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2021.09.09

土方歳三ってどんな人?泣く子も黙る新選組副長の生涯を3分で解説

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土方歳三(ひじかた としぞう)は、江戸時代末期に活動した「新選組(新撰組とも書く)」でナンバー2である「副長」を務めた人物です。

新選組は、明治維新の混乱の中で江戸幕府の特別警察あるいは治安維持部隊のような仕事をした組織のこと。主なメンバーは各地の浪士(仕える主人などがいない武士)から成り、倒幕(幕府を倒そうとすること)を企む人物がいると聞くや、手段を選ばず(つまり暗殺もいとわず)武力によって幕府の体制を維持しようとしました。

この新選組のトップは「局長」などと呼ばれ、近藤勇という人物が務めていました。歳三は、この近藤勇と同郷で、幼い頃から親しい間柄にありました。

新選組が今に至るまで語り継がれ、たびたび小説や映画、ドラマなどになっているのは、一つにはこの二人を中心として、腕だけで成り上がった男たちが刀一本で倒幕勢力に立ち向かい、まさに命を懸けて戦ったことが理由だと言えるでしょう。歳三をはじめ、新選組を構成した隊士たちの生き様は、ロマンを持って描かれ続けています。

土方歳三肖像(国立国会図書館デジタルコレクションより)

近藤勇とは10代からのつきあい

歳三は、1835(天保6)年、武蔵国多摩郡(現在の東京都日野市)に生まれました。

生家は「石田散薬」という薬を売る旧家で、歳三は6人兄弟の末っ子。しかし幼い時分に両親を亡くし、彼は次兄の喜六に育てられました。

11歳で江戸へ奉公に出て、後に佐藤彦五郎という人物の居候となり、家伝である石田散薬を行商して歩くかたわら、この佐藤彦五郎の道場で剣の稽古に励みました。

この佐藤彦五郎は、近藤周助という人物の門弟でした。近藤周助は「天然理心流」という剣術を中心とした武術の流派の一つで、近藤勇は周助の養子であり、歳三もこの周助の門弟となります。つまり勇と歳三は同じ流派の人物、「同門」でした。

歳三はこの天然理心流の道場「江戸試衛館」に住み込むようになり、後に師範代にまでなります。
また、この試衛館には後に新選組の主要なメンバーとなる、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、永倉新八といった人物が出入りしていました。

私の先祖の話で恐縮ですが、この頃の試衛館に、私の6代前の先祖が通っておりました。新選組に「あえて入らなかった」武士の生涯はコチラ

最強暗殺集団の設立

1863(文久3)年、歳三28歳のとき、時の将軍・徳川家茂が上洛(京都へ行く)することとなり、それに伴って江戸では幕府が将軍警護のために剣術の心得があるものを募集しました。

これに歳三は勇らとともに手を挙げ「浪士組」として参加し、京都郊外の「壬生」という場所に本陣を構えます。この浪士組結成を呼びかけたのは清川八郎という人物でした。実は清川には浪士組結成に将軍警護とは別の目的を画策しており、そのことを知った勇や歳三は、清川とは袂を分かつことを決意します。「新選組」の前身となる「壬生浪士組」が生まれた瞬間でした。

このとき、彼らはその名の通り浪士の集団であり、直接に仕える主人はいませんでしたが、当時「京都守護職」を務めていた会津藩主・松平容保(かたもり)の支配下に入ることとなり、そこで「新選組」という名前を賜ります。

結成当初は、局長を芹沢鴨という人物が務めていましたが、素行の悪さなどから暗殺されます。実行犯は、新選組内部の人物でした。

このように、新選組は外に対しても武力を用いましたが、自分たち組織の内部にも徹底した規律を求め、違反した隊士には容赦なく切腹を申し付け、あるいは暗殺するなど、極めて厳格な組織体制を生み出していきました。入隊資格に身分や年齢は問われませんでしたが、求められる武芸の素養は非常に高く、また入隊しても日々の訓練や剣の鍛錬は過酷で、脱走した隊士も多くいたと言われます。歳三はこうした規律を徹底していきました。

ちなみに、彼の愛刀はいまも伝わります。最強剣士の選んだ刀がコレ

池田屋事件で有名になったイケメン

芹沢の死後、局長となった勇を歳三は副長としてたすけます。幼い頃からの信頼関係があったのでしょう、組織体制を固めつつ、新選組は活躍の場を広げていきます。

特に有名な事柄として、「池田屋事件」が挙げられます。この事件は1864(元治元)年7月8日、京都三条木屋町(三条小橋)の旅籠・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派の志士を新選組が襲撃した事件。志士7人が死亡し、23人が捕縛されました。

この事件で新選組の名前は京都中に広がり、目的達成のために手段を問わない暗殺集団に多くの人は恐怖したと言われます。

もちろん、新選組の活動は池田屋だけではありません。実は土方はあの渋沢栄一と「タッグ」を組んだこともあるようで。

歳三はこの事件に先立って、関係者の口を拷問によって割り、潜伏の情報を得ていたほか、事件当日は井上源三郎、斎藤一らを率いて土方隊を組織し、真っ先に突入した近藤隊を援護しています。

京都の旅館という狭く天井も低い空間の中で30人以上が真剣を持って斬り合うわけですから、剣の腕だけでなく、相手を組み伏せるような武術も必要だったでしょう。柔術なども学ぶ天然理心流はこうした状況下でも強さを発揮したと言われます。

こうした強さを見せつける一方、歳三は普段は温厚な人柄で、また容姿端麗であったために京都の女性たちから人気を集めていました。また、和歌や俳諧を嗜むなど風流人の要素もあり、彼の句は『豊玉発句集』としてまとめられています。

歳三のご子孫に、この『豊玉発句集』から歳三の人柄を読み解いていただきました。その記事がコチラ

また、新選組のイケメンは土方以外にもいたようで…実はいろいろな逸話が残っています

戊辰戦争、そして終焉の地へ

とはいえ、倒幕の流れは止めることができず幕府は大政を奉還し、ついに1868(明治元)年1月、新政府軍と旧幕府軍による鳥羽・伏見の戦いが起こります。

このとき病床にあった勇に代わって歳三は隊を指揮しますが、新政府軍の攻撃に敗走を続けます。この時期から新選組はほぼ組織として壊滅しており、生き残った隊士はちりじりになりつつ各地を転戦しました。

同年4月には、勇が江戸(東京)・板橋で官軍に斬首処刑されます。歳三も東京に戻って幕府主戦派の一隊と合流しますが敗れ、さらに宇都宮、会津と転戦を続けます。

宇都宮では、新政府軍が占拠していた宇都宮城を一時的ながらも陥落させるなど、西洋式の軍学にも精通していたと思わせる戦略・戦術を駆使して歳三は戦いを続けます。

その後さらに仙台まで後退し、そこで奥羽列藩(反維新政府の同盟を組んだ東北の諸藩)の兵とともに箱館(函館)へ逃れ、榎本武揚の指揮下に入り五稜郭で戦います。

この時、榎本武揚が指揮していた軍艦は「開陽丸」と言います。「悲劇の最新鋭艦」と呼ばれた軍艦の運命は…

京都から北海道まで、約1200キロ後退し続けながらも、戦い続けていた歳三でしたが、1869(明治2)年5月11日、五稜郭で抗戦中、郭外で流れ弾に当って戦死しました。享年35歳。

新選組結成からわずか6年余り。太く短く、輝いた男の生涯でした。墓は故郷・日野市石田の石田寺にいまもあります。

法名歳進院殿誠山義豊大居士。

参考文献
吉川弘文館『国史大辞典』
講談社『日本人名大辞典』
小学館『日本大百科全書』

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「賊軍」という汚名を着せられながらも戦い続けた男の人生——。この漫画もおすすめです。


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