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Culture
2022.06.07

大河の予習に『慈光寺本承久記』を読んでみたら、武士それぞれの最期にグッと来た

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さて、謎のタイムワープにより、承久3(1221)年6月6日から14日まで飛びました。

「『慈光寺本承久記』を読んでみた」シリーズの過去記事はこちらからどうぞ↓↓

後鳥羽上皇の命令

6月14日の夜半ごろ。後鳥羽上皇の住まいである高陽院殿(かやのいんでん)に、三浦胤義(みうら たねよし)と山田重忠(やまだ しげただ)、渡辺翔(わたなべ かける)が集まりました。

そこで三浦胤義さんが門の前でこう言いました。

「上皇様は、もはや戦に負けました。門を開けてください! 上皇様のおそばに控えて敵を待ち受けさせてください! 上皇様の目の前で見事討ち死にしてみせましょう!」

だから……どうして坂東武者はすぐ御所で死穢(しけが)れ・血穢(ちけが)れを出そうとするんですか!?

後鳥羽上皇はこれにこう返しました。

「お前たちがここに籠ったら、鎌倉の武士たちがここを囲んで攻めるだろう。それは何よりも耐えがたい屈辱だ。お前たちはどこへなりとも逃げればいい」

これは……! ちょっと残念な返事です。三浦胤義さんは、山田重忠さんと渡辺翔さんに振り返ってこう言いました。

「後鳥羽上皇の御心はなんと残念なことだろう。鎌倉に謀反を起こす大戦(おおいくさ)だったのに、こんな君主の元で戦っていたなんて、マジ泣けるわ。

さぁ、どこへ行こうか。ここで自害すべきなんだろうけど、オレの兄上(三浦義村)が淀へ陣を張っている。戦って誰かに討ち取られるのなら、兄の手にかかって、最後に一言言ってやる」

こうして3人は戦の準備をして東寺に籠り、敵を待ちました。当時の東寺は京の入り口「羅生門」の東にあって、京防衛の最期の砦でもありました。

なんかかわいそうだなぁ。

渡辺翔の戦

東寺に籠ってしばらくすると、鎌倉軍がやってきました。最初に名乗り出て戦ったのは、イケメン無双渡辺翔さんです。激しく戦いましたが、手勢を10騎余り討ち取られ、他の者も逃げてしまい、やむなく渡辺翔さんも退避しました。

向かったのは、大江山。大江山と言えば……そう、酒呑童子(しゅてんどうじ)!! 

長谷川小信『大江山鬼人退治 六』 出展:国立国会図書館デジタルコレクション

渡辺翔さんの先祖は、酒呑童子を討ち取った渡辺綱ですから、先祖の名誉の地に向かったと思うと、こう、熱くこみ上げてくるものがありますね!

渡辺…おまえッ……!

山田重忠の戦

次に戦ったのは山田重忠さん。山田重忠さんは敵を15騎ほど討ち取りましたが、やはり多くの手勢を討ち取られてしまい、敗走します。

向かったのは「嵯峨の般若寺(はんにゃじ)」。アクセスはあまりよくありませんが、現在も京都市右京区嵯峨樒原(さがきしみがはら)にあります。なぜそこに向かったのかは定かではありません。

しかし京都から嵯峨の般若寺に向かう途中、清和天皇の御陵と神社があります。

親胤『伝覚超/清和天皇玉休御加持図』 「ColBase」を加工して作成

山田重忠さんは清和源氏ですので、やはりご先祖様に見守られたかったのかもしれませんね。

山田ァ!!!!!

三浦胤義の戦

三浦胤義さんは、兄の三浦義村さんを見つけて名乗り上げ、訴えかけます。

「本来なら鎌倉に仕えて世渡りするはずだったが、あんたを恨んで悔しさのあまり都へ上り、後鳥羽上皇に仕えて謀反を起こしてやったぞ! あんたを頼って相談の手紙を出したのが間違いだった。あんたに人間らしい心が残ってんなら、あんたの目の前で自害してやろう!」

これを聞き、義村さんは「馬鹿の相手をしても無駄だ」と帰って行きました。

このできごと、よく「胤義は兄に利用された」と言われてますが、私はむしろ逆だと思うんですよね。まず、胤義さんは生まれた時からずーっと兄の背中を見て来た男ですから、兄の行動が読めないわけがないんですよ。

次に、「あんたを恨んで都へ上った」のに、「あんたを頼って相談の手紙を出した」って変じゃないですか? しかも、こんな大声で「お前に裏切られた」と叫ぶ弟をもし殺したとしたら、周りの坂東武者はどう思うでしょうか?

私、これは胤義さんの命を懸けた心理戦だと思うんですよね!! 詳しくは以前の記事でも紹介していますので、お時間があれば。
源頼朝と北条政子だけじゃない!三浦胤義が承久の乱で見せた妻への深い愛情とは?

胤義さんは少し敵を討ち取った後西へと敗走します。途中にあった西獄(にしのごく=都の西にある牢獄)の門に討ち取った首をかけて、さらに西に向かいました。

ちなみに胤義さんは検非違使(けびいし=京都の警察)なので、罪人の首を獄の門にかけるのもお仕事の一つです。つまり討ち取った敵(鎌倉軍)は、天皇にたてついて京で暴れた極悪人であると言いたかったんでしょうね。すっごく律儀な方だなぁと思います。

そして6月15日、太秦の木嶋(このしま)神社で長男と一緒に自害しました。「ああ、立派な武士だったのに」と惜しまない人はいませんでした。

さて、戦は勝敗が決したら終わり、ではありません。その後の戦後処理の様子も『承久記』に描かれています。どんな様子かは、次回に続きます!

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書いた人

神奈川県横浜市出身。地元の歴史をなんとなく調べていたら、知らぬ間にドップリと沼に漬かっていた。一見ニッチに見えても魅力的な鎌倉の歴史と文化を広めたい。