本書には、自分に正直に、皇族として、一人の人間として、66年の生涯を生き抜かれた寬仁親王のありのままの思いが詰まっている。(彬子女王殿下)
『ひげの殿下日記~The Diary of the Bearded Prince~』 はじめに より
2012年に薨去された、寬仁親王殿下(ともひとしんのうでんか)。薨去から10年にあたる2022年、殿下が生前に書き続けてこられたエッセイが出版されることになりました。タイトルは『ひげの殿下日記~The Diary of the Bearded Prince~』。1980年から2011年にかけて発刊された、寬仁親王殿下が会長を務める柏朋会(はくほうかい)の会報誌『ザ・トド』、この誌面に掲載されたエッセイ「とどのおしゃべり」を再構成した書籍です。
友達付き合いの極意
この記事では、『ひげの殿下日記~The Diary of the Bearded Prince~』の中から、殿下のお人柄や、皇室の様子がうかがえるエッセイの一部をご紹介します。前回の記事は、こちらです。
エッセイで知る寬仁親王殿下の素顔『ひげの殿下日記』より「正月雑感」
皇室のお正月の様子がわかる、興味深い内容でした。
今回ご紹介するエッセイ「友情」では、殿下の友達関係についてのお考えが、書かれています。私は小学校の入学式を振り返ると、緊張していた記憶があります。当時は極度の人見知りだったので、友達ができるか不安でした。
エッセイから、殿下もご幼少の頃は人見知りだったと知り、親しみを感じました。その後、殿下はご自身で危機感を感じられて、努力をして人間関係を築いていかれます。どんどんと豊かな友達の輪が広がっていく様子に、感銘を受けました。
コロナ禍もあって、人と人との関係が希薄になりがちな現代。殿下の体験に基づいた言葉は、私たちに気づきを与えてくれそうです。
友情 (2001年12月8日)
文・寬仁親王殿下
同業者は十六人
前号で私は、「趣味は人間」と書きました。
「人間」には反応があるから面白く、書画骨董・芸術の類いは、そのもの自体には反応が無いので詰らないとも書きました。
別な云い方をすると、私には、「物欲」がほとんど無いという性格から、それは来ているのかも知れません。
皇族という立場は、どうしても、「公」の部分が多く、「家」「土地」「財産」といった、普通の人なら欲しいであろう諸々が、「国家の物」である事が多く、物心付いてから、「所有欲」というのが、極めて希薄だというのも理由の一つです。
では何故、「人間」に興味があるかと言うと、以下の二点に集約されると思います。
その第一は、幼児〜少年期、私は桁違(けたちがい)の、「人見知り」でした。今の私を御存知の方には想像しにくい事と思いますが、事実です。
原因は、本来の性格もあるのですが、両親の環境造りの拙(つたな)さもありました。
気が付いた時、周りは大人だらけであり、隣近所の子供達との付き合いといったものが皆無のまま、聖心女子学院の幼稚園に入り、学習院初等科に入学したわけです。
必然的に、同年輩の子供たちとどうやって仲良く付き合うかの方法論が分からず、且つ既に、「皇族」の特殊性を、子供心に理解していましたから、自らに壁を造っていたと思いますし、周辺の子供達も何かしら意識していたはずです。
この事が、生来の、「人見知り」と相俟って、「人嫌い」というか、「付き合いにくい子供」を形成していたと思います。
第二の点は、高等科に入った頃と思いますが、何かの拍子に、同業者(皇族)の数を勘定した処、「十六人」しか居ない事に気付き、その中でも、本当の理解者は極く少人数である事に思い至った時、愕然として、「自分自身の理解者を増やす必要性」を、猛然に意識する様になりました。
前述の通り、人見知りの少年期を送っていたわけですから、思い直したときの「反動」も大きく、以来、必死の努力を積み重ね、「友人」造りが始まり、今に至りました。
「本物の友人」とは
余談ですが、「福祉は暗いから嫌だ!」、「それなりの年齢になって人間が出来たら始めるかもしれない」等と言っていた人間ですから、『身障友の会』と故片岡みどり女史に出会い、「ここに本物がある」と初めて認識したとたん 、その「のめり込み方」には激しいものがあったのです。これも、「反動」であると言えます。
昔の諺に、「士は己を知る者の為に死す」という言葉がありますが、「永く付き合い、長所も欠点も知った上で、尚且つ、自分の事を認めてくれる人」というのは、掛け替えの無い存在です。
人間は、生きている内に、どれだけ多くのこういう「本物の友人」を獲得出来るかが、勝負の分かれ目になります。
「実りある豊かな人生」とか、「内容の充実した一生」といったものは、本当の良き人々に囲まれて、大往生を遂げる事の出来た人だけが言える言葉だと思います。
高価な絵画・高尚な音楽・広壮な邸宅・あり余る金銀財宝といった諸々を所有していたとしても、孤独な人々であったとしたら何にもなりません。
付き合い方
「友人」と言うもののあるべき姿ですが、氏素性・環境・職業・人種・性別等が仮に違っても(と言うより、同じ条件の人間が居るわけも無いのですが……)、何でも語り合える相手 が、「友人」と言うものの最大の要件と思います。
喧嘩が出来る、悩みを打ち明ける、グチをこぼす事も出来る、勉強も仕事も一緒にする、酒を飲む、遊びも共にするといった人間でなければ、「親友」とは言えません。
そして、本当に深刻な問題、例えば男女間・夫婦間の問題に始まり、進学や就職・退職に関する事、更には、家庭や会社の経済的問題等々、通常やたらに人と相談出来ない様な事柄を、平気で相談出来る人々が、「本物の友人」であり、そういう人々の事を、「信友・真友・心友」と呼びます。
「友達」というものは、そこ迄深い付き合いが出来なければ、どれ程長く付き合っていようと、それは只の、「友人・知人」の類いに過ぎないと思います。
私は自分でも努力はしましたが、昔も今も、先輩・同輩・後輩のどの層にも恵まれていると、つくづく思います。
先輩は、子供の頃から良く可愛がってくれますし、同輩は信頼した上できちんと立ててくれますし、後輩は、慕ってついて来てくれます。
オーヴァーラップ
今一つ、「友情」で大切なのは、 違う分野「ジャンル」に居る友人群を、相互乗り入れ( オーヴァーラップ)出来るかどうかでしょう。
日本人は、違う種類の人々を交差させる事が、とても下手だと思います。
私が、大いに助かっているのは、仕事を遂行する上で、実に多くの仲間達が、オーヴァーラップして支援協力してくれる事です。
スポーツの仲間達が福祉にも協力する。
福祉の仲間達が、国際親善に協力を惜しまない。
国際親善の仲間達が、青少年育成にも支援する。
そして今、全ての仲間達が、考古学に協力してくれています。
特に、学習院の仲間達の場合、納得すれば、どの分野にも応援を惜しみません。
そして、この形は、年代・性別・人種を問わないという点が、実に素晴らしい事であり嬉しいのです。
特に素敵なのは、三十六〜三十八歳も年齢差のある二人の娘が、父親の仕事を理解して、極く当たり前の顔をして永年に亘って協力を惜しまない事です。
親子の場合、通常、「友情」とは言いませんが、我々親子の場合、ほとんど、「友情」の範疇(はんちゅう)と言っていいのではないかと思います。
『ひげの殿下日記~The Diary of the Bearded Prince~』
出版社:小学館
著者:寬仁親王殿下
監修者:彬子女王殿下
発売日:2022年6月1日
価格:4000円+税
ページ数:608ページ