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2022.03.29

東郷平八郎とハシゴ昇降競争も!?大リストラだけじゃない、山本権兵衛を知るエピソード集

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今回は大リストラを行った人としても有名な山本権兵衛。和樂webの記事に出てきた軍艦とも結構関わりがあるそうです!

年齢を詐称してでも!従軍への強い意志を胸に

山本権兵衛は、幕末から明治・大正にかけて活躍した海軍の軍人で、海軍大臣、内閣総理大臣まで務めた人です。

生まれは1852(嘉永5)年、鹿児島の加治屋町、ここは、西郷隆盛、大久保利通、大山巌、東郷平八郎など、明治時代に活躍した偉人らの出生地でもあります。1863(文久3)年の薩英戦争で、砲弾運搬などの雑役に加わったのは数えで12才の時。数えとは出生時に1歳、1月1日にひとつ歳をとるというもので、満でいえばこのとき10才。そして戊辰戦争にあっては、藩兵の募集に志願しますが、まだ数えで16歳(満14歳)、従軍の基準は18歳以上であったので、年齢を誤魔化して18歳と申告したところ採用となり、鳥羽伏見の戦い、その後は越後、荘内へと転戦しました。

それほどまでに従軍への意思が強かったんですね!

維新後は東京へ出て勝海舟の教えを乞い、その後海軍兵学校の前身である海軍操練所に入り、ここで本格的に海軍の教育を受けました。そして、2期生として卒業したあとは軍艦に乗り、艦長を3隻務めて、海軍省の勤務となり、日本海軍を近代海軍に変革させるための数々の改革を実行しました。その中で将官8名、佐官尉官89名のリストラを断行した話は有名です。日清戦争時(1894年~1895年)は海軍大臣副官として大臣を補佐して戦争指導にあたり、1898(明治31)年に海軍大臣となり、ロシアに対抗し得る海軍兵力を整備すべきと様々な施策を進め、それは日露戦争(1904年~1905年)勝利の原動力となりました。

戦後は、海軍大臣を後進に譲りますが、1913(大正2)年に内閣総理大臣に指名されます。しかし、一年余りで総辞職、さらに1923(大正12)年にも再度内閣総理大臣となりますが、約4カ月で辞職と、政治家としては短命でした。「英傑」、「海軍の父」と呼ばれ、江藤淳『海は甦える』で、その生涯が小説として取り上げられました。

山本権兵衛を扱った著書は多く発刊されていて、リーダーとしての資質は今でも習うべきところが多いのですが、大体そのエピソードは『伯爵山本権兵衛伝』という約800ページ2冊の伝記に詰められています。本人の他界後に書かれたもので、当時の海軍高官の思い出的なエピソードも多く、歴史書としても有益な伝記です。

『伯爵山本権兵衛伝』復刻版(原書房)(筆者撮影)

権兵衛に関する著書は、この伝記からのエピソードを引用して、分析所見を加え、または、その他の文献から補完して書かれています。となると今更の感がありますが、これまで和樂webで紹介した記事と権兵衛の関わりのあるところを紹介したいと思います。

故郷が戦火に!ケープタウンに滞在していた彼の決断は

筑波の北米航海 1875(明治8)年  遠洋航海時の実習員の写真(後列左から5人目が権兵衛) 『伯爵山本権兵衛伝 巻上』国会図書館デジタルコレクション

山本権兵衛は1875年筑波の遠洋練習航海時(明治海軍初の太平洋横断)、少尉補という階級で実習員として乗艦していました。実習員は海軍兵学校2期生から4期生の42名で、その身分は生徒(在学中)と少尉候補生(修業済)が混在していました。そして帰国後の総合試験の結果、合格者は、わずか1名でした。それは権兵衛ではありませんが、伝記には総合試験のことは書かれていません。そして、成績不良の者(合格者1名を含む)と甚だ成績不良の者の2組に分けられ、成績不良の者は、引き続き筑波において実習したのち、さらに兵学校に通学して座学を受けることになりました。権兵衛はここにいました。

一方、甚だ成績不良の者10名は、運用、航海ともに及第点に届かなかったので、さらなる乗艦実習が必要ということで2、3名ずつわかれて、軍艦に乗り実習となりました。

そして、兵学校で勉強していた中から権兵衛を含む8名が選ばれて、ドイツ軍艦での乗艦研修(留学)を命じられます。8名は、1876(明治9)年12月から1年以上の間ドイツ軍艦に乗艦し、世界一周を果たします。西南戦争はこの間に発生したので権兵衛は従軍していません。アフリカ大陸の南端ケープタウン滞在時にイギリスで発刊された新聞により西南戦争の発生を知りますが、実習に専念するということで、引き続き乗艦することを選択しました。

自分の郷里のことだから帰国するか悩んだんじゃないかな

東郷平八郎と対決!?

ドイツ軍艦での実習を終えた権兵衛は、1878(明治11)年5月に帰国、西南戦争は前年9月に平定され、初の国産軍艦「清輝」が1年3か月のヨーロッパ航海に出かけていたころです。同じ時期に東郷平八郎がイギリス留学を終え、イギリスで建造された比叡が日本に回航される際に乗艦して帰国しました。このときイギリスで建造された軍艦は、比叡(木製)、金剛(木製)、扶桑(鋼鉄製)の3隻で当時の最新鋭艦、特に扶桑は鋼鉄製で一番格上。その扶桑に2人(東郷中尉、山本少尉)は乗艦したのです。このとき索梯(さくてい)の昇降を2人で競争したというエピソードがあります。マストは同時に2人で登って競争できないので、側面にある繩でできた梯子を使ったのでしょう。

索梯(マスト上に向けて両舷側からかけられている網のような梯子)

結果は山本少尉の勝ち。東郷中尉は途中でズボンが破れ、ゆっくりと降りて「負けたのではない。ズボンが破れたのだ」と言ったとか。これは数少ない東郷平八郎の若いころの逸話でもあります。

意外なエピソードです!

ちょっと話がそれますが、千早正隆『海軍経営者 山本権兵衛』には、千早が戦前に当時の上司から指示されて、東郷平八郎が大佐になるまでのことについて考察を加えるように課題を出され、調査した結果、「平々凡々な海軍士官である以外には何も見つけ出すことができなかった」と書かれています。それほどに東郷平八郎の若いころの逸話は極めて少ないのです。

後進を育てるためには必須!リストラ断行

権兵衛の海軍経営者としての手腕は、改革とリストラが有名です。山本権兵衛が大佐のときに海軍大臣官房主事(今でいう官房長に近い職務)として勤務した1891(明治24)年から1893(明治26)年にかけて、様々な海軍行政の改革とともに将官8人、佐官尉官89人のリストラを断行したのです。強硬な反対者や新聞からも批判されながらの断行でした。リストラの対象は、明治維新や西南戦争で武功のあった人が多いのですが、それから15年もたてば、それなりに階級も上がってきます。しかし、それに見合ったポストは多くはなかったのです。組織はピラミッドになるから効率が良いのであって、企業でも、経営に関わるポストに辿り着かない人は子会社に出向などによって、淘汰されていくのと同じです。

組織という意味ではどこも一緒なんですね

そもそも軍人の定年が定められたのは1890(明治23)年のことで、それまでは身体が動く限りは現役でいられたのです。定年が規定されても、まだそれに達する人が少ないため、人余りの状態は続きます。そこで、定年前に現役を退く、予備役という仕組みが作られました。予備役になっても軍人の身分・階級はそのままで、いわゆる給料ではなく、恩給(年金)生活となります。そして事が起きたときには、招集されて現役に復帰するのです。なお、定年をむかえた場合は、後備役となりますが、やはり必要があれば招集されます。

現役復帰もあるんだ!

海軍では、この予備役に移してポスト数に見合う士官の数にしておくべき仕組みが上手く運用されていなかったために、待命という辞令をうけ、仕事のない状態に置かれた軍人も多く、さらには艦船の長を16隻も務める大ベテランまで現れました。そんなベテランが何人もいたら後進は育ちません。これらを解決するためにリストラ、すなわち士官97名の予備役編入を断行したのが、権兵衛だったのです。もちろん当時の海軍大臣西郷従道(西郷隆盛の弟)の威を借りてのことです。

それでも結構大変だっただろうな

リストラされた人の中には、たとえば、エルトゥールル号の生存者をトルコまで送り届けた比叡艦長の田中綱常(大佐)がいます。早く帰ってこいと2回も催促されたのが、問題になったのか、わかりませんが、少将に階級を上げて、同日に予備役となりました。艦長を経験したものの、それ以上のポスト(司令官など)に就ける見込のない人は、ターゲットになっていたようです。

また、同じくエルトゥールル号事件の際に宮内省で軍医として働いていて、遭難の報により現地に派遣され、生存者の救護にあたり、後日トルコ政府から勲章を受けた加賀美光賢もリストラの対象でした。加賀美も田中綱常と同様に、大佐相当の軍医大監から、軍医総監という少将相当官に昇任して同日予備役となりました。ほかにも明治8年筑波の航海で若手士官として乗艦していた町田実隆(大佐)も艦長を2隻務めたあと、ポストがなくなりリストラの対象となりました。3人は、いずれも権兵衛と同じ薩摩藩の出身です。

このリストラによって、ポストが空き、後進が育つ機会が大きく増えたわけです。とくに明治初期に開設された海軍兵学校を卒業した、いわゆる海軍士官のエリートコースを歩んできた士官が艦長になる時機でした。薩摩藩以外を狙い撃ちしたわけではなく、後進に道を譲るべき士官がリストラされたということなのです。

そして、1894(明治27)年に発生した日清戦争にあっては、綱常を始め多くの予備役の者は招集され、主に現役の士官が出征して空席となったポストを補完し、国内の治安維持や通常業務に尽力し、日清戦役を後方で支えたのです(前線へ出た人もいます)。それは単に馘(くび)にしたのではなく、有事には招集するというところまで加味した権兵衛の先見の明によるものだったのです。

親王の信頼を得、様々な場面で頼りに

明治30年のヴィクトリア女王即位60年にあっては、国内からの軍艦派遣はなく、英国で建造中の戦艦「富士」を参加させることになりました。そして、そこに将旗を掲げるべく差遣わされることになった有栖川宮威仁親王は、当時最新鋭の2等巡洋艦「吉野」を派出することを強く希望し、根回しをしていたのです。しかし、それをつぶしたのが海軍省でした。このとき、親王は海軍大臣や軍令部長という要職にある将官を呼んで、吉野の派遣がなくなった理由を正しますが、海軍省議としてださないことになったという答えが返ってくるだけで、だれもはっきりとその理由を述べません。ついに親王は軍務局長の職にあった権兵衛を呼び出します。権兵衛は、自分が吉野の派遣に反対したと答え、その理由を「最も大切な軍艦を僅かの間でも日本からは離すわけにはいかない、万が一の場合に対する当局者の責任である」と、堂々とその理由を述べ、納得させたのです。

実際に軍艦1隻を海外に派遣するということは、必要な食糧などの積み込み、寄港地の選定と補給する石炭の購入の調整、またそれらをこなすには、調整や通訳の専門官を乗艦させなければなりません。たとえ一部の高官への根回しで吉野の派遣が内々に決まったとしても、およそ日程的には準備は間に合わなかったのです。さらに最新鋭艦といっても吉野は排水量4200トン程度の2等巡洋艦ですが、戦艦「富士」は完成直後なので最新鋭はもちろんのこと、排水量12500トン、見栄えがするのは富士であることは明らかです。しかし権兵衛はそのような事は言わず、軍人がもっとも納得しそうな理由(万が一の事態を考慮して最新鋭艦を国外に出すことはできない)と堂々と述べて納得させたのでした。このときの態度により、権兵衛は以後親王の信頼を得、様々な場面で頼りにされるようになりました。

冷静沈着な人柄がだんだんわかってきた

さて権兵衛は1933(昭和8)年の12月に亡くなりますが、翌1934年9月に伝記編纂会が組織されます。その総裁は齊藤實(2年前までは内閣総理大臣)、委員には大将クラスがずらっと名を連ねています。斎藤實は権兵衛が首相のときに海軍大臣を務め、自らも総理大臣を務めた人ですが、この伝記編纂の途中1936(昭和11)年2月26日に暗殺されました(2.26事件)。

齊藤實(まこと) 歴代首相等写真 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/

山本権兵衛伝記編纂に関する要綱では、「文章は正確に依り簡潔明瞭、穏健平易なるべし。またある事件につき必要あらばその事情を記述すべきも、その範囲は正確なる事実のみとし、みじんも脚色誇張とならないようにすること」(筆者が一部を要約)と厳格にその正確性が強調されています。そして1937(昭和12)年3月に伝記は完成しました。それは明治から大正の海軍を一つの流れで見ることができる大変貴重な史料となっています。

参考文献

故伯爵山本大将伝記編纂会編『伯爵山本権兵衛伝』
山本英輔『山本権兵衛』(時事通信社、1958年)
米沢藤良『山本権兵衛』(新人物往来社、1974年)
江藤淳『海は甦える』(文春文庫、1986年)
千早正隆『海軍経営者 山本権兵衛』(プレジデント社、1986年)
生出寿『海軍の父 山本権兵衛』(光人社、1987年)
高野澄『山本権兵衛 ―日本海軍を世界レベルに押し上げた男―』(PHP文庫、2001年)
辻本嘉明『山本権兵衛 ―かつて男かくありきー』(叢文社、2005年)
大井昌靖「軍艦『筑波』明治海軍初の遠洋練習航海」『軍事史学』第56巻第1号(2020年6月)

アイキャッチは歴代首相等写真 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/

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神奈川県横須賀市在住。海上自衛隊を定年退官し、会社員の傍ら、関心の薄い明治初期の海軍を中心に研究を進めている。お祭りが大好きで地域の子供たちにお囃子を教えている。

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編集長から「先入観に支配された女」というリングネームをもらうくらい頭がかっちかち。頭だけじゃなく体も硬く、一番欲しいのは柔軟性。音声コンテンツ『日本文化はロックだぜ!ベイベ』『藝大アートプラザラヂオ』担当。ポテチと噛みごたえのあるグミが好きです。