歌舞伎は、江戸の繁栄を象徴するものの一つ。江戸の流行の発信源であり、社会に強い影響を与える存在でした。歌舞伎役者の舞台姿や日常の姿を描いた役者絵は、アイドルのブロマイドのようなもの。
でも、人気があったために、江戸時代後期の天保の改革では風俗を乱す根源と見なされて厳しく弾圧されます。そして、取り潰しの危機にあった歌舞伎を救ったのが、庶民の味方「遠山の金さん」こと、当時の江戸町奉行・遠山景元(とおやまかげもと)なのだとか。
天保の改革で弾圧された歌舞伎
「天保の改革」とは、江戸時代後期の天保時代(1830~1844年)に幕府・諸藩によって行われた改革の総称です。
幕政全般、特に深刻化した幕府の財政立て直しをするため、江戸時代に何度も改革が行われます。その中でも、8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)の行った「享保の改革」、老中・松平定信(まつだいらさだのぶ)による「寛政の改革」、老中・水野忠邦(みずのただくに)による「天保の改革」は、江戸時代の「三大改革」と呼ばれています。
天保12(1841)年5月、12代将軍・徳川家慶(とくがわいえよし)の老中・水野忠邦が「天保の改革」に着手。倹約令、風俗統制令を出して物価を安定させる政策をとり、対外政策なども断行します。改革は幕藩体制の立て直しを目指すものでしたが、その一環として、庶民の娯楽や贅沢も厳しく取り締まられました。高価な装身具や高級料理だけではなく、出版物、浮世絵、歌舞伎、寄席などの庶民の娯楽も贅沢品として制限されたのです。
芝居町の移転
当時の江戸では、「江戸三座」と呼ばれる堺町(さかいちょう)の中村座、葺屋町(ふきやちょう)の市村座、木挽町(こびきちょう)の森田座の芝居小屋が幕府からの許可を得て、歌舞伎の興行を行っていました。
その他、寺社の門前や、大名たちの江戸屋敷でも歌舞伎や人形浄瑠璃が上演されることがあったそうです。
火災が招いた芝居小屋の経営危機
江戸は火事の多い町でもありました。日本橋界隈に多かった芝居小屋も、何度も火災に遭います。
芝居小屋の経営者である座元(ざもと)は、火災の後の芝居小屋再建ため、高額な普請費用を捻出するために借金をします。さらに、役者の給金が高騰。多額の借金が芝居小屋の経営にダメージを与えていいました。座元は、観劇料金の値上げで財政難を切り抜けようとしましたが、逆に観客の減少を招く結果に……。
文化・文政時代、財政難の影響で江戸三座が歌舞伎興行を休むこともあり、実は、歌舞伎界は苦境に陥っていたのです!
天保12(1841)年10月7日、堺町の中村座の楽屋から出火した火事は、付近の市街にまで延焼、葺屋町の市村座をも焼失させます。
この火災をきっかけに、水野忠邦を中心とする改革強硬派は、江戸の娯楽の象徴であった歌舞伎の取り潰し、あるいは辺鄙な場所への移転する政策を検討します。移転の理由は、
「歌舞伎は、繁華な地に大がかりな小屋を建てているため、火事の際には大火になりやすい。だから、辺鄙な場所に移転すべきである」
というもの。具体的な場所として、当時は郊外だった青山・四谷付近が提案されました。
そこに「待った!」をかけたのが当時の町奉行・遠山景元なのです。
浅草に誕生した芝居の町・猿若町
結局、幕府は堺町・葺屋町での両座の再建を禁止し、両座に対して浅草への強制移転を申し渡します。木挽町の河原崎座に対しても、翌年、同様の移転の命令が下されました。まだ郊外だった浅草へ移転することで決着したのです。
新しい芝居町は、江戸歌舞伎の創始者とされる猿若(中村)勘三郎の名にちなんで「猿若町(さるわかちょう・さるわかまち)」と名付けらます。
この地は、もと園部藩主・小出氏の下屋敷の跡地で、1万8千余坪が下げ渡されました。猿若1丁目が中村座、同2丁目が市村座、同3丁目が森田座と地割りされます。さらに、歌舞伎だけではなく人形浄瑠璃の小屋や芝居茶屋も猿若町に移転。三座の座元や役者など、歌舞伎関係者たちも猿若町に引っ越します。
この絵は、旧暦8月15日、満月の宵の猿若町のメインストリートを描いています。
通りの右側には江戸三座、左側には芝居茶屋が並び、駕籠(かご)をよんだ旦那、女子のグループなど、大勢の人々で賑わっています。御高祖頭巾(おこそずきん)を被っている人は、もしかしたら芝居を終えた役者でしょうか? 当時のファーストフード、寿司の屋台も出店中です。
電気がない時代は、窓から入る太陽の光を雨戸の開閉で調整をしていました。蝋燭(ろうそく)の光は補助程度の明かりで、それほど明るくなかったのです。そのため、日が昇る明け六つ(朝6時頃)から暮れ六つ(夜6時頃)までが芝居小屋の営業時間になります。芝居がはねる夕刻からは、芝居の余韻を楽しみながら茶屋に上がったり、寿司をつまんだりと、思い思いの夜を過ごしました。
猿若町時代の江戸歌舞伎
役者も戯作者も猿若町に集められたことで、芝居関係者の交流も競争も激化、演目も充実したと言われています。
江戸の郊外にできた新しい町・猿若町には、浅草寺の参拝にかこつけて芝居見物としゃれこむ人が続出。少し先には吉原遊郭もあります。浅草の新しい芝居町への客足も次第に増え、歌舞伎の賑わいも少しずつ戻っていきました。
天保期の芝居小屋移転から生まれた猿若町をテーマに、様々な役者の階級から芝居小屋に関わる様々な職業、立場の人々をコマにした飛び双六です。
「ふり出し」は、櫓(ろ)と幟(のぼり)がはためく猿若町。雲の向こうに浅草寺の屋根と五重塔が見え、左側には吉原遊郭があります。吉原と猿若町は大金の動く江戸屈指の遊興地として知られ、二大悪所と言われていました。「上り」は、三座の座頭とトップスターたちです。当時の役者には厳格な階級があり、「上り」に近いほど位の高い役者となります。
コマ絵に描かれているのは人気役者の似顔絵と当たり役で、当時の歌舞伎ファンであれば、絵を見れば、誰の何の役なのかがわかったのではないかと思われます。
明治時代前期までの約30年間は「猿若町時代」と呼ばれる繁栄の時期を迎えることになりますが、その後、芝居小屋の移転が相次ぎ、芝居町はなくなりました。
天保の改革の標的とされた七代目團十郎
市川團十郎家は、江戸歌舞伎を象徴する名跡です。
七代目市川團十郎は、寛政12(1800)年、10歳で團十郎を襲名。お家芸の荒事はもちろん、時代物、世話物、和事(わごと/若く優しい色男の役)、所作事(しょさごと/歌舞伎の舞踊・舞踊劇)など、幅広い役柄で演技力を発揮し、活躍してきた江戸を代表する名優です。現在でも人気の演目『勧進帳』を初演したほか、市川家代々の当たり芸「歌舞伎十八番」を制定します。一方、私生活では贅沢を極め、江戸の歌舞伎界で並ぶ者のない権威を誇りました。
天保3(1832)年3月、10歳の長男に八代目團十郎を襲名させ、自身は五代目市川海老蔵を名乗りますが、その後も歌舞伎界に君臨します。
天保の改革がはじまると、江戸歌舞伎は人々への悪影響を及ぼす元凶と見なされ、厳しく弾圧されます。幕府の弾圧は歌舞伎役者にも向けられ、天保13(1842)年6月、七代目團十郎は奢侈禁止令に抵触したとして、南町奉行・鳥居耀蔵(とりいようぞう)から「江戸十里四方追放」を申し渡されます。
「江戸十里四方追放」とは江戸幕府の定めた追放刑の一種で、日本橋を中心にして四方へ五里ずつの地域から追放し、そこへの立入りを禁止するというもの。江戸十里四方より外に居住する者の場合は、立ち入ることが禁止されます。
江戸歌舞伎の象徴的な存在である七代目團十郎への幕府の厳しい処分は、「見せしめ」として格好の対象だったからと言えるかもしれません。七代目團十郎の江戸追放は、約8年後の嘉永2(1849)年12月に赦免されます。
父親でもあり、師匠でもある七代目團十郎の強い後ろ盾を失った八代目團十郎ですが、父親の当たり役や「歌舞伎十八番」を受け継ぎながら、すっきりとした二枚目役もこなし、ますます人気が高まっていきます。
そんな中、嘉永7(1854)年8月6日、大坂・中の芝居初日の朝、島之内の旅宿・植木屋久兵衛方で八代目團十郎が自害します。まだ、32歳の若さでした。
江戸の花形役者であった八代目團十郎が自殺したという衝撃的な事件は世間を驚かせます。特に人気のあった江戸では、八代目追善の錦絵である死絵が200~300種も刊行されたのだとか。
遠山の金さんが歌舞伎を助けた理由
老中・水野忠邦の庶民の実情を無視した改革案に反対し、芝居小屋を浅草の一角に移転させることで歌舞伎の存続を図った遠山景元。
遠山景元をはじめとする天保期の町奉行たちの主張・考え方の背景には、当時の下層町人たちの事情を重視したからだとも言われています。つまり、江戸を不景気にすれば、下層町人の蜂起・騒動を覚悟しなくてはならず、それを回避するために、「繁華」で「賑わう」江戸を維持しづけることが重要であるという考えがあったとするものです。
天保8(1837)年は、天保の大飢饉がピークに達した年。天保8年2月には、凶作・飢饉により米価が高騰して飢餓による死者が続出している様子を見かねた元大坂町奉行与力の大塩平八郎が、救民のため挙兵した「大塩平八郎の乱」が大坂で起こっています。
天保8年の50年前の天明7(1787)年5月には、江戸で米屋を中心とした打ちこわしが数日間にわたって起こります。その結果、幕政が機能しなくなり、当時の政権を握っていた田沼意次(たぬまおきつぐ)が失脚しました。
遠山景元たちは、江戸でこのような騒動が再発して、幕府が打撃を受けることを恐れていたのです。
「遠山の金さん」こと、遠山景元ってどんな人なの?
「遠山の金さん」の呼称で時代劇ファンには馴染み深い遠山景元。なかなかの遊び人で、下情(かじょう/庶民の実情)にも通じた庶民の味方。ドラマの中では、奉行所のお白洲で片肌を脱ぎ、背中から二の腕にかけて桜吹雪の見事な刺青を見せつけて悪党たちをやりこめ、「これにて一件落着」と裁きをつける……。このような姿は本当だったのでしょうか?
時代劇の中では、弱い庶民の立場に立って悪をこらしめる名奉行として描かれる金さんこと遠山景元ですが、実は詳しいことはわかっていない人物なのです。
桜吹雪の刺青は、本当にあったのか?
ドラマでおなじみの桜吹雪の刺青は、「本当は、美女の生首の図柄だった」「刺青は花紋だった」などの諸説があります。背中から腕にかけての刺青も、単に腕だけだったという説もあり、本当に刺青があったかも不明です。
遠山景元は、若い頃は遊里にもしょっちゅう出入りし、ならず者たちともつき合い、放蕩無頼(ほうとうぶらい)の生活を送っていたのだとか。そのような生活体験が町奉行になってからの職務に生かされ、江戸庶民の心をつかむことができたとされています。
遠山景元のイメージの定着には、明治26(1893)年11月に明治座で上演された、竹柴其水(たけしばきすい)作の歌舞伎『遠山桜天保日記(とおやまざくらてんぽうにっき)』なども大きな役割を果たしたと言われています。
優秀な幕府役人だった遠山景元
遠山景元は、禄高500石という貧しい旗本の家に生まれました。父は、長崎奉行、勘定奉行などを歴任した遠山景晋(とおやまかげくに)。幼名は通之進、通称金四郎。
「放蕩無頼の道楽息子であった」という伝承には、複雑な家庭環境が影響していたとされています。実際、遠山景元の経歴を見ると、青年期が謎に包まれていて不明であることが放蕩無頼の噂の元になっているようです。しかし、遠山家の跡継ぎと決まって家督を継いでからの履歴は、幕府役人として目覚ましい昇進振りが見られます。
遠山景元は、江戸城内で将軍の身の回りの細々とした世話をする小納戸という役職からスタートし、順調に出世。天保11(1840)年、47歳の頃には北町奉行に任命されます。
当時は天保の改革が始まったばかり。老中・水野忠邦は江戸時代でも最も厳しい奢侈禁止令を発布し、江戸庶民を苦しめていました。最初こそその方針に従った景元ですが、次第に反発。町民の味方をするようになり、幕府に対して幾度も禁止令の緩和を求める嘆願書を出しています。水野忠邦の信任が厚かった南町奉行の鳥居耀蔵とはそりが合わず、天保14(1843)年、左遷されて大目付となりました。
弘化2(1845)年3月、水野忠邦が退き、鳥居耀蔵が罷免されると、再び町奉行(南町奉行)の職に就きます。
嘉永5(1852)年3月、辞職して剃髪(ていはつ)。帰雲と号して、以後は悠々自適の生活を送ったのだとか。安政2(1855)年2月29日、景元は63歳で亡くなります。
遠山景元は名奉行の誉れが高く、かつての名奉行・大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)の再来ともてはやされましたが、実際にはそれほどの実績がなかったとも言われています。しかし、当時の江戸庶民は、歌舞伎という娯楽を奪われなかったことに感謝。遠山景元を題材とした歌舞伎や講談が生まれ、庶民の間で人気となったのです。
歌舞伎が残って、良かった
「遠山の金さんが、江戸の歌舞伎を救ったって本当?」と気になって調べてみたところ、その背景には、当時の様々な事情があったことがわかりました。ただし、「遠山の金さん」こと、遠山景元については「よくわからない」ことだらけでしたが……。
そして、私たちの暮らしには、人それぞれの「楽しみ」が不可欠です。
歌舞伎ファンの一人として、歌舞伎が残って良かったと思っていますし、これからも歌舞伎が続くことを希望しています。
主な参考文献
- ・『日本大百科全書』 小学館 「遠山景元」「江戸三座」の項目など
- ・『ビジュアル入門江戸時代の文化-江戸で花開いた化政文化-』 深光富士男著 河出書房新社 2020年4月
- ・『江戸の絵すごろく:人気絵師によるコマ絵が語る真実』 山本博文監修 双葉社 2018年3月
- ・『遠山金四郎の時代』 藤田覚著 講談社 2015年8月
- ・『歌舞伎:江戸の芝居小屋』 サントリー美術館編 サントリー美術館 2013年2月
- ・遠山金四郎(遠山景元)は本当に桜吹雪の刺青をしていたのか。(国立国会図書館レファレンス協同データベース)
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