日本初の産金の地
先日、ある仕事のために、東北太平洋岸をぐるりと巡る旅をした。自動車の運転はおぼつかないので、スマホの検索機能を頼りに在来線を乗り継ぐ。聞きなれない路線、聞きなれない地名。そして京都以外の土地で暮らしたことのないわたしには珍しい風景と、刺激に満ちた旅の最中、「あれ、もしかして」と思った場所があった。
それは仙台で新幹線を降りて、南三陸町へと向かっていた途中。石巻線・涌谷(わくや)駅を通った時のことだ。「日本初の産金の地」という看板がちらりと見え、わたしはあっ!と声を上げそうになった。
東北の地理に疎いので、危うく通り過ぎるところだった。奈良時代の地名で言えば、陸奥国小田郡。現在の地名では宮城県涌谷町は、奈良時代、日本で初めて金が発見された土地なのだ。
当時、東大寺・毘盧舎那大仏を造営していた聖武天皇にとって、天平二十一年(七四九)に涌谷の地で金が発見されたことは、この国始まって以来の慶事と称するほどの事件だった。それまでの日本では、金は諸外国から輸入せねばならぬ鉱物と考えられていたためだ。
ただ聖武が発願した毘盧舎那大仏は、知恵と慈悲の光明をあまねく放つ、光り輝く仏と仏典に記されている。そのため東大寺の大仏は何としても金で彩られねばならなかった。そんな最中の金発見を喜んだ聖武は、年号をそれまでの「天平」から「天平勝宝」に変更した。また金が発見された旨を国内の神社に報告するとともに、陸奥国国司や金を発見・鋳造した者に位まで与えた。
二十一世紀の現在でも、金は大変貴重な金属として、高値取引が続いている。様々な宝石貴金属類の中でも、金はもっとも親しまれている品と言っても間違いはなかろう。ただこと日本の歴史を繙(ひもと)けば、金が一般に名高い宝石となったきっかけとして、仏教の存在を欠かすことはできない。
それというのも奈良時代に先立つ古墳時代、海の果てからもたらされる金は、尊い身分の人々の装身具としてのみ用いられる金属だった。たとえば埼玉県行田市の小見真観寺(おみしんかんじ)古墳など、各地の古墳からは金メッキを施した装身具が様々出土している。またその発見・発掘に伴い、一九八〇年代に一大古代史ブームを巻き起こした奈良県明日香村の藤ノ木古墳からは、やはり金メッキを施された冠や馬具のみならず、金メッキの銅板で作られた靴が二足も見つかった。
この靴は大きいもので長さ四十三センチ、最大幅十五センチ。ねじった針金の先に円形・魚型の金具をつけた歩揺という部材が、一足あたり百個以上も取り付けられている。あまりに靴が大型すぎる上、歩揺が靴の裏、つまり本来なら地面に接する部分にもついているため、実用品ではなかったと考えられている。ただそれにしたところで、全体が金色に輝く靴とは、現代でもなかなかお目にかかれぬ豪華さだ。
光り輝く金と不可分だった仏教
色といえば、自然の色しか存在しなかった古しえ。太陽の如く光り輝く金は、現在の我々が感じる以上に華やかな存在と映っただろう。実のところ奈良時代以前の金製品の大半は古墳から出自しており、ただ何もない土中から発見されることは極めてまれだ。それは金が権力の象徴として、ただの装飾品を越える特別な存在だったため。この頃の金は恐らく、一般庶民にはなかなか目のする機会のない大変貴重な品だったと思われる。
だが六世紀半ばに日本にもたらされた仏教は、そんな金概念を大きく覆すこととなった。『日本書紀』によれば、日本に仏教を勧めた百済・聖明王は、釈迦如来の金銅仏や経典を送って寄越し、これを受け取った欽明天皇は「この仏は荘厳で美しく、これまでまったく見たことがない」と述べている。
わたしは先ほど毘盧舎那大仏について、仏典に光り輝く仏と記されていると述べた。同様に釈迦如来もまた仏教の教えの中では、「金色相」、つまり全身が金色をしていると記されている。
今日、我々が日本国内の各寺で目にする仏像の多くは、時代を経た木地を露わにした、寂びた色をしている。だがそのほとんどは制作当時は全身を金色に塗られるばかりか、これまた仏法の教えに従って目は青色に、唇には紅が差されていた。つまり我々が「日本らしい」と感じる落ち着いた仏像の色は、長い年月の間にそれらの彩色が剥げた結果に過ぎない。そう、仏教とは本来、光り輝く金と不可分の存在だったのだ。
このため日本で仏教が広まるにつれて、金の消費量ははね上がっていったらしい。新たに作られる仏像は海外からもたらされた金で彩られ、併せて仏具や寺院そのものにも仏の威信を示す金が多用される。仏教は当初、一部の支配階級のみの信仰に過ぎなかったが、やがて各地に寺が建てられ、庶民階級へと教えが広まっていくとともに、金色の輝きもまた多くの人々の接するところとなる。実際に所有できる品かどうかはさて置くとしても、日本人の「金」意識は仏法によって大きく変化したと言えるだろう。
「宝飾の歴史とはすなわち、社会の歴史そのもの」
その上で奈良時代の文献を見てみると、金が今日の我々のイメージする宝石類として用いられている例はあまり多くない。その数少ない例が、『万葉集』に収録されている山上憶良の歌、「銀(しろかね)も 金(くがね)も玉も何せむに まされる宝 子にしかめやも」だ。
銀も金も宝石もどれほどのことがあるだろう、どんな宝も子に勝るものはない――というこの歌は、子煩悩だったと言われる憶良の代表歌の一つ。ただここにおいては、金・銀・宝石類がいったいどんな形で用いられていたかの手がかりがない。
これが『万葉集』の時代から二百年ほど後の平安時代になると、金は光り輝くものの代名詞の如く、様々な史料に登場する。たとえば『竹取物語』では、竹取翁はかぐや姫を見つけた後、節の中に黄金が詰まった竹を頻繁に発見して財を成すし、かぐや姫自身も銀の根に金の枝、白玉を実とする蓬莱の玉の枝を求婚者にせがむ。
また先日、放送が始まったNHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部は、その著作『源氏物語』の中でしばしば金の細工物について描写しているが、中でも「宿木」帖に「沈、紫檀、白銀、黄金など、道々の細工どもいと多く召しさぶらはせ給(沈香や紫檀、銀、黄金など、さまざまな細工をする者を多く召し寄せられた)」と書かれている点は面白い。つまりこの時代には、人目を楽しませる金細工を作る工人がいたというわけだ。仏教伝来をきっかけに多くの目に触れるようになった黄金の一つの受容例と言えるだろう。
今日、金の価格はますます上昇し、人間や社会を装う品というより、財貨代わりに用いられる例も増えている。だが日本人の金への思いは、これまで社会の変化に伴って大きく変わってきた。ならばこれから先にもまた、我々がこれまでとは異なる眼差しを金に向ける日が来るかもしれない。宝飾の歴史とはすなわち、社会の歴史そのものでもある。