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Q1.清少納言はいつ生まれた? 父親はだれ?
清少納言(せいしょうなごん)は康保(こうほう)3[966]年ごろに生まれました。
父の清原元輔(きよはらもとすけ)は『後撰和歌集』の編集に従事したほどの当時の代表的歌人のひとりでした。
清原家は地方の任国で行政事務を行う受領層(ずりょうそう)でした。一般的な受領層の家庭は経済的な余裕もあり、漢学や和歌を学ぶ環境にも恵まれ、また、堅苦しい上流階級にはない自由な雰囲気があったとされています。
清少納言はのびのびとした少女時代を送ったのでは、と推測されています。
Q2.清少納言はどんな少女時代を送った?
清原家には和歌や漢学に精通した人々が多く、清少納言は教養的に豊かな環境で育ったと思われます。
清少納言は16歳ごろ橘則光(たちばなののりみつ)と結婚、翌年には長男則長(のりなが)を出産しました。しかし、夫との生活は長く続きませんでした。とはいえ死別ではなく、離婚。およそ9年間の結婚生活でした。
清少納言は則光のことをお人よしで小心者と感じていたようです。清少納言の歯に衣(きぬ)を着せぬものいいは、若いころからの性分なのかもしれません。
Q3.清少納言は何をした人? 代表作品は?
清少納言といえば、傑作随筆『枕草子(まくらのそうし)』です。『枕草子』は清少納言が宮中に出仕しているときに書き始められました。それは華やかな宮廷生活を清少納言の感性で切り取ったものです。
父元輔は有名な歌人であったのに、清少納言は歌が苦手だったという説があります。清少納言は、和歌でも物語でもない新しいジャンルを築き上げました。『枕草子』は彼女の個性、新鮮な視点、切れ味のよい文体で宮廷の美を書き綴った斬新な作品でした。時間にとらわれない場面性があり、映像的で、連想的に書かれているからです。
Q4.清少納言が仕えた人はだれ?
正暦(しょうりゃく)4[993]年、清少納言は、一条天皇の中宮定子(ていし)のもとに仕え始めました。離婚から約2年後、27歳のころです。
おおらかで優しい中宮定子に見守られ、清少納言はのびのびと才能を発揮しました。宮仕えの生活が『枕草子』を産んだのです。
中宮定子の〝サロン〟は華やかな社交の場でした。清少納言はウイットに富んだ会話を楽しみ、当意即妙のやりとりにわくわくし、生まれながらの優れた素質を発揮しました。
清少納言が出仕した期間は意外や短く、定子が没するとともに約10年間で終わりました。
Q5.清少納言の晩年は?
清少納言の晩年は、ほとんど明らかになってはいません。『古事談』には、清少納言は晩年には零落の身になったと書かれています。清少納言の家と呼ばれるものが荒れ果てていて、前を通った人が「才女もここまで落ちたか」と笑った、と。
けれどもそのとき、破れた簾をあげ、恐ろしい顔つきの老婆が言ったそうです。「落ちぶれても駿馬(しゅんめ)の骨には買い手がある。馬鹿にしなさるな」。最後までプライドを捨てなかった清少納言の、闊達な性格がうかがい知れるエピソードです。
※本記事は雑誌『和樂(2007年1月号)』の転載です。
文/濱野千尋