議会を開設すべきだと主張しました。幕末から夢見てきた「公議輿論」の実現を目指したといえましょう。

某等別紙奉建言候次第、平生ノ持論ニシテ、某等在官中屡及建言候者モ有之候処、欧米同盟各国へ大使御派出ノ上、実地ノ景況ヲモ御目撃ニ相成、其上事宜斟酌施設可相成トノ御評議モ有之。然ルニ最早大使御帰朝以来既ニ数月ヲ閲シ候得共、何等ノ御施設モ拝承不仕、昨今民心洶々上下相疑、動スレバ土崩瓦解ノ兆無之トモ難申勢ニ立至候義、畢竟天下輿論公議ノ壅塞スル故卜実以残念ノ至ニ奉存候。此段宜敷御評議ヲ可被遂候也。

明治七年第一月十七日
高智県貫属士族 古沢迂郎
高智県貫属士族 岡本健三郎
名東県貫属士族 小室信夫
敦賀県貫属士族 由利公正
佐賀県貫属士族 江藤新平
高智県貫属士族 板垣退助
東京府貫属士族 後藤象次郎
佐賀県貫属士族 副島種臣
左院 御中

国立公文書館デジタルアーカイブ(原本画像)

留守政府の征韓派を追い出した外遊組は、その目で先進国を実地に見て回ってきた。それなのに帰国して何ヶ月か経っても、なんら動きがないではないか……という、なかなかキツイ表現から始まる建白書なんですが、本題の民撰議院設立については「別紙」で論じられています。かなりの長文なので、別紙から大事な2箇所だけ拾い読みします。

今政権ノ帰スル所ヲ察スルニ、上帝室ニ在ラズ、下人民ニ在ラズ、而独有司ニ帰ス(現状が「有司専制」であることを指摘)

夫人民、政府ニ対シテ租税ヲ払フノ義務アル者ハ、乃チ其政府ノ事ヲ与知可否スルノ権理ヲ有ス(納税の義務と参政権は表裏一体)

議会政治社編輯部 編『日本憲政基礎史料』p138-142

この民撰議院設立の建白が全国各地で国会開設を求める政治運動を呼び起こし、やがて自由民権運動に発展していきました。

士族反乱の時代

文明開化や殖産興業政策で西洋の技術や文化が未消化のまま導入されて生じた急激な社会変化には、反発もまた急激に起きました。ことに俸禄の支払い停止や廃刀令に不平を抱いた士族らの憤懣は、とうてい抑えきれるものではありませんでした。不平士族の活動は戊辰戦争の主体となった薩摩、長州、土佐、佐賀などで活発となり、命がけで維新回天の事業に参画しながらその報酬を受けるどころか、旧幕府方にいた士族と同様に士族としての特権が失われることについて不満は募るばかりでした。明治7年の佐賀の乱から明治10年の西南戦争まで、そうした不平士族による武装蜂起が相次ぎました。士族といえば、読み書きが出来る知識階級でもありますが、言論によらず武器を執っての闘争に走ったのは、新聞が未発達で世論形成が困難だったこともありましょう。しかし、板垣退助らが興した民撰議院設立運動は、言論による闘争で全国規模の世論を形成することに成功しました。

国会開設の詔

明治14年10月11日、明治天皇は御前会議を招集、その席上で明治23年を期して国会を開くことを定め、翌日には詔を発して国民一般に布告しました。

朕祖宗二千五百有余年ノ鴻緒ヲ嗣キ、中古紐ヲ解クノ乾綱ヲ振張シ、大政ノ統一ヲ総攬シ、又夙ニ立憲ノ政体ヲ建テ、後世子孫継クヘキノ業ヲ為サンコトヲ期ス。嚮ニ明治八年ニ元老院ヲ設ケ、十一年ニ府県会ヲ開カシム。此レ皆漸次基ヲ創メ、序ニ循テ歩ヲ進ムルノ道ニ由ルニ非サルハ莫シ。爾有衆、亦朕カ心ヲ諒トセン。

顧ミルニ、立国ノ体国各宜キヲ殊ニス。非常ノ事業実ニ軽挙ニ便ナラス。我祖我宗、照臨シテ上ニ在リ、遺烈ヲ揚ケ、洪模ヲ弘メ、古今ヲ変通シ、断シテ之ヲ行フ、責朕カ躬ニ在リ。将ニ明治二十三年ヲ期シ、議員ヲ召シ、国会ヲ開キ、以テ朕カ初志ヲ成サントス。今在廷臣僚ニ命シ、仮スニ時日ヲ以テシ、経画ノ責ニ当ラシム。其組織権限ニ至テハ、朕親ラ衷ヲ栽シ、時ニ及テ公布スル所アラントス。

朕惟フニ、人心進ムニ偏シテ、時会速ナルヲ競フ。浮言相動カシ、竟ニ大計ヲ遺ル。是レ宜シク今ニ及テ、謨訓ヲ明徴シ、以テ朝野臣民ニ公示スヘシ。若シ仍ホ故サラニ躁急ヲ争ヒ、事変ヲ煽シ、国安ヲ害スル者アラハ、処スルニ国典ヲ以テスヘシ。特ニ茲ニ言明シ爾有衆ニ諭ス。


勅   太政大臣三条実美
明治十四年十月十二日

国立公文書館デジタルアーカイブ(原本画像)

要は、「10年経たないうちに国会を開設する」と、天皇が国民に公約したわけです。そのうえで「故サラニ躁急ヲ争ヒ、事変ヲ煽シ、国安ヲ害スル者アラハ、処スルニ国典ヲ以テスヘシ」と、暴力的な国会開設運動をやるんじゃないぞ、と、釘を刺す内容でした。

じゃあ、これで民権運動は穏健になったかというと……

困民党事件

武装蜂起した士族らは、すべて鎮圧されてしまいましたが、平民はどうなったでしょうか。徴兵告諭の「血税」を誤解して竹槍一揆を起こした段階からワンステップあがり、激情の赴くままに一揆や打ち毀しに走ることは減ってきましたが、まだまだ政府への要求を暴力的な手段で訴えることは続きました。

西南戦争の戦費調達によって生じたインフレを是正すべく、政策的にデフレ誘導したところ、薬が効きすぎて深刻な不景気になってしまったのが、明治14年頃のことです。

それまで政府の経済政策を担ってきた大隈重信が失脚し、かわって松方正義が財政を担い、大隈財政から大きく方針を転換させました。世にいう松方デフレです。そして緊縮財政と、煙草税や酒造税などの増税とで景気は大きく後退し、生糸やコメなど主要な農産物の価格が下落しました。たまらないのは、好景気に釣られて増産を図り、借金してまで設備投資していた農民たちでした。景気の波に乗ったつもりで投資を先行させてしまった農民たちは、たちまち金利負担の重さに耐えかねるようになったのです。

埼玉県の秩父地方と、神奈川県と東京都に跨がる多摩地方で、困窮した農民たちが蜂起した事件が起きました。このうち武相困民党事件についての記念碑によると、以下のような実力行使の闘争だったとのことです。

明治17(1884)年7月31日、上鶴間とその周辺の農民300人は、金融会社の負債問題を協議するため、当青柳寺の境内に集まった。この集会こそその後数ヶ月にわたって武相の山野をゆるがした、武相困民党のさきがけをなすものであった。つづく8月10日には、上鶴間村を先頭に数千人の農民が御殿峠に蜂起し、武相7郡150村に及び大組織に発展して行った。

この困民党事件は、先行する自由民権運動の影響の下で、借金地獄からの脱出と生存の自由を求めて立ち上がった運動であった。しかしこの壮大な運動も翌18年1月には権力の弾圧の前に力尽きて潰滅した。

ここに、武相困民党百周年を記念し、事件の概要と指導者の名を勒してその事蹟を伝える。
(人名は省略します)

『武相困民党事件発祥之地』 裏面碑文
(神奈川県相模原市南区)

時代を遡れば徳政令の要求に近しい運動だと思いますし、国会開設運動と直接繋がらないけれども、負債農民が八王子警察署に乱入するなどの騒擾に及び、高利貸を殺害する事件も発生しており、それら事件の処理や、貸金業者と農民の仲裁に自由民権運動家が介入していたので無関係ではありません。それどころか、自由民権運動は、農村を支持基盤として取り込んでいったので、関係は大アリなのであります。弾圧する側の警察も、容赦なく実力行使で民権運動を鎮圧したり、まだまだ暴力に訴える闘争は続きました。

「武相困民党事件発祥之地」碑(神奈川県相模原市南区)

私擬憲法

憲法の構想は、官民を問わず明治初期から検討されてきました。そのうち民間から生まれた憲法草案を私擬憲法といいます。いくつかある私擬憲法のなかで、最も知名度が高いのは『五日市憲法』でしょう。深沢村(現在の東京都あきるの市深沢)の豪農で、自由民権運動の指導者だった深沢権八の家に伝わったもので、権八の同志だった千葉卓三郎が明治14年頃に起草したものとされています。

五日市憲法は政府からの諮問があったわけでもなく「こんな憲法できたら良いなぁ」という、庶民の願望から練り上げられたものですが、その内容は国民の権利保障を謳いながら、天皇に強い権限を持たせるものでした。ワタクシが勝手に憶測したことですが、自由民権運動の闘士としては、政府に対する不信感が強く、政府の権限を天皇の君主権によって制限するという狙いだったのかなぁと考えています。これら私擬憲法が日の目を見ることはなかったのですが、当時の教育を受けた庶民たちの、政治への参画意識をヒシヒシと感じることができます。

明治天皇と憲法学

明治17年から18年にかけて、明治天皇は伊藤博文との関わりを避けるようになりました。

まだ衆議を尽くした結果としての憲法草案が出来ていないのに、性急に宮中改革を先行させようとする博文のやり方が、たいそうお気に召さなかったのです。いったん改革してしまえば、そう簡単に改めることはできませんから、慎重にことを進めたいとする天皇さまのお考えは揺るぎないものでした。しかし、それ以外にも問題は山積していました。天皇の博文への不信感は、とうとう顔を合わせることさえ拒むほどになり、重要案件の処置が滞ってしまいました。

明治17年7月には、いったん宮内省を辞めて日本鉄道会社の社長におさまっていた吉井友実を、再三の説得のすえ宮内大輔に再任させることとし、宮中の険悪な空気を入れ替えようとしました。それほど事態は深刻だったのです。

しかし、天皇は体調不良を理由として、奥に籠もられることが多くなりました。たとえ参議であろうと宮内卿であろうと、なにか非常事態でもないかぎり、天皇の寝室にまで押し掛けることは出来ません。

また、博文に拝謁を許すよう諫言しそうな人々に対しても拝謁を許さなかったのです。それは、せっかく戻ってきた友実に対しても同様でした。

そんな状況でも、常に内廷に出入りしている人がいました。侍従の藤波言忠です。友実は、天皇と年齢が近い言忠が、幼い頃から天皇にお仕えしてきた特別な関係にあるので、お諫め申し上げて欲しいと懇願しました。

天皇に御意見申し上げるなど、侍従の職分ではありません。しかし、この時期の日本は内政外交ともに、むずかしい問題が山積していました。激化した民権運動が騒乱事件を起こしたり、朝鮮をめぐって清国と対立を深めていたりしたのです。そのような重大な局面にあって、「天皇から信頼されないならば」と、博文は辞表を書いたほどでした。言忠は皇后に相談したうえで、あえて職分を超えて、天皇に諫言すると意を決したのです。

言忠の言葉を聞くと、天皇はお怒りでした。御意見申し上げることは、侍従の職分ではないからです。しかし、「国家のため、黙すること能はず」と、言忠は言葉を続けます。ついに天皇は寝室に籠もってしまわれました。皇后は言忠を諭して退出させました。

退出した言忠は、待っていた友実らに状況を告げ、「言応に行はるべし」と言い切りました。きっと天皇は御理解くださるというのです。その言葉どおり、しばらくして天皇は博文に拝謁を許されました。また、言忠を廊下に呼び出し、「朕がために能く言を尽せり」と、金時計と反物を下賜なさいました。藤波が感泣したのはいうまでもありません。

天皇をお諫め申し上げた言忠は、明治18年8月からドイツに留学します。牧場の経営に関して研究するとのことでしたが、博文からオーストリアの憲法学者、ローレンツ・フォン・シュタインの講義を受けるよう指示を受けます。シュタインは博文が憲法調査のために渡欧した際に、大きな影響を与えた人物でした。言忠にシュタインの講義を受けさせた真の目的は、そのエッセンスを天皇に伝えるためでした。

それで伊藤はこのスタインの憲法論を明治天皇の叡聞に達したいと思って、明治十八年八月侍従の子爵藤波言忠が牧場の研究で洋行を命ぜられた時に、特に藤波に嘱託するにこのことを以てし、スタインに就いて、憲法学を学び、帰朝の後明治天皇に御進講申上げよと命じた。伊藤は当時宮内卿であつた。藤波は驚いて、それは学問の素養のない私の出来ることでないと辞退したが、伊藤は許さなかった。いや私は君が最適任者であると信じていふことだ、是非にやって貰いたいといつてきかない。

渡辺幾治郎『明治天皇と立憲政治』学而書院 昭和10年 P71

シュタインの毎日三時間ずつ九ヶ月にわたる個人講義は丁寧ではあっても厳しいもので、言忠は神経衰弱に陥り、明治20年11月に帰朝します。その間に蓄えた新知識は、言忠が宿直として御奉仕する夜、1時間ずつ33回にわたって御進講申し上げることで天皇に伝わりました。

結局のところ、明治憲法は必ずしもシュタイン学説に沿ったものにはならなかったのですが、天皇が立憲政体に対する認識を深めさせられたのは間違いありません。

内閣制度の発足

日本で「内閣」という呼称が用いられたのは、明治6年の「太政官職制」の改正で参議の職掌を「内閣ノ議官ニシテ諸機務議判ノ事ヲ掌ル」と定めたことによるらしいです。それ以前の用例を私が知らないだけかもしれませんが。ひとまず、コレが初めてと考えましょう。同時に「内閣ハ 天皇陛下参議ニ特任シテ諸立法ノ事及行政事務ノ當否ヲ議判セシメ凡百施政ノ機軸タル所タリ」、と定められました。

これによって、輔弼責任者としての太政大臣および左右大臣と、国策を審議したり立案する参議との区別が明らかになったけれども、ここでいう「内閣」は、憲法のもとで設置された「内閣」とは、だいぶ性格が違います。

いまのように、総理大臣および国務大臣で組織される「内閣」は、憲法制定に先立って明治18年12月22日に発せられた「太政官達第69号」によって設けられました。

○太政官第六拾九号
官省院庁府県
今般太政大臣左右大臣参議各省卿ノ職制ヲ廃シ更ニ内閣総理大臣及宮内外務内務大蔵陸軍海軍司法文部農商務逓信ノ諸大臣ヲ置ク

内閣総理大臣及外務内務大蔵陸軍海軍司法文部農商務逓信ノ諸大臣ヲ以テ内閣ヲ組織ス

明治十八年十二月二十二日
奉  勅

『官報号外』(明治18年12月22日)

・太政大臣、左右大臣、参議および各省の卿を廃止する。更に(この場合は「あらためて」を意味します)内閣総理大臣、宮内、外務、内務、大蔵、陸軍、海軍、司法、文部、農商務、逓信の諸大臣を置く

・内閣総理大臣および各大臣(ただし宮内大臣を除く)をもって内閣を組織すること
 
という、布告です。同時に達せられた『内閣職権』では、

○内閣職権 明治十八年十二月二十二日(無号達)
内閣ノ職権ヲ定ムル事左ノ如シ
第一条 内閣総理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承テ大政ノ方向ヲ指示シ行政各部ヲ総督ス
第二条 内閣総理大臣ハ行政各部ノ成績ヲ考ヘ其説明ヲ求メ及ヒ之ヲ検明スルコトヲ得
第三条 内閣総理大臣ハ須要ト認ムルトキハ行政各部ノ処分又ハ命令ヲ停止セシメ親裁ヲ待ツコトヲ得
第四条 内閣総理大臣ハ各科法律起案委員ヲ監督ス
第五条 凡ソ法律命令ニハ内閣総理大臣之ニ副署シ其各省主任ノ事務ニ属スルモノハ内閣総理大臣及主任大臣之ニ副署スヘシ
第六条 各省大臣ハ其主任ノ事務ニ付時々状況ヲ内閣総理大臣ニ報告スヘシ但事ノ軍機ニ係リ参謀本部長ヨリ直ニ上奏スルモノト雖モ陸軍大臣ハ其事件ヲ内閣総理大臣ニ報告スヘシ
第七条 各大臣事故アルトキハ臨時命ヲ承ケ他ノ大臣其事務ヲ管理スルコトアルヘシ

法制局『法規提要』明治20年編 下巻p10-11

と、定められ、建前上「行政の全権は天皇にある」わけですが、内閣制度の発足によって実質的な行政責任の所在を明確にしたといえましょう。

ちょっと脱線します。

この時期には「官報」で各種の布告がなされるようになりました。かつては高札に布告を掲げ、それを名主が「御用留」に書き写し、村人に読んで聞かせていたのが、全国どこでも印刷物で届けられるようになったので、もはや血税一揆みたいな伝言ゲームにはなりません。この辺りのことは【徴兵告諭の回】を御参照ください。

割烹旅館で憲法を

本命の政府主導による「憲法草案」の作成は、明治19年頃から始まっています。博文を中心に、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎の4名が、旧幕時代から観光名所として栄えていた金沢洲崎(神奈川県横浜市金沢区)にあった割烹旅館の「東屋」で憲法草案を練っていました。ところが、その草案原稿の入った鞄の盗難事件が起こります。政府要人の鞄には、さぞかし金目のものがあると思ったのでしょう。なかに入っていたのは紙の束で、「こんなものは要らない」とばかりに放り出されたようで、鞄は翌日、無事に発見されたそうです。この事件を機会に、その後は沖合に浮かんだ夏島にあった、博文の別荘で草案作成が続き、原型が出来上がりました。これを「夏島草案」と呼びます。いまでは海面の埋め立てにより陸続きになった夏島に、「明治憲法起草地記念碑」が建っています。

割烹旅館「東屋」跡(神奈川県横浜市金沢区)

その後、夏島草案の推敲が続けられ、明治21年3月に至り、各条の検討結果を反映させ、改めて浄写した草案が作成されました。表紙には「博文」の署名があり、博文みずから原案を枢密院に持参して、鉛筆で修正部分を書き入れたと伝えられています。

いよいよ完成に近づいた5月8日から、憲法草案審議の御前会議が開かれました。会場は、赤坂仮皇居の御会食所で、その建物は移築され、明治記念館として現存しています。ここで12月17日まで審議が続き、天皇も毎回欠かさず臨席していました。天皇にとっても憲法制定は重大な関心事で、11月12日の審議中に第四皇子の昭宮猷仁親王が薨去なさった際にも、その報せを受けながら天皇は審議が終わるまで議場にとどまっていたほどでした。

明治記念館【憲法記念館】(東京都港区元赤坂2丁目)

憲法発布と超然主義

明治22年2月11日、天皇は早朝から賢所および皇霊殿に参拝、したしく憲法発布を神々に告げました。これは「祭政一致」の国体(お国柄)を示したことでもあります。

そのあと、天皇は午前10時半から、さきごろ落成した明治宮殿の正殿にお出ましになり、憲法発布の大典を挙げられたのでした。

憲法制定に尽力した博文は、このとき総理大臣の座を黒田清隆に譲っていました。鹿鳴館に象徴される第1次伊藤内閣の対外政策が国内外の不評を買って総理大臣を辞すこととなり、新設ポストの枢密院議長として憲法発布の日に臨んだのでした。

余談ながら……同日、勤王憂国の士で顕著な活躍を示した者に、特旨を以て贈位されました。すなわち、西郷隆盛に正三位、藤田誠之進(彪、東湖)・佐久間修理(啓、象山)・吉田寅次郎(矩方、松陰)に正四位が贈られました。西南戦争で逆賊の汚名を蒙った隆盛の復権は、どうも天皇の意とするところが大きかったように思えてなりません。大政復古の偉業に功績甚だ顕著ではありますが、不幸にして叛乱の罪を得て、官位を褫奪されていました。この日、大赦の令があり、国事犯罪者は斉しく恩典に浴したので、隆盛もかつて享受した正三位を、あらためて追贈されたのでした。

閑話休題。

第2代内閣総理大臣たる清隆は、憲法公布翌日、鹿鳴館で開催された午餐会の席上、地方官らを前にして「政府は常に一定の方向を取り、超然として政党の外に立ち、至公至正の道に居らさる可らす」という超然主義の演説をしました。内閣は議会・政党の意思に制約されず行動すべきであるという意志の表明でした。

立法を司る議会と、行政を司る内閣とが並び立つことは、三権分立の建前からすると当然ではありますが、実際には内閣と議会とが対立するようでは、国家の急務というべき殖産興業や富国強兵に向けた各種の施策を推進することが困難となります。やがては初代内閣総理大臣たる博文みずからが立憲政友会という政党を組織することで、超然主義を否定するに至りました。そして、現行の昭和憲法のもとでも議院内閣制が採られ、立法と行政とに大統領制のような厳格な分離はありません。それが現在につづく日本の国体(お国柄)なのだといえましょう。

憲法に定めた統帥権で、なにが起きなかったか

憲法とは国の成立に関わる統治の根本であり、権力の限界を定めるものです。明治憲法の場合は欽定憲法といって、君主によって制定されたという建前でした。しかし、明治憲法は天皇大権に属する「統帥権」が不完全でした。

第11条 天皇は陸海軍を統帥す
第12条 天皇は陸海軍の編制及常備兵額を定む

と、規定されてはいても、軍事予算は国会の議決を経ずに調達できません。現地軍が勝手に武力衝突を起こしたとしても、手持ちの弾薬や食糧を消耗したら、追加の予算を要求しなければなりません。統帥権の濫用に対する安全弁は用意されていたわけです。しかし、昭和初年の議会は、日本が戦争への道を走ることを止められませんでした。

遡って日露戦争前夜のことを考えて見ましょう。世論は対ロシア強硬論一色に染まりました。「いま戦っても勝てない」と、戦争を避けてきたのは、むしろ軍部の方でした。統帥権は天皇のものだという理屈で、国民世論に対して超然としていられたのでした。そして軍備を拡張してから、「いま開戦しないと勝ち目が無い」タイミングで開戦して、辛くも勝利を得たのです。

昭和初年の日本は、統帥権というツールを逆に作用させてしまいました。泥沼の戦争を避けるために、用意された安全弁を使うことは、ついに起きなかったのでした。

五日市憲法で見られるように、政府の権限を制限するために天皇大権を温存するという考え方がありました。誰かが強く言い出したら、それを否定するのは難しかったことでしょう。なにせ、天皇が天地神明に誓った五箇条が、日本の近代を開いたという建前だったからです。しかし、統帥権という安全装置を逆に作用させてしまったことから考えると、天皇大権の温存という、天皇の個人的な人徳に期待せざるを得ないシステムは、アブナイものだったといえましょう。

そんなアブナイ憲法のもとで、まがりなりにも立憲政体が機能したのは、本当に、明治天皇の自制心によるところも大きいです。たとえば、憲法学を身につけた藤波言忠は、お気に入りの侍従であったのは間違いありませんが、政界入りを希望した言忠を厳しく引き留めておられます。

かくまで御親愛あそばされた藤波に就いても、その材能と性格とを能く御弁へあそばされたので、不適当と思召さるゝことを申出でた時には、決して御聴しあそばされなかつた。

藤波が嘗て貴族院に入つて、政治家になりたいといひ出した時には、天皇はその材能にあらざるを知つて御聴しなく、藤波が固く請うた時は、甚だ御立腹で、

汝が若しどうしても、政治家になるならば、今後一切、汝には構はないぞ。

とまで仰せられ、二ヶ月も藤波に御言葉がなかつたので、藤波も翻然として覚る所があつてことが漸く治まつたといふことがある。能く人を愛し、人を信じたまうたが、信愛の中に自づとけじめがあつたのである。

渡辺幾治郎 著『明治天皇の聖徳 重臣』p128

もし、明治天皇が野心家だったら、言忠のような側近を何人も国会に送り込んで、様々に議会工作させるなど造作もないことです。けれども、むしろ言忠の政界入りを阻んだくらいで、憲政に対して筋を通してますよね。

憲法と一対をなす皇室典範では、天皇が引退あそばされることを想定していませんでした。起きなかったといえば、天皇の引退を認めるように、皇室典範および憲法を改正することもまた「起きなかった」のであります。

いまの上皇さまの「無理があろうと思われます」というビデオ口宣で、国民は「遜位の思し召し」を忖度し、たちまち国会で「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」(平成29年法律第63号、略称「退位特例法」「譲位特例法」)が成立してしまいました。これって、大げさにいうと憲法を超越する”不成文の君主権”が発動したわけですよね。大きな波乱が生じることも無く、わりかしスンナリと。正直、意外に思いました。強く反対するヤツ誰もいないのかよって。結局のところ憲法や皇室典範はいじらずに、一回限りの特例法で対処したわけですが、それにしたって憲政史上の重大な転換点だったんですよ?

そのことは、まだ記憶に新しいけれど、しょせん人間の考えたシステムには限界があるし、それを乗り越える覚悟は常に必要なのだろうなと思わせられた出来事でした。なんのかんのといって、国民は天皇の人徳に期待し、天皇もまた国民を信頼しているのですよね。

アイキャッチ画像:「明治憲法草案起草の跡」碑(神奈川県横須賀市夏島町)

書いた人

1960年東京生まれ。日本大学文理学部史学科から大学院に進むも修士までで挫折して、月給取りで生活しつつ歴史同人・日本史探偵団を立ち上げた。架空戦記作家の佐藤大輔(故人)の後押しを得て物書きに転身、歴史ライターとして現在に至る。得意分野は幕末維新史と明治史で、特に戊辰戦争には詳しい。靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修をつとめた。