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(1)〝源氏絵〟とは、源氏物語を題材にした絵ではない
源氏絵は、日本美術の世界では、浮世絵作品のひとつのジャンルをさすものです。武家の世であった江戸時代には、王朝文化はすっかりすたれていました。そんなときに、戯作家の柳亭種彦(りゅうていたねひこ)は、源氏物語の登場人物の名前を借り、応仁の乱前後に各地で起こったお家騒動をテーマにした『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』を発表。当時の人気絵師・歌川国貞の浮世絵を添えた草双紙は一大ベストセラーを記録しました。その後は二匹目のドジョウを狙って、同じ趣向の本が続出。江戸の世に源氏ブームが巻き起こり、『偐紫田舎源氏』の場面を表わしたものを〝源氏絵〟と呼ぶようになったのです。
(2)『源氏物語』に触発され、物語文学がつぎつぎに誕生!
『源氏物語』はその後の文学にどんな影響を与えたのでしょうか――。『源氏物語』より20年ほど後に成立した『更級(さらしな)日記』には、作者が『源氏物語』を愛読していたことが書かれています。また、同じく平安期の『夜の寝覚(ねざめ)』『狭衣(さごろも)物語』『浜松中納言物語』は、『源氏物語』をベースにしていることが見て取れます。その後の『今鏡』『増鏡』、俊成卿女(しゅんぜいきょうのむすめ)の『無名草子』には、物語に対する批評が書かれており、鎌倉期には『源氏物語』をモデルにした『とはずがたり』が書かれました。
さらに、江戸時代の『偐紫田舎源氏』では面白おかしく引用されるなど、日本の文学は『源氏物語』なくして語ることができないと言っても過言ではありません。
(3)悲劇のヒロイン夕顔は実在した!?
京都市下京区には夕顔町という地名の区画があります。そこは、『源氏物語』の夕顔の帖で、光源氏と頭中将(とうのちゅうじょう)に愛されながらもはかなく世を去ってしまった夕顔が住んでいたとされる場所。物語から地名が付けられているだけではなく、この地の民家には夕顔の墓が残されています。もしかしたら、夕顔という女性が実在していたのかも……。
(4)夜の女性が名乗る〝源氏名〟も『源氏物語』から
接客業の女性が仕事で用いる名前を「源氏名(げんじな)」といいます。これは、『源氏物語』の各帖につけられた「若紫」や「葵」などのタイトルが、平安末期の女官たちによくつけられたことに由来します。 それが後の白拍子から江戸時代の遊女へと受け継がれ、接客業の女性が仕事で使う名前を、源氏名と呼ぶようになったのです。
(5)紫式部ゆかりの地で感じる『源氏物語』の香気
上賀茂神社や下鴨神社、京都御所、宇治など、京都には『源氏物語』に描かれた、平安朝の面影を伝える場所がたくさん残っています。また、大津の石山寺、蘆山寺など、作者の紫式部ゆかりの地には、物語の構想を得たとされる部屋や、彼女が眺めたであろう庭が、今も残されており、物語の余韻を味わうことができます。さらに、洛北の雲林院には紫式部の墓があり、千本ゑんま堂には紫式部供養塔があって、『源氏物語』ファンには定番の観光コースになっています。
蘆山寺 栄華がしのばれる紫式部の邸宅跡
紫式部の邸は現在の蘆山寺境内にありました。紫式部はここで結婚生活を送り、ひとり娘の賢子(けんし)/大弐三位〈だいにのさんみ〉)を産み、『源氏物語』を執筆し、その生涯を閉じました。桔梗で有名な源氏の庭を、紫式部も眺めていたのでしょうか……。
●蘆山寺(ろざんじ)
住所:京都府京都市上京区寺町通広小路上る北之辺町397
https://www7a.biglobe.ne.jp/~rozanji/
千本ゑんま堂 なぜか紫式部供養塔が
高野山真言宗の引接寺(通称・千本ゑんま堂)には、紫式部の供養塔があります。直接の縁は無いのですが、開基とされる小野篁(おののたかむら)を尊敬していた紫式部のために、南北朝時代の至徳3(1386)年に建立されたとか。
●千本ゑんま堂(せんぼんえんまどう)
住所:京都府京都市上京区千本通廬山寺上がる閻魔前町34
http://yenmado.blogspot.com/
石山寺 紫式部が着想した部屋がある
中宮彰子(ちゅうぐうしょうし)から物語を所望された紫式部は石山寺に参籠(さんろう)。仲秋の名月の夜、「今宵は十五夜になりけり」という一説からなる「須磨」の帖の着想を得たといいます。そんな逸話から、本堂には紫式部が籠った源氏の間があり、今も紫式部(人形)が執筆中です。
●石山寺(いしやまでら)
住所:滋賀県大津市石山寺1-1-1
https://www.ishiyamadera.or.jp/
※本記事は雑誌『和樂(2007年10月号)』の転載です。構成/山本 毅