日本文化の入り口マガジン和樂web
11月28日(月)
速度を上げるばかりが、人生ではない。(ガンジー)
日本文化の入り口マガジン 和樂web
日本文化の入り口マガジン 和樂web
11月24日(木)

速度を上げるばかりが、人生ではない。(ガンジー)

読み物
Culture
2022.06.15

大河の予習に『慈光寺本承久記』を読んでみたら、北条義時が調子乗ってた。

この記事を書いた人

最後まで戦った武士たちも敗走し、承久3(1221)年6月15日に鎌倉軍は京都を占拠しました。

若干調子に乗った義時

総大将の北条泰時(ほうじょう やすとき)は、鎌倉にいる父・義時(よしとき)に戦後処理をどう進めるか、相談の手紙を送りました。義時はその手紙をみんなに見せながらこんなことを言いました。

「ごらんなさい! 今の私には何の気がかりもない! 私の幸運は、後鳥羽上皇の幸運に勝ったのだ! 私の身分が低いのは前世の行いのせいなだけで、今の私には上皇に勝る幸運があるのだ!」

……まぁ、勝てるわけのない戦に勝てたのですから、浮かれるのは仕方ないとはいえ……。反発食らったのは、そういうところじゃないかな~。あと、やっぱり身分が低いことは気にしてたんですね、義時。

なんかカワイイ。(笑)

そして泰時に、新しい天皇を誰にするか、戦に参加した上皇や貴族・武士たちをどうするかを手紙で指示します。特に伝えたのは「混乱に乗じて狼藉が行われないようにしろ」ということでした。鎌倉幕府に協力的だった貴族たちに危害を加えるのなら、どんなに功績があった鎌倉軍の武士であっても首を刎(は)ねろとまで言いました。

後鳥羽上皇の出家

戦に負けた後鳥羽上皇は、鳥羽離宮に移され、鎌倉軍の沙汰を待ちました。そして戦から1カ月後の7月10日、北条泰時の長男・時氏(ときうじ)がやってきました。

時氏は武装したまま正殿に上がり、弓の上の部分で御簾を上げて覗き込みます。

「上皇様は流罪となりましたよ! さあさあ出てきてくださいませ!」

いくら戦に負けたとはいえ、かなり無礼な行いです。後鳥羽上皇は当然返事をしません。しかし時氏は続けます。

「どうしたんですか? まさか謀反の輩を匿ってるのですか? さあさあ出てきてくださいませ!」

この時の時氏を、『慈光寺本』では「責めるような声色は地獄の使者のようだった」と書いています。……怖い! 私だったら泣いちゃうかも!

後鳥羽上皇は返事をしました。

「なぜ麻呂が謀反の輩を匿うのか。そんなことするはずないだろう。ただ都から出たら息子や娘たちと離れ離れになってしまうのが悲しいのだ。特に藤原能茂(ふじわらの よしもち)は幼い頃から目にかけていた子だ。もう一度会わせてくれ」

それを聞き、時氏は父・泰時に泣きながら文を書いて訴えました。

「後鳥羽上皇と藤原能茂は、前世から約束し合った仲です。後鳥羽上皇は、今までいろんな命令をしてきましたが、今は『能茂と会わせてくれ』としか命じません。どうか会わせてやってください」

これを読んだ泰時は、能茂に出家をさせた上で後鳥羽上皇と会わせました。後鳥羽上皇は「お前が出家したのなら麻呂も出家しよう」と言い、仁和寺の僧となっていた息子・道助法親王(どうじょ ほうしんのう)の手で出家をし、切った髪は母に送りました。

息子の手で出家するのって、どんな気持ちなんだろうなぁ……。

めでたい事

後鳥羽上皇の髪を見た母は、当時感情をあらわにすることは恥ずかしいこととされていた高貴な女性にもかかわらず、大声を上げて涙を流し続けたそうです。

その後、鎌倉幕府の推挙によって、後堀川天皇が即位します。そして後鳥羽上皇の挙兵に反対したために失脚していた近衛兼実が再び関白となったことを、『慈光寺本承久記』では「めでたい事」として祝福します。

この世は儚く定まらないとは、よく言われる。しかしこれほど思いもよらない事が起こるとは誰も思わなかったろう

『平家物語』は「あはれの文学」である、とよく言われますが、『慈光寺本承久記』は「めでたい文学」なのかもしれません。というのもこれ以降にやたら「めでたい、めでたい」と出てくるのです。

どういう事がめでたいのかは……次回以降に続きます。

気になる!!! 続き早く!!

アイキャッチ画像:『後鳥羽院本三十六歌仙絵藤原元真』 「ColBase」を元に作成

▼おすすめ書籍はこちら
史伝 後鳥羽院〈新装版〉

書いた人

神奈川県横浜市出身。地元の歴史をなんとなく調べていたら、知らぬ間にドップリと沼に漬かっていた。一見ニッチに見えても魅力的な鎌倉の歴史と文化を広めたい。