江戸時代後期に幕府の政治を批判したとして、蘭学者の高野長英(たかのちょうえい)らとともに処罰された悲運の武士、渡辺崋山(わたなべかざん)。
崋山は江戸生まれの田原藩士で、絵師としても活躍した人物です。特に肖像画は人物の意志や知性といった内面まで伝えると高い評価を得て、国宝『鷹見泉石像(たかみせんせきぞう)』をはじめとする傑作を残しました。
これからご紹介するのは崋山がまだ駆け出しの頃に、江戸から現在の埼玉県北本市まで1泊2日の弾丸取材をして描いたという、4枚のスケッチにまつわるエピソードです。
江戸から遠からぬ場所に、源範頼の墓といわれる処あり
1枚目は北本市にある東光寺のスケッチ。右奥に大きな桜の木があり、その木の下には鎌倉時代の武士、源範頼(みなもとののりより)の墓と伝えられる石塔があります。
墨一色の緻密な線で木の幹に陰影がつけられ、構図には遠近法が使われていて、とても立体的な絵です。左下には崋山のサインがはっきりと。
滝沢馬琴も認めた崋山の才能
崋山は17歳で絵師の金子金陵(かねこきんりょう)に師事し、さらにその師でもあった谷文晁(たにぶんちょう)のもとで絵を学びました。
遠近法や陰影法といった、江戸時代にはまだ珍しかった西洋画の技法が使われているところも、崋山の絵の特徴です。
東光寺の絵がおさめられているのは、読本作家として活躍していた滝沢馬琴(たきざわばきん)の『玄同放言(げんどうほうげん)』。玄同というペンネームでも活動していた馬琴が、歴史、地理、人物、植物など様々なテーマについて、思いのままに考察しながらまとめた随筆です。
その中で馬琴がどうしても取り上げたかったのが、源範頼の墓標といわれる桜の巨木、東光寺の蒲ザクラでした。
2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に蒲殿(かばどの)という呼び名でも登場した源範頼は、鎌倉幕府を開いた源頼朝(よりとも)の異母弟にあたる人物です。義経(よしつね)とともに木曽義仲(きそのよしなか)を討ち、平氏追討の戦では大将として活躍しましたが、のちに頼朝から謀反の疑いをかけられて伊豆に幽閉され亡くなりました。
馬琴は「伊豆で亡くなった範頼の墓が、江戸から遠くないところにあるという。とても不思議なので調べてみた」と東光寺の蒲ザクラを紹介しています。「その巨桜については伝え聞いていたが、詳しく知らないので前の巻では紹介できなかった。友人の崋山に相談したところ、現地まで写生に行ってくれた」と崋山はどうやら、馬琴に頼まれて取材を引き受けたようです。
このとき馬琴はすでに50代。崋山はまだ20代の半ばで、実際には馬琴の息子の友人でした。『南総里見八犬伝』を発表して出版界の大御所となっていた馬琴と、絵師として売り出し中の崋山とでは立場も異なります。それでも馬琴が「友人」と呼んだのは、それだけ崋山の絵の才能を認めていたということなのかもしれません。
花はひとえにしてしろしといふ、山桜なるべし
東光寺の蒲ザクラは、伊豆から逃れてきた範頼がついていた杖を地面にさしたところ、根付いて桜の巨木になったという伝説のある桜の木です。範頼が蒲冠者(かばのかじゃ)と呼ばれていたことにちなんで、蒲ザクラと名付けられました。
「添え書き」に光る観察眼
堂々とした巨木を描いた2枚目のスケッチは、「遠くから見るとまるで小山のようだった」と地元の人々が語る蒲ザクラの大きさが目に浮かぶようです。
右上には「幹のまわりは二丈(約6m)、幹の途中から大枝が五本に分かれ、見上げると高さは四丈(約12m)もある。枝葉の広がりは左右に三十間(約54m)。その木の大きさを想像してみてほしい」と添え書きが。
また左上には「花はひとえにしてしろしという、山桜*なのだろう」という記述があります。
崋山が東光寺を訪れたのは旧暦の5月下旬(現在の7月頃)。花の季節はすでに終わっていたので、地元の人々に聞き取りをして、満開の桜を想像して書いたのでしょう。
伝説はとまれかくまれ、人々ゆきて観るべし
蒲ザクラの根元には、鎌倉時代の年号が刻まれた板碑(文中では「石碑」とある)が数多く建てられていました。中央には範頼の墓と伝えられている石塔もあります。
崋山はそれらの石塔群についても、2枚の詳細なスケッチを残しています。そして「これらは花のために建てられたのではなく、また墓碑でもなく、亡者を追悼するために建てられた供養塔である」と書き残しました。
鎌倉武士と範頼伝説の謎に迫る
東光寺がある場所は、古い地名で武蔵国足立郡石戸荘堀ノ内村。実際に堀に囲まれた大きな館の跡が見つかっています。範頼が住んでいたという言い伝えもありますが、鎌倉時代、ここには石戸氏という有力な御家人の館がありました。石塔群はもともとは、石戸氏が亡くなった父母等を供養するために建てたと考えられています。
一方で同じ足立郡には、範頼の舅(しゅうと)である安達盛長(あだちもりなが)という御家人の領地もありました。また近隣の比企郡には範頼が幼少期を過ごした寺があります。そうした縁があって、幽玄な桜の巨木と範頼の伝説が結びついていったのでしょうか。
崋山の聞き取りをもとに、蒲ザクラと範頼の伝説について『玄同放言』にまとめた馬琴は、最後をこう締めくくっています。
「とにもかくにも、蒲ザクラは世にも珍しい桜の木だ。ぜひとも足を運んで観るべきだ」
1泊2日で往復96㎞。崋山の足跡を辿る
『玄同放言』には、東光寺までの道のりが次のように紹介されています。
「中仙道、桶川駅の西北より西に入りて、下石戸に至り、また屋津に至り、左へ諏訪市場に至り、堀ノ内に至る」
これは実際に崋山が東光寺を訪れたときに辿ったのと同じルートです。桶川から堀ノ内(東光寺)までは二里とあるので、およそ8㎞。現在も桶川市と北本市に地名が残っていて、崋山が歩いた道を辿ることができます。
仕事の速さは驚異的?
江戸時代後期の文人、加藤曳尾庵(かとうえいびあん)が書いた『我衣(わがころも)』の中には、こんな記述があります。
「(崋山は)5月27日の昼過ぎに桶川宿に向かって出発した。堀ノ内で蒲ザクラや古石塔を写生し、土地の人に地元に伝わる話を聞き取って、翌日の夕方には江戸にもどっていた。なんとも健脚である」
距離は江戸から十二里、片道およそ48㎞です。1泊2日では絵を描いたり、聞き取り取材をしたりする時間があるようにはとても思えません。が、実は崋山はとても貧しい家に生まれ、ずっと生計のために絵を描いていました。売り物の提灯に絵を描くといった仕事も請け負っていたため、とても筆が早かったそうです。もしかしたら崋山は4枚のスケッチを、ほんの数時間で描き上げてしまったのかもしれません。
こうした崋山のバイタリティは、絵師として頭角を現し、後に田原藩の家老となっていく勢いが感じられるようです。
崋山が描いた蒲ザクラは、大正時代に「石戸蒲ザクラ」の名で国指定天然記念物に指定され、2022年10月12日で指定100年を迎えました。地元の人々に守られながら、今も春になると白い花を咲かせています。
石戸蒲ザクラ基本情報
住所:北本市石戸宿3-119 東光寺境内
電話番号:048-594-5566(文化財保護課)
アクセス:JR北本駅西口から北里大学メディカルセンター行きバスで15分、「北里大学メディカルセンター」バス停下車、徒歩約10分
見学自由
無料駐車場120台
取材協力:磯野治司(埼玉県北本市役所 市長公室長)
参考書籍:
『玄同放言』
『石戸蒲ザクラの今昔』(北本市教育委員会)
アイキャッチ:『玄同放言』巻三之下 東光寺の蒲桜並びに古碑の図 瀧澤觧瑣吉甫 著/渡辺崋山 画/国文研等所蔵
提供:ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター(http://codh.rois.ac.jp/)
【連載】石戸蒲ザクラ国指定100周年 きたもと桜国ものがたり
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